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共同親権の幻想と、決めつけDVの共通性  [家事]

先日、子どもを連れて別居した母親の代理人として、
父親のもとを訪れて、子どもとの面会を実現させ、
定期的な面会を約束しあったという事例を
フェイスブックに投稿したところ、

連れ去りは是認できない、
どうして母親は我慢できないのだ、
等の書き込みがあり、挙句の果てに
連れ去りできないような法律を作るべきだ
等ということまで言われました。

私としては、
子どもと別居親の面会を
同居親の代理人として実現した
ということを報告したのですが、
このような書き込みがあるとは改めて驚きました。

不愉快だとばかり大人ぶるのもどうかと思うので、
私怨をブログで晴らすこととします。( `ー´)ノ

このような書き込みをした人たちは、
自分も子どもを連れ去られたと主張している人たちが中心ですが、

それでもなお、法律の制定を言っているのですから
どうなっているのか不思議です。
それは最後に述べるとして、

書き込んでいる人たちは事情は何も知らないのです。
子どもを連れて別居した
というフレーズに反射的に反応し、
他人の記事に堂々と「決めつけコメント」をしているのです。

子どもを連れて出て行った母親は、
よくよくのことが多いです。
誰が悪いということは置いといて、
何らかの事情があるのです。

それにもかかわらず、
連れ去り=悪 
という決めつけ方をしているということは
どこかで見たフレーズです。

ほかならぬ、連れ去りを支援というか、強制する
決めつけDVをする支援者と一緒です。

妻の心理的圧迫 = 夫のDV → 連れ去り

一緒です。

そうして、離婚後も共同親権にして、
別居親が子どもに会えるようにするということも一緒です。

子どもの連れ去り、⇒ 法律改正 面会の強制?

妻のDV相談、⇒ DV法、保護命令 隔離の強制

先ず、ご自分たちの発想が決めつけDVの手のひらの上にある
ということを自覚するべきです。

共同親権の危険性は
第1に、共同親権は離婚自由制とセットであること
つまり、妻でも夫でも
他に好きな人ができたり、なんとなく嫌になれば
手続きを踏んで自由に離婚ができるため、
子供の成長がないがしろになる危険があることから、
子どもの養育を共同(交代)で行うというユニットです。

ただでさえ、日本の離婚が、
離婚したくない権利を脅かしている中で
共同親権が導入されてしまうと、
ますます子どもたちは離婚の不利益にさらされるでしょう。

第2に、共同親権を定めても、DV法のもとでは、
子どもが同居親の養育を受けることが推進されるということが
期待できるのか疑問を抱かなければならないということです。

今でも、離婚しなければ共同親権ですよ。
離婚しない間、この共同親権制度が
子どもが別居親に会う権利をサポートしてくれているでしょうか。

離婚後の共同親権が法定されたら、
この点も解消されるのでしょうか。
冷静になって考えなければなりません。

第3というか、第2の続きというか
家庭の中に権力が入るとろくなことにならないということです。
結局どちらが悪いか決めつけて
悪くない方を被害者として、強制力を働かせるのですが、
大体は、子どもにとっては不利益なずさんな処理ということになります。

書き込みをしていた人たちは、
行政や、裁判所、警察などによって
子どもから引き離されていながら、
まだ、法律や権力、正義が
自分を助けてくれると思っているようです。


今回改めて気が付いたのですが、
連れ去られたと主張する人たちは、
「連れ去った相手が間違いを犯し、
 自分たちは何も悪くない」
という発想のようなのです。

このような発想は、
自分は悪くない、相手が悪いのだ、
相手を支援する行政や弁護士が悪いのだ
ということで安心できる発想のようです。

実は連れ去ったほうも同様に考えていることが多いようです。

どちらが正しいかを競い、
正しくない方が、行動を改めるべきだ
と聞こえてきてなりません。

子どもからすれば、それは重要なことでしょうか。
どうでも良いことです。

両親の愛情を受けることが重要なことです。
父親と母親は、小学生くらいまではユニットとして把握していますから、
お父さんは悪くなくてお母さんが悪いといわれても
子どもにとっては迷惑なだけです。

良いとか悪いとか
善とか悪とか
正義とか不正義とか
子どもにとってどうでも良い話です。

夫婦の間に何らかの不具合があれば
チーム状態の不具合なのですから、
共同して修正するしかないのです。
それを、正しいことに従えというのでは、
収拾するわけがありません。

例えば、子どもを連れて別居中の母親に
面会交流ができていても
遠方から子どもの祖父母が遊びに来る
わが子に祖父母と交流をさせるべきだ
ということで、面会交流の日程をずらすよう主張したケースでは、

母親の都合がどうしてもつかないにもかかわらず、
論破して(というより責め続けて)従わせたような場合、
母親はますます疎外されていきます。
いま、関係修復のために周囲が努力しているにもかかわらず、
肝心の本人が、関係悪化となるようなことを
正義や道理に固執して強行し、
相手方を苦しめているわけです。

相手を尊重して安心してもらおうという
作戦実行中のことなのです。
このようなことが、同居時繰り返されていたのであれば
どれだけ相手を苦しめていたか心配になってしまいます。

また、母親の苦しみが
身体的な要因にあるという
顕著な原因が父親側にないような場合もあります。
これは確かにあります。

しかし、母親が長期間にわたって苦しんでいるのに
それに答えることができなかったという事実が
あるケースが圧倒的に多いのです。

なるほど、父親は悪くない、
しかし、母親も悪いわけではない。
端的に、チーム状態の不具合なのですから、
共同して修正していく努力こそが必要なのです。

だから、どっちが悪いか
ということをまず気にしていたのでは、
何にも解決しないし、
子どもにとっては、どうでも良い話ということなのです。

法律で解決しようとすることは
大変恐ろしいことです。

自分は悪くないのだから
相手に、国に、解決してもらおう
という発想なのです。

もはやチームではありません。

確かに、何が起きているのかわからない
ということもあるでしょう。
年配者が、適切なアドバイスをせずに
一方に加担してしまうということが現代社会でもあります。

それなら、法律を作る前にするべきことは、
家事の相談機関の創設ではないでしょうか。
仲人やおばあちゃんの知恵袋が
現実には存在しないのであれば、
それこそを作るべきです。

法律を作る前にやるべきことが
いろいろたくさんあるはずです。





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