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宮崎の事件の弁護士批判キャンペーンに弁護士が参加しない理由。本当は弁護士も人前で怒りたいけれど。 [刑事事件]

昨日の私の記事は、
いかにも歯切れの悪い文章でした。
うまく伝えられないからやめちまおうかとも思いましたが、
それではこのブログを続けている意味もないので、
もう少し、努力してみることにします。

弁護士も、家では
ネットやテレビ、新聞のニュースで、
瞬発的に怒りまくって、
罰しなくてはいけないなんて息巻いているわけです。
職業を離れた私は、
人権感覚よりも処罰感情が強いという自覚もあります。

また、弁護士同士が約束事が通じる中で、
素に戻って、ありゃだめだ許せないなんてことを言うこともあります。

しかし、対外的に、弁護士以外の人に対して、
弁護士だとわかられて発言するときは、
自分の感情をぐっとこらえて(今は自然にそうなるのですが)
言わなくてはいけないことを言い、
言ってはいけないことを言わないということなのです。

特に、自分が担当していない事件についてや
裁判のあり方については徹底しなければならないと思っています。

頑張って理由を述べます。
では、

<無罪推定と人権感覚>
裁判で有罪とならないうちは
無罪かもしれないということで扱わなければなりません。
初めから有罪だという扱いをしてしまったことによって、
無実の罪をきせられた人がいたので、
このように、無実なのに、何年も刑務所に入れられたり
死刑になるということを避けるためには
無罪推定の原則はどうしても必要な原則です。

本件のキャンペーンで
被告人が有罪であることを前提に
キャンペーンが行われているとしたら、
法に触れるというわけではありませんが、
無罪推定の原則には反しますので、
弁護士はできないのです。

無実の人に対する誤審は、
いかにも有罪らしいということから生まれます。

「そんなこと言ったって被害者がかわいそうだ
重大な人権侵害があるじゃないか。」
というご意見はあると思うのです。
でも、裁判にかかわる弁護士は
無罪原則を貫かなければならないと思います。

「人権感覚」という言葉あります。
かわいそうな人をかわいそうだと言って
救済するのも人権感覚でしょう。
とても大事なことだと思います。
悪い人を悪いという正義感も必要です。

でも、弁護士だけは
このようなメジャーな感覚では
職業として成り立ちません。

みんながこいつは悪い、どうにでもしろ
と世間が大合唱しているときに、
自分だけは弁護するというのが、
弁護士という職業に求められているからです。

ある意味、被告人、特に真犯人である被告人は、
究極のマイノリティーかもしれません。
究極のマイノリティーに職業として寄り添うのが
弁護士としての「人権感覚」なのです。

このような刑事弁護は、弁護士だけが行う仕事で
弁護士資格のない人はやることができません。
弁護士は、特に責任が重いということにもなります。

悪いことを悪いといえる検察官が
とてもまぶしく感じることがあるわけです。

おそらく、再審無罪となった刑事事件で、
被告人が罪を認めないという報道があったら
人を殺しておいて罪を認めないなんて
なんて悪逆非道な奴だという批判があったのでしょう。
そのときインターネットがあれば、
キャンペーンも行われたのでしょう。

治安維持法下における弾圧事件も同じでしょう。

みんなが石を投げる事件でこそ
弁護士としての人権感覚が試されているわけです。


<報道は真実を伝えないことがある>

刑事事件をやらない弁護士でも、
マスコミ報道によって
依頼者が苦しめられたという経験をしているはずです。

一方的な視点で書かれて、
それが真実のように世間から思われてしまう。
ますます依頼者が孤立していく。
社会的信用を
必要以上に失っていく
ということを経験しています。

人間同士の紛争ですから、
どちらかに肩入れしたならば
どちらかの落ち度が際立っていくことになるのは
当たり前のことなのに、
一方に肩入れしすぎてしまう
ということもある程度あるわけです。

こういうときもマイノリティーが作られてしまうわけです。

また、
弁護士は証人尋問をして、その証言が
確かなのかを吟味することが職業として求められています。
その人から出た言葉なのですが、
それが正確であることはなかなか難しいわけです。

その人は体験したことを話すだけなのですが
まず、そもそもきちんと見聞きしたのか
変な思い込みはないか。
覚えているときにほかのことと一緒になってしまっていないか。
記憶通りに話しているのか
言葉の使い方を間違って別の意味のことを言っていないか
等を確かめる訓練を受けるわけです。

人から聞くのと、また別の人から聞くのでは
同じ事実でも全く違った風景になることもあります。
ましてや、被害者サイドに立ったマスコミ報道で
それを鵜呑みにするということは
職業的にありえないことなのです。

(家のワイドショーを見てぶつくさ言っている
素の人間に戻る時間は、そんなこともないのです。
あくまでも対外的な話ですよ。)

だから、弁護士は、
ほかの弁護士の事件について評価することはあまりありません。
事件というものはたいてい複雑で、
1時間程度話を聞いても全貌がわからない
ということがほとんどだと思っています。
何カ月も、何年も事件と向き合った担当弁護士とは
情報量が違いすぎます。
ある部分だけを取り出して
従前担当していた弁護士を批判するということは
慎むべきだと思うからです。
弁護士のセカンドオピニオンが難しい理由があります。

事実に謙虚であれ
それを肝に銘じない法律家は
大変危険な存在ということになります。

<被害感情と第三者の存在>

実際、刑事弁護に示談はつきものです。
相手は被害者ですし、こちらは加害者の弁護人です。

おそらく多くの国民は、
弁護人というのは、こずるい方法で
被告人の刑をまけてもらう値切りのプロだと
思われているのかもしれません。

実際は、そんな被告人の利益を前面に出して
示談が成立するということはあまりないのではないでしょうか。

被害にあわれた方の被害をおもんばかり、
少しでも被害回復していただく
刑が軽くなるのはあくまでも結果ということでなければ
うまくいかないのではないかと考えています。

弁護人だから示談するわけですが、
被害者の利益にもなるように動くわけです。
これはとても良い仕事になることがあります。
加害者側として被害者に寄り添うわけです。
実際に被害者とのやりとりで
人情の機微に触れたり、勉強させてもらうことも
多くあります。

ただ、被害者の方は被害にあわれているわけで、
多くは、加害者に怒りをお持ちです。
さらに、再び被害にあうかもしれないという
危機感があるだけでなく、
被害にあったことを責められたりして、
自尊感情が低下していることもあります。

弁護士がフランクに接しているつもりでも
相当注意しなければ、
危機意識を活性化させ、
怒りが増幅するだけでなく、
その怒りが弁護士に向かうことも
ありうることです。

私は丁寧に丁寧に接するべきだと思うのですが、
いろいろな考えの弁護士はいるでしょう。

また、気を付けなければならないのは、
一対一で話しているとき、
ああ、いい感触だなと話を勧めていても、
被害者の方は、相手が弁護士だからということで
遠慮してあわせていただいているということもありうることです。

さらに、その時はいい感じで話していても
あとから、あの言葉何なんだと抗議されることもあります。
依頼者との関係でもありうることです。
事件の種類によっては、
気分が変調することが当たり前ということもあるし、
その時のやり取りを忘れてしまうということも実際あるわけです。

だから、私は、
微妙な事件の場合、
一対一で会うことをなるべく避けて、
被害者の方に同行していただく方と
一緒にあうようにすることもあります。

ところが、一番その必要性の高い
性犯罪の被害者の方は、
お身内にも事実を話せないということが
普通によくあります。

こちらが最善の注意を払って時間もかけて
相手方を傷つけないようにお話し合いをしても、
誰かとの電話一本で
コロッと結論が変わることもよくあります。
あるのです。

その場にいたら、
なんということもない話が、
第三者からすれば気に食わない
「あなたそればかにされているわよ
もっと主張しなさいよ。」
の一言で変わってしまうのです。

普通の弁護士ならば
そんな経験山ほどあるでしょう。

今回の宮崎のケースは
真実がわかりませんので、
弁護士は、論評を避けているはずです。

もしかしたらキャンペーンの言うように
高圧的に、告訴を取り下げるように脅かしたのかもしれません。

しかし、一般的には、以下のようなやり取りがあった
可能性もあるわけです。

弁護士「現在、あなたは告訴をしていらっしゃいますね。
でも、被疑者は合意があったと主張しているんです。
あなたの言っていることを疑っているわけではないとしても、
そうなると立場上私も、無罪主張しなければならないし、
無罪を裏付ける可能性のある証拠を提出しなければ
ならないのです。ビデオテープです。
これが、裁判官や検察官もビデオテープを見ることになります。」
被害者「傍聴人も見るのですか」
弁護士「ならないかもしれませんが、裁判官が判断することなので」
弁護士「告訴を取り下げていただけるならば、
このビデオを証拠で出す必要がなくなります。
私が責任を持って処分します。」

これが、被害者が第三者にこれこれこうだったと話すわけです。
第三者「じゃあ、ビデオを証拠で出さないから
告訴を取り下げろってことなんじゃないの。
示談金についてはいくらって言ったの?
被害者「示談金の話はされていなかった。」
第三者「金も出さないで告訴を取り下げろってことなの?」

そうすると、確かにそうだなと被害者の方は思われるわけです。
客観的な事実だけをつなぎ合わせると
実際そうなるのでしょう。
被害者の方も、「弁護士に自分が疑われていたのかもしれない。
声を上げることも否定されたのか。」と
そういう側面を強調して考えていくようになるでしょう。

第三者の方に悪意があったわけではないのですが、
その場にいないことで話が変わっていくことがある
ということを言いたいのです。

また、あくまでもそういう可能性があることを
弁護士は考慮しなければならないということを言いたいだけです。
宮崎の事件についてこうだったのではないかということを言いたいのではありません。

事実に謙虚であるということは
一つの視点で決めつけないということだと思います。

わたしならば、こういうケースは
被害者の方と一対一で会わず、
この第三者の方に付き添ってもらうことを
提案するでしょう。

このような体験をしているはずの弁護士は
事実を確認する方法もないにもかかわらず、
本体の刑事裁判の結果が出ていないにもかかわらず
キャンペーンに参加しないのは
こういう理由があるからなんです。
ということを、
賛成していただかなくても
そういう考えもあるかもしれないと
思っていただければ
とても幸せです。




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