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衝動的行為とは何か。なぜ、犯罪者はストレスをいいわけにするのか。 [刑事事件]

衝動的行為とは何か。なぜ、犯罪者はストレスをいいわけにするのか。

怒りという感情が危険に対する反応だという理解が一般的になってきています。人に限らず、動物は、身の危険を感じた場合、危険を解決して身を守るために、「逃げる」、「戦う」という反応をするわけです。「怒り」とは、このような「戦う」という手段を選択した場合の感情的表現ということになります。

もっとも、現代の人間が戦う場合、あれこれ戦略を立てて結果を出すようにするわけですが、これは本能的な危険回避行動ではありません。念頭においているのは、さしたる道具もないという前提の人間です。この区別はとても大事です。いったん、現代の諸現実を離れて、理念的に考えなければなりません。原始時代を念頭におくことがわかりやすいと思います。

戦うための自然な感情は「怒り」です。原始的な戦いの場合の感情というべきかもしれません。逃げる場合の感情は「恐怖」ということになります。

このように危険を感じた場合は、他のことを考えずに、無我夢中で戦う、一目散に逃げるという、その行為だけをやることが、危険を回避するための有効な方法だということになります。戦う時も、相手の痛みや感情を考えずに、相手を打ち負かすことに専念しています。このようにして、危険のない状態という結果を獲得しようとします。

脳は、動物として生き延びるために、危険を感じた場合、このようにあれこれを考えることをやめて、逃げたり、戦ったりすることに集中する仕組みを作ったのです。もっとも、そのような仕組みを遺伝子に持つ動物の子孫が生き残っているということかもしれません。

ところで、「あれこれ考える」ということはどういうことでしょうか。

戦う行為や、逃げる行為が、危険に対する反応、怒りや恐怖という感情による行動だということにヒントがあるわけです。これの反対の行動ですから、感情をそのまま行動に移さないということになるでしょう。その時に何を考えているかということです。

例えば、デパートにある高級時計がほしいとします。これが欲しいということで、感情のままガラスケースを破って持ち去ったらどうなるでしょう。当然防犯係に捕まって、警察に突き出されることになるわけです。それを考えますから、無茶はしないわけです。また、もっと理性的に考えることができる人は、他人の物を、対価を払わないで持ち出すことは不道徳なことだということを認識していますから、欲しいという感情があったとしても、手に取って持ち去るという発想にすらならないでしょう。意識して考えているわけではないのですが、欲しいという感情ととるという行為の間に隔たりを持つことができるのです。

法律的には、感情と行動のクッションは一つの能力として扱われています。これを「事理弁識能力」などという言い方をしますが、要するに、「自分がこれからやる行為を実行してしまったら、問題が起きてしまう、だからやめよう」という精神活動の能力です。

この能力は、程度の問題はありますが、人間だけが持っているわけではありません。犬も、人間の手のひらのえさを、人間の手を噛まないようにして食べますね。馬も、落馬した騎手を踏まないように、よけて走ります。群れを作る動物には多かれ少なかれ備わっている能力なのです。しかし、犬も、強い危険を感じていたり、怒りを感じていたりすると、飼い主を噛んでしまうこともありますし、馬も猛獣に襲われていたら人間をよけて走るなどということもできないかもしれません。
人間も同じです。他人から襲われれば、相手が傷つくことを考えずに戦うでしょう。命の危険があって逃げる場合には、他人の物を壊すこともするでしょう。

要するに、これをしたらどんなことが起きるだろうかという考える余裕のないときに、後先考えずに安全という結果に結びつく行動をするということになると思います。これは、危険を回避するための脳の仕組みがそうなっているということです。

問題は、そのような命の危険がない、それどころか何らかの危険もないような場合に、あとさきを考えないような衝動的行為が行われるのはどうしてかということです。

万引き犯のほとんどは、その物を盗まなくても死ぬわけではありません。虐待のような衝動的な暴力が起きるときも、暴力をふるう人が何らかの危険にさらされている事情もないように思われます。それでも、後先を考えないで、商品を万引きするし、怒りに任せて子どもを殴ったりけったりするのです。もともと、きちんと考えらえない、能力のない、生まれながらに危険な人間なのでしょうか。

結論を先に言いますが、弁護士の経験から言って、大部分の犯罪には、先天的問題以上に、その人の置かれた環境が、その人の思考活動を妨げる事情となっているということが実感です。あとさき考える能力がもともとないのではないということです。理由があって、能力が発揮できないということが正しいのだと思います。そしてその理由こそが、一目散に逃げる、無我夢中で戦うという、
危険から逃れるという結論優先という脳の仕組みにあると考えるのです。

それを解くカギが、人間には二つの危険があるということです。これが対人関係学的アプローチです。

一つ目の危険は、他の動物と同じ、身体生命の危険です。猛獣に襲われるとか、崖から落ちるとか、一般的に危険といえばすぐに想像がつく危険です。人間に限らず、動物にはこの危険に対処するための方法が、遺伝的に用意されているということはこれまでお話ししてきたとおりです。怒りや恐怖という感情は、体の変化を伴います。血圧や体温が上がり、脈拍が多くなり、血液が内臓から筋肉に集中していきます。逃げたり、戦ったりしやすいような仕組みを脳が体全体に変化を起こさせるわけです。この仕組みとともに、脳自体も、余計なことを考えないように、あとさきを考える脳の部分の機能を停止させるのでしょう。

人間には、このような危険のほかに、二つ目の危険として、対人関係からの追放の気配を危険と感じるシステムがあるというのが対人関係学の主張です。これは、仲間から追放されるというそのものずばりというよりは、追放を連想させる、追放の前触れとでもいうような事情を危険と感じる仕組みです。例えば、一人だけ、遠ざけられる、口を聞いてもらえない、情報や分配物を与えられない、意見を否定される、発言をさせられない、人格を否定される、暴力を受ける等々、実際に群れの仲間から追放の前触れになるような扱いを受けること、これが第一です。第二は、実際はそういう扱いを受けていないにもかかわらず、自分の行為によって追放に結びつくことをしてしまう、あるいはしてしまうかもしれないという場合です。例えば、なんらかの失敗をしてしまうこと、尊重をされている事情が失われること(稼ぎ手が失業して収入を得られなくなるなど)、そういう事情がある場合に、危険を感じます。その証拠に、例えば何か、自分の立場が変わるかもしれないという時には、身体生命の危険がある場合のように、心臓がドキドキしたり、カーッと熱くなったり、落ち着いてものを考えられない状態になるでしょう。試験の時に、心臓がドキドキしたり、カーっと熱くなったりすることは、むしろマイナス効果であり、よいことは何もないにもかかわらず、反応してしまうということになります。

では、なぜ、一見無意味に思えてしまう反応をしてしまうのでしょう。これは、まさに、対人関係上の危険を回避するシステムなのです。要するに、これは危険だということを自覚させるシステムなのです。周囲から、自分が疎まれている、仲間はずれにされそうだという危険を感じ、自分の行動を修正する、そうやって群れにとどまるという仕組みです。危険を感じ、それが重大なことだと感じることができる遺伝子を持った子孫が、群れを形成し、お互いを守りあい、生き延びてきたと考えるのです。

身体、生命上の危険と、対人関係上の危険は大きな違いがいくつもあります。その中でも特徴的な違いは、身体生命上の危険は、短期的に結果が現れます。崖から落ちて全身を打つ場合は、数秒程度のことでしょう。ライオンの檻にうっかり入ってしまった場合も同様でしょう。これに対して、対人関係上の危険の場合は、追放という結果が出るまでは、相当期間がかかることとなります。多くは、追放という結果自体は出ないことが多いと思います。対人関係上の危険は、いつまでもいつまでも、危険を感じ続けるということになってしまいます。

ところで、危険を感じた場合に取る反応として、逃げること、戦うことの二つがあるという言い方をしていましたが、実はもう一つの反応があります。それは凍り付くという反応です。

これは身体生命の危険に対する反応の場合は、わかりやすいと思います。とてつもなく高い崖から転落した場合、餓えたライオンの前に放り出されたとき、どうすることもできない場合、立っていれば足がすくんで動けなくなりますし、気絶してしまうでしょう。生きようとする活動を停止してしまうわけです。こうなってしまった場合、こういうやり方が、比較的生き延びる確率が高くなるという人もいます。自分がどうしようもない状態にあると認識してしまった場合、生きるための活動をやめようとすることも理由のないことではないのかもしれません。

もっとも、このような反応は、必ずどういう危険の場合、どういう反応をするかということが決まっているわけではありません。力が強くて、多少のけがはしても生き延びられるはずの人が凍り付いたりしたり、力も弱く上背も小さいのに、立ち向かっていく人がいたり、まさに人の個性の違いがあります。これは、群れの中の役割の違いが反映しているような気もします。

さて、対人関係上の危険が慢性化して、修復不可能だとしたら、どのような反応が起きるでしょうか。対人関係上の危険は、必ずしも修復する必要もなく、対人関係を離れてしまえばよいのですが、いろいろな事情でその対人関係から離れられない場合もありますし、その対人関係から追放されたら生きていけないように反応してしまう場合も多くあります。このことは、人類の群れというものは、ここ200年より前は、多くの人間は生れてから死ぬまで単一の群れで過ごしていたということを指摘し、およそ群れに所属している以上、追放されないという意識が生まれてしまうということをここでは指摘するにとどめます。

追放されることを予想される事情がたくさんあればあるほど、人間は、その群れにしがみつこうとしてしまいます。追放されまいと焦るわけです。しかし、何をやっても改善されない、むしろ悪化するばかりだということになれば、やがて、群にとどまることは不可能だという認識を抱いてしまいます。

そうした場合、ここは確かに個性によって変わるところですが、少なくない割合で、不可能を認識した場合の反応をする人たちがいます。身体生命に関する危険を感じた場合も、対人関係の危険を感じた場合も、反応として起きる現象は同一です。対人関係上の危険を感じた場合も、生きるための活動をやめるという反応が出ることが自然だということになるはずです。ただ、身体生命の危険と、対人関係上の危険は、結果が出るまでの時間に違いがあります。生きるための活動をやめるといっても、気絶したり、体が硬直したりすることが多いわけではありません。しかし、こういう場合もあるのです。ただ一般的には、次の症状が出現していきます。

朝起きない。食事をしない。他人と接することをしない。喜びや悲しみという感情を抱かない。夜も寝ない。それの究極の形が自死ということになります。

危険を感じている間中、戦う場合の怒り、逃げる場合の恐怖、凍り付く場合の無感情に支配されています。頭の機能の一部である、こういうことをしたらこういう結果が現れるということを考える機能も停止してしまいます。これは、前頭葉前野腹側部という大脳の場所がつかさどっているということも解明されています。

対人関係上のストレスというのは、自分が特定の対人関係から追放されるという危険を認識し続けており、その結果、恐怖、怒り、無感情などの反応が持続しているということを言います。これが慢性化していくと、大脳の前頭葉前野腹側部の機能が弱くなり、自分がこういうことをやったらこういう面倒なことになるという思考ができなくなるわけです。その結果、自分の望んだ結論を直接的に実現しようとしてしまいます。物が欲しくなれば、物が禁制品であろうと他人の物であろうと、手を伸ばして自分の者にしてしまいます。気に入らない人がいれば傷つけたり、殺したりしてしまいます。他人を思い通りにしたければ、暴力をふるってでも支配しようとします。泣き止まない子供がいれば、気絶させてでも泣き止むという結果を得ようとします。

そして、これは慢性的にそのような犯罪傾向在り、犯罪を犯すというものではなく、ストレスによる葛藤が異様に高まると、前頭葉前野腹側部の機能が急激に停止して、結論に直結する行為を躊躇なく断行するという現象に出るわけです。薬物による犯罪の場合は、薬物の影響で、前頭葉前野腹側部が覚醒していない状態が作りだされることもあるのだと思います。

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