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3月12日、地震の翌日、仙台の比較的災害の少ない地域の日記 [災害等]

3月12日土曜日
地震から一夜明けましたが、
一晩中余震はありました。
マンションの上階では、大きく感じるのですが、
一方で震度3くらいまでは、
それほど怖さを感じなくなりました。

昨日はやたら寒く感じたのですが、
この日は暖かくなりました。
夜明けごろ、公園の水道はどうだろうと
公園まで歩きましたが、水道は出ませんでした。
(後で子供に聞いたらもともとでないようです)
道々の路肩や駐車場では、
多くの人が車中で夜を明かしていました。

少しまた眠り、
朝、もう一度様子を見に出かけたところ、

臨時の公衆電話が、あちこちに設置されていました。
九州の妹と連絡を取ることができました。
結構みんな並んでいることもあり、
手短に電話を切り上げていたのが印象的でした。

朝早かった記憶ですが、
スーパーマーケットやコンビニに
長蛇の列ができていて、
とりあえず私も並びました。
物を売っているのですが、
袋かしやせんべいなどで、
うっているものを交わされている状態でした。
停電のため、スーパーでは中に入れていませんでした。

昨夜遅くに実家の母親から
大丈夫というメールが来たのですが、
詳細はまるでわかりません。
こちらも電気は通じず、
電気が通じないことによるマンション断水がおきていて、
付近は断水していないということもあり、
母親の安否と水を求めて実家に替えることにしました。

このときは、普通にタクシーにきてもらいました。
実家にいるのかいないのかはっきりしていないこともあり、
中途半端に食料、衣類などを持って出かけました。

実家の近くの団地はひどいもので、
バス道路が隆起したり、陥没したりして、
通行止めのところが何箇所かありました。

迷路の行き止まりのようなところを回避しながら、
ようやく実家にたどり着きました。
母親は元気でしたが、
ライフラインが絶たれていることは同じでした。

母親は、偶然石油ストーブを購入していて、
米をたいていたり、煮魚を作っていたりと、
確かに土曜日行くといっていたのですが、
くるものだと思っていたようでした。

このとき、母親の顔を見て安心したのですが、
同時に、少しずつ、
自分たちが暖かいものを食べていないことを自覚し、
水も出ていないということを認識し、
自分たちが被災したということを受け入れ始めました。
昨日は、まるで避難民みたいなんて話をしていたのです。

飲み水は、母親が偶然備蓄していた分と、
こちらもペットボトルを何本か持ってきたので、
当面心配はないと思ったのですが、
トイレの排水ができず、
これが一番不便です。

妻がトイレタンクをこじ開け、
母親が無意識に風呂に水を張っていたのが幸いし、
現在も後数日は間に合いそうです。
しかし、いまだに断水が続いています。

明るいうちに、ろうそくを探し出し、
その他準備をし、
妻の実家と連絡を取ろうと
公衆電話を探しに行ったのですが、
ありません。

街中は臨時の公衆電話があるのですが、
少し郊外になるとなかなかありません。
少し離れたジャスコに行ったら
あるにはあったのですが、
音が鳴らず使えませんでした。

ジャスコの駐車場などは惨憺たるもので、
亀裂が入っていたり、
エベレスト山脈の原理の隆起があったり、
どういうわけだか、
駐車区画1台分の地面が陥没し、
車が半分しずんでいるというのも
目にしました。
長蛇の列ができていました。
会場整理の人のハンドマイクの声だけがやけに響き、
日没になりそうだったので、
並ぶのをあきらめ帰宅しました。

ホームセンターに先に立ち寄ったのですが、
携帯充電器等必要なものはすべて売切れでした。
何を求めて並んでいるか、たずねましたが、
明確な回答をする人はおらず、
何かあるのではないかということで
並んでいるようでした。

帰宅して、母が作ったご飯を食べ、
日没の6時には布団に入り、
程なく眠りました。
なんと、みんな朝まで眠りましたから、
私も10時間くらい、
子供は12時間以上眠りました。

夜も昼も、消防車や救急車のサイレンが
断続的に続いていました。
余震も相変わらず続いています。

妻の実家とはまだ連絡が取れませんでした。
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