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【銀週読書感想文】ダーウィン「種の起原」に対する一般的誤解とクロポトキン「相互扶助論」の「誤解」 [事務所生活]


1「種の起原」に対する一般的な誤解
  実際に種の起原を読んでみると、進化論に対する誤解が蔓延していること、いつしか自分がそれに毒されていたことが理解できる。
  最大の誤解は、「自然淘汰」と「適者生存」の意味ないしニュアンスである。我々はダーウィンが唱えた主張として当たり前のように使っている。しかし、これらの言葉は、語感的に、「環境に適さない個体は、死滅していく。」ということに重きを置いたニュアンスで理解している方が多いのではないだろうか。これは、ダーウィンの主張の主眼ではない。
  そもそもダーウィンの主張の主眼は、現状に見られる(我々が見ている)動植物の「種」の形状がどのようにして形成されたのかということであり、それは、現在の「種の形状が」初めからその形状であったものではなく、徐々に変化して形成されたという動的な観点からの主張なのである。滅びることが主なのではなく、現在の形成された形状の原因がどういうところにあるのかということが主とした問題提起なのである。
  また、実は同じことなのだが、「進化論」という言葉も誤解を産みやすい。進化という言葉は、evolution とか、progress という言葉があてられるが、これらの言葉には「価値的に高次のものへ発展する」というニュアンスがある。日本語における進化も同様かもしれない。これが誤解を招く。こういう言葉も観念もダーウィンは使っていないようだ。ダーウィンは、進化ということで訳されている言葉としては、descent with modification という言葉を使っており、意訳すると、「好ましい方向への変化」ということであり、変化に価値的なニュアンスは入っていない。
  結局、実に単純明快で、動物も植物も、環境に合わせて形状を変化させているということが主張の主眼なのである。150年前の万物の創造した主の概念を前提としたキリスト教社会においてこれは画期的であった。
  これらの誤解を解いておくことが、クロポトキンの主張に対する誤解のみならず、新自由主義がいかに人間の自然な感情に反しているかについて理解をするカギとなる。
2 クロポトキンの誤解
  クロポトキンは、無政府主義者として10年ほど活動しているが、かなりの博学者である。「相互扶助論」という本を著している。これは、自然の本質が相互扶助にあり、人間の本質も自然の一部であり、戦いにあるのではなく、相互扶助にあるということを主張している。その結果、道徳は、人間の本性を抑えるものではなく、人間の本性に基づくものであるという主張となる。
生物の多くが相互扶助をしながら種を繁栄させているという点については、全く賛成である。しかし、そのことを主張するにあたって「ダーウィンの主張」と対峙させている点は、誤解に基づくものというべきである。
「種の起原」の中で、生存競争の概念は明確に述べられている。そして、生存競争が、具体的な個体同士の戦いを意味しているわけではないことを示す箇所については、クロポトキンも著書の中で引用している。ところが、クロポトキンは、ダーウィンが自らその定義づけをしたにもかかわらず、個体同士の戦いとしてのみ使っているかのごとき解説をしている。これはフェアではない。種の起原の中では、その時代の同種間の協力、相互扶助や、異種生物間の相互扶助についても多くのページを割いて論述している。このことからも異種間、あるいは同種の個体間の「戦い」が生存競争という言葉の意味ではないことは明らかである。どちらかというと、環境の中で主を絶やさない努力、活動といったニュアンスでstruggle という言葉を使っているようだ。
但し、クロポトキンは、それらのことを知っていて敢えてそのような挑発的な表現を使った節がある。ダーウィニズム社会学、自然淘汰、適者生存を強調した闘いこそが人間の本性だという主張(例えばホッブス)に対して、効果的に批判をするという戦略の元での表現ではないかと思われる。ダーウィンの影響力に便乗して、自説である無政府主義の前提的な概念を広めようとしたのだろうと思われる。おそらく、当時、ダーウィンというより彼の解説書が流布していて、そこでは自然淘汰や適者生存という闘争的概念が強調されていたのだと思われる。そうして、戦いや競争が人間の本性に根差す自然なものとして、それを尊重する風潮があったのだと思われる。これに対抗するために、自然やその一部である人間の本性は戦いではなく、相互扶助だという主張を展開したかったのだと理解できる。クロポトキンは、著作の中で、ダーウィンと偽ダーウィン学派を区別して論じているところがある。前述の意図のためあまり区別に神経を使わなかったからか、もしかして彼が、あるいは訳者(大杉栄)が大雑把なために、あえて区別をしないで論じている可能性もある。
このこととは別に、クロポトキンの著作においては、論理学的に看過できない誤解が一つある。ダーウィンの生存競争は、種の変化についての説明としてなされている。環境に応じた有利な変化への志向がいわゆる進化の原動力だと主張している。いわば動態的な説明がなされているのである。そして、この変化は数万年から数百万年単位のスパンで把握しなければならないものであることが多い。これに対してクロポトキンは、現在、同種間であるいは種を超えた相互扶助が行われているということを主張している。それを根拠に、闘争が自然に根差しているわけではなく、自然も人間も相互扶助が本質だと主張するのである。しかし、そもそも別次元の問題であるから、クロポトキンの論理ではダーウィンの批判にはなりえない。現状において相互扶助が多く見られたことと、種の形質の変化の原動力とは関係のないことである。
動態的に相互扶助を考えると、相互扶助は生存競争の結果であり、あるいは相互扶助がなされたために種が維持されたということになる。相互扶助自体がダーウィンのいう戦いということになる。また、相互扶助の形も進化している可能性も高いと考える。また、ダーウィンの理論的な論述の部分を、例示と誤解しているような箇所もある。
この点は、著者たちの時代的、地域的制約を考えると、ヘーゲル論理学を踏まえたダーウィンとそうではないクロポトキンという整理が可能であるように思われる。
3 相互扶助論の評価
  では、クロポトキンの「相互扶助論」は価値のないものかというとそうではない。自然界の本性が相互扶助で形成されているということのエビデンスとして挙げられた事例は読んでいて感動する。
  人類の相互扶助についても、歴史認識を一変させるものであり、当時の社会風潮のカウンターとして大きな意味を持つ。そればかりではなく、現代の新自由主義や自己責任論に対するカウンター、孤立社会のアンチテーゼとして、むしろ現代に対して大きな意味を有していると思われる。
  道徳は、人間の本性に根差したものであるということは、対人関係学の主張と見事なまでに符合する。読むべき書物であると思う。
  とにかく、「種の起原」に対して、「相互扶助論」はたいそう読みやすい。飛ばして読まなければ読み進められない熟語も、大正時代の訳にしてはとても少ない。
4 対人関係学の意味ないし価値
  対人関係学は、クロポトキンの主張の結論を、ダーウィンの手法によって導いた理論ということになる(左上のリンク参照)。
  対人関係学の進化論は、個体としての進化ということをあまり意識していない。総体としての進化ということになる。種の中にはもともとバリエーションが無数にある。ダーウィンの言う個体差よりもはなはだしい差異があることが前提としてある。もっとも、これは、数万年から数百万年というスパンの中での話であり、必ずしも同時代に存在するわけではない。その中で、環境に適した個体差を持つ一群が、存続(遺伝子の継承)に優位となり、その特徴をもった個体が多数を占めて、その種の特徴となる。総体として、種の形状が変化するということになる。
  要するに、種の形状は、新たに作られるものではなく、もともと存在したものが傾向となるという形である。ここが問題なのだが、「もともと存在した」という意味については、難しい。ウィルスや突然変異も含まれることになるが、今後の検討ということになりそうだ。
  クロポトキンの相互扶助で気が付いたことは、相互扶助という概念は、種の初めから存在していた可能性があるということである。これまであまり意識したことがなかった。
  もう一つ対人関係学的な強調ポイントがある。それは、通常進化というと、器官等の形状について取り上げられるが、相互扶助という言わばソフト面が進化ないし遺伝されるという面である。もっとも、この点はダーウィンも検討している。本能と習性をとりあげている。おそらく、後天的に獲得するものが習性で、先天的に遺伝によって継承されるものが本能だとして論じていると思われる。このようないわばソフト面も遺伝するようになるということを前提としている。
  遺伝子の少なくない部分は白紙であるとされ、これから書きこまれる部分である可能性があるといわれているようだ。そうだとするとダーウィンの説の方が正しい可能性があることになる。
  ただ、これらの点についてはこれ以上論じる能力はない。わからないこともまた楽しということにしておきたい。

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