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当事者の感情を全面的に肯定することは支援ではない。但し急性期は別。 [事務所生活]

急性期というのは、端的に命の危険がある場合です。
また、完全に孤立に入るような後戻りできない場合です。
この時は、完全肯定でもやむを得ない場合があるようです。

しかし、そのような対応を
急性期を過ぎても続けることは、
当事者をさらなる困窮に追い込むことがあります。

感情、特に表現された感情は、
例えば、言葉とか、表情とかそういうものは、
必ずしも的を射ていない場合が多くあります。

一番不確かなものとして、
法律実務の勉強で教わるものは、
男女間の感情だということです。

現在の雇用不安、低所得、高物価の状況で、
年金など老後にも不安がある場合、
それだけで精神的に圧迫されるます。
それが原因で、家庭不和等が起きることはよく見ています。

ヴァーチャルな他人、テレビの中の他人と比べて
自分の不幸せを感じやすい社会なのかもしれません。

このような漠然とした不安を
人は解消したくなります。
手っ取り早くは、
身近な人に原因を求めることになります。

これが病的に現れるのが、
認知症の物盗られ妄想なのでしょう。

そうした場合、
妻は、生活の苦しさを
夫に対する不満として表現するわけです。
実際に何らかの不満があるのは
むしろ通常でしょうし。

この場合、支援者の中には、
夫が悪いということで、
妻の感情を全面肯定してしまうことがあります。

そして、妻が病的な悩みを抱いている状態の場合、
DVがあったと決め付けるわけです。
そして、離婚をさせるわけです。
ところが、離婚したあと、
養育費が十分払える資力がない夫もいるわけで、
生活に困窮してしまい、
夫のもとにも戻れずに
追い込まれてしまうわけです。

何らかの事件での慰謝料請求の場合も
当事者が傷ついていることは間違いないのですが、
それを慰謝料請求という形で表面化することを
望んでいるとは限りません。

事件の筋、加害者の心情をリアルに見ると
結果として被害を受けている点は変わらないのですが、
本人にとっては意味合いが違うということもあります。

例えば、別の方向での再出発が可能だったり、
将来的な条件作りをすることで
解決にしたいという場合もあります。

ところが、第三者から見ると
最初の被害者の言動を全面肯定し、
その被害は許せない
徹底的に制裁を加えなければならないとして
話をおおごとにし、訴訟だ損害賠償だと
盛り上がってしまいます。

当事者の心は変化することがむしろ通常です。
これは、第三者はなかなか理解できない。
第三者は、一度その相手を許さないという怒りをもつと
疲れること、飽きてしまうことはあっても
方向が変わることはありません。
もともと他人事だからです。

それがいつしか、自分の怒りに取って代わるのです。
当事者が支援者に、全面的に従属してしまうと
自分はもう終わりにしてもらいたいのに、
そんなことを言うと、裏切りだと思われるという
恐れが生じてしまいます。

後戻りしにくくなるという構図があります。

支援者は、当事者の一時的に起きた感情を
固定化してはいけません。
「やっぱりやめた」という自由を尊重しなければなりません。
人の心は単純でもないし、固定されてもいません。

また、感情的な部分を我慢しても
結論を出さなければならない時があります。
訴訟などには制約があります。
第一、被害の代わりの方策を考えているわけです。
最初の被害がなかったことになるわけではありません。
亡くなった人が帰ってくるわけでもありません。
不満が残るのは当たり前です。

それにもかかわらず、
当事者と時間をかけて話し合い、
なんとか当事者も自分の感情を抑えて、
納得しようとしている時に、

「納得かないんだけどしょうがないんだ。」
という当たり前の言葉を
当事者から聞いた支援者は、
当事者の言葉に全面的に寄り添い、
「あなたそれで納得できるの?」
「もっと、要求してみたらどうなの?」
言葉を投げかけるわけです、

そうすると
どうして、被害者である自分が
我慢しなければならないんだ
という当初の感情が蘇り、
我慢が効かなくなってしまい。

電話で、「やっぱり、あの打ち合わせは無しにしてください」
ということになってしまいます。

その結果どうなるでしょう。
話し合いは決裂し、
相手方が示していた譲歩が撤回されます。
判決ではさらに低い到達となり、
敗訴判決になる場合も少なくありません。

その結果どうなるでしょう。
何も残らないことになってしまいます。

自分が損するだけならば良いです。
一番に利益を考えなければならない
真の当事者である子どもとか、病人とか
亡くなられた人たちの名誉も守れないことになります。

全てが終わって、今まで助けてくれた人も去っていきます。
孤立を深めることになるわけですが、
調子良く焚きつけた第三者は、
通常遠く離れたところにいて、
自分ではなく
裁判所や弁護士を呪っているわけです。

その後の支援をすることはめったにありません。
裁判が終われば、連絡もなくなります。

では、支援者は何を肯定すれば良いのでしょうか。
その答えの一つは、
自分が責任を持てる範囲で肯定するということです。
その部分をえぐり出して肯定するという部分的承認です。

わからないところはわからないというべきです。
当事者が支援者に対してすべてを語っているということはありません。

例えば、訴訟の方針に納得いかないのであれば、
その方針に至る客観的な状況をまず聞くべきです。
話し合いに2時間かけたとか
手紙のやり取りがこれだけになったとか、
そうすると
ああ、納得いかないけれど、何か理由があるのだな
と思うべきです。

当事者が結論を出したのに
事情もよくわからない支援者が
支援者である自分が納得しないからといって
その結論を翻意させることはしてはいけません。

弁護士のセカンドオピニオンでも、
自分が気にしていることでもあります。

自分にはわからない部分があり、
当事者も語らない部分がある。
それがあるだろうことを
どこまでリアルに想像できるかが
鍵になることがよくあります。
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