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人はなぜ人を殺すのか、殺すことができるのか 対人関係学的考察 [刑事事件]

特定の事件の弁護の目的の文章ではありません。
あくまでも対人関係学的な考察です。

最近若い女性が犠牲となる殺人事件が多くあります。
ニュース番組こそ、R指定をしてほしい番組になってしまっています。

「殺さなくたっていいじゃないか。
 なぜ殺すんだ。」
と弁護士を離れた家庭での私などは
激昂するのですが、

おそらく多くの方々は、
「そういう悪い奴がいる。」
というくくりで、無理やり納得しているのかもしれません。

だから、
なぜ殺すのかという疑問が出ても
どうして殺すことができるのか
という問題提起を設定することは
なかなか難しいかもしれません。

しかし、どんなに刑罰を重くしても
殺人事件が減るわけではないでしょう。

人を殺す仕組みを考えて
殺す環境をなくしていくことが
本当の予防につながるわけです。

例えば、
「最大の刑事政策は、社会政策である」
という格言があるのですが、
これは、刑事事件と貧困が関係していて、
貧困問題を減少させれば
刑事事件も減少する
という考えに基づいています。

実は、殺人の環境を減らすということは
国家や社会が成立した段階から
歴史的に考え続けられていることなのですが、
時々の為政者によって濃淡がある
ということになります。

この問題を考えるにあたって
まず、
「人が人を殺すことには抵抗がある」
ということから出発しなければなりません。
そういう普通の人が殺人の実行行為を行う
それはなぜかという視点が大事だと思います。

実際殺人事件の容疑者と
仕事柄話をすることがあるのですが、
警察署の面会室という設定がなければ
その人が特別な人だということは
意識することができなくなるほど
会話は普通に成立しているのです。

なぜ、人は人を殺すことができないのでしょう。
(これが私たちの日常の社会だということを
 意識してください。)

知らない人とすれ違っても
特に大きな危険は感じません。

人間は人間に危害を加えないものだという
慣れのような記憶が形成されていることになります。
言葉にならない約束とでもいうべきかもしれません。
暗黙の了解というものかもしれません。

また、理由なく誰かを攻撃すると
誰かから反撃を受ける
自分が危険な目に合うということも知っています。

それを支えているのが
共鳴力、共感力だと思います。
不条理な攻撃を受ける人を見たり
想像するだけで、
怖い気持ち、悲しい気持ち、不快な気持ちという
負の感情が噴出してきます。

被害を受けている人を見て
被害者が感じているだろう負の気持ちに
共鳴してしまう。
加害者に対して「悪」という規範的評価をしてしまう
これが無意識に行われています。

この共鳴力、共感力は、
二重に個人を守ります。

一つは、誰かが苦しんでいるのを見た場合
そこには危険があるということがわかります。
どの程度の危険かということも
共鳴力、共感力で判断することができます。
その結果、その危険に近づかない
という方法で自分を守ることができます。

二つ目は、誰かが苦しんでいるのを見た場合、
共鳴力、共感力によって
その人を助けようとします。
うまく助けることができれば、
その人が助かることによって
群れの力が弱まることを防ぎます。
群れの力によって自分を守ることができます。

自分にとっての危険も排除することにもなります。

人の苦しみに共感するのは、
自分を守る人間のシステムだということができます。

だから、何らかの怒りで
相手に対して報復感情のまま攻撃しようとしても、
人間を大事にしようという感情が
本能的に湧いて出来るので、
人は、他人を殺すまで攻撃することが
本来できません。

他人を死ぬまで攻撃できるのは、

攻撃対象者が自分と同じ群れだと認識できなくなっている場合
自分の身を守るという防衛の意識がある場合
ということが言えることになると思います。

さらにいえることは、
「人間は大事に扱われるべきものだ」
という観念あるいは無意識の考えが、
失われている場合、弱くなっている場合、
相手の苦しみや悲しみ辛さに共感、共鳴できなくなる
ということを多く感じます。

この場合、被害者の人間性を考慮できなくなる
ということはもちろんですが、
自分自身を大切にする
という方向性も失われ、弱くなります。

多くの人間は、
自分だけ良ければよいというふうに
思うことができず、
およそ人間一般に対して見限っていく
という性質があるようです。

だから、第三者の目も気にならなくなるわけです。

どういう場合
人間を大事にしようという気持ちが失われるのでしょうか。

第一には、
自分の身体生命に危険があり、
相手を叩き潰すことによって
その危険を解消することができる場合でしょう。

戦争の場合などが典型的でしょう。

しかし、その時は人間を大事にしない局面的な場面でも
戦地から自宅に帰るなどして日常に戻ると
その他人を攻撃したことを思い出して
自分や家族を大切にできなくなっていきます。
自分を大切にできなくなる究極の形態が
自死かもしれません。

第二は、自分の対人関係的立場
職場や家族、学校、社会
自分の立場が不安定で、
対人関係的な危機意識がある場合です。

自分が他人から尊重されていないという意識は、
(どういう場合にこういう意識を持つかも
 人それぞれというところは確かにありますが)
自分が、常に群れから排除されてしまうという
危機意識を持ち続けていることになりますから、

他人を尊重しようという気持ちも薄れていきます。
もちろん自分を尊重しようという気持ちも薄れていきます。
他人と自分を尊重しない結果が
他人を殺すことにつながるわけです。

人を傷つけることの
抵抗力を弱めるわけです
(閾値が下がる)
人の生き死にに対する
抵抗もなくなるわけです。

また、自分が尊重されたという体験のない人は
他人を尊重するということを理解することは難しいです。

このように人の苦しみに共鳴共感ができないような
尊重されていないと感じる環境が成立した場合、
怒りにより、自分を守るという行動に
歯止めをかけるメカニズムが存在しなくなるわけです。
相手が人間だからということは
何の歯止めにもならなくなってしまうわけです。
また、極端に言えば
相手が死なないと安心できない状態ということができます。

貧困と刑事事件の関係ですが
この点も二つの側面から考える必要があります。

一つは、貧困のために生物的限界にあるような場合、
自分を生き物として尊重されていないという
認識になりますので、
自分や他人に対する攻撃の抵抗力が弱くなります。

もう一つは対人関係です。
文化的な貧困
死ぬということはないけれど、
社会的に当たり前の人間としての扱いを受けていない
ということは、
社会的存在としての人間として
尊重されていないという意識を持ちますので、
やはり、自分や他人を大切にしようとしなくなります。
自分が社会から不要な存在だと思われている
という意識と共通するかもしれません。

だから何か些細なことでも
自分が攻撃されているという気持ちも出てきますので、
反撃をして自分を守ろうという気持ちを強く持つ人が
出てくるわけです。

対人関係学は
「情けは人の為ならず」
ということがその大事なところですが、
このことをよく説明できる
今回の分野だと思います。

何か不道徳な人、違法な行為をした人を
責めることよりも
もっと、自分、自分たちを守るために
することがあるという主張です。
きれいごとではなく
切実なことだと思います。






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