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「いじめ」の定義を教育機関が議論をしていることこそに違和感をもとう!定義に当てはまらなければ指導しないのかと当てはまればどうするかという問題。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

本日の地元紙の1面と3面で、
中学のいじめ対策の問題が報道されていました。

いまだに個別問題が対症療法的に議論されている状態だったので、
がっかりしてしまいました。


特に気になったのは、「いじめ」の定義を巡って
いまだに議論をしていることです。
はっきり言って、定義はどうでもよいのではないかと思います。

困っていたり、苦しんでいる児童生徒がいれば
人間関係の形成の指導をするのが当たり前のことですよね。
どうも、「いじめの定義に該当しなければ
教員や学校は放置する
どんなに困ったり苦しんでいても。」
という、かたくなな態度をとっているのではないかと心配です。

定義は、このように諸刃の剣です。
定義に該当すれば、予定された行動をする
という発動のきっかけにもなりますが、
定義に該当しなければ、
一切行動しないという危険も出てくるわけです。

確かに学校の行動に副作用がある場合
厳格に考えられなければなりません。
例えば極端な例では退学処分の場合、
定義に当てはまらないのに退学処分をしたら、
それは生徒にとって重大な影響となります。
慎重に行うという要請がでてくる。
定義に当てはまるかはまらないかを厳格に考えるべき場合ですね。

いじめの場合はどうでしょう。
いじめだけに対して先生が関与するということは、
つまりいじめに該当しなければ関与しないということは、
果たして正当なこととされてしまっているのでしょうか。

「からかい」に対しては、学校が動くと副作用があるから
放置しなければならないという方針でもあるのでしょうか。
そうではないと信じたいです。

いじめの定義に該当したらどういうリアクションをするか
ということが定義の意味ということになります。
いじめが厳罰化となり、
警察の介入や停学や退学の処分の要件ならば、
やはり、厳格に考える要請が出てきてしまいます。
これは問題です。

こんなことをやっていたら、
いじめを放置しなければならないという
へんてこりんの要請が働いてしまいます。

私は、傷害や大きな傷害の恐れのある暴行等の刑法犯でなければ
まずは、学校の指導、すなわち教育の対象とすれば足りるし
その方がいじめ撲滅の効果があると思っています。

そして、いじめか否かにかかわらず、
一人の人間が、困惑したり、苦しんだり
仲間として尊重されていないという事実があったら、
指導をするべきだと思うのです。
だから、いじめに該当するかということは
あまり気にするべきではないと思っています。

からかいだとしても、
先生から見て、これが継続すれば比較的弱い生徒なら苦しくなるとか
孤立していて多数からからかわれているとか
からかいとからかわれる方が固定されているというような場合は
直ちに指導をするべきでしょう。

楽しくない生徒や生き生きとしていない生徒がいれば
直ちに、声がけをするべきなのです。

どうしてこれができないのか、
あるいは、こういう議論にならないのか
という点に問題の根深さがあると思います。

一つは、再三繰り返してきましたが、
学校の先生が忙しすぎるからです。
やることが多すぎて、
やらなければならないことをこなすことに精いっぱいで、
それ以外のことになかなか手を付けられない
ということがあるように思います。

だから、なるべく理由をつけて行動を絞りたいという気持ちになり、
「いじめでなければ、積極的に関与しなくてよい」
という暗黙のルールを絞り出しているのではないか思っています。

そして、早く結論を出したいために
形だけ謝罪の会を開いて「解決」の判を押したい
そういう気持ちが出てくることも理由があることだと思います。

そういう原因を放置しておいて
「解決は解決ではない」という禅問答を繰り返しつぶやいても
効果は期待できないことになります。

子どもたちに限らず人間は群れの秩序を形成するように
本能的に志向しています。
教室の場合は担任があるべき方向への秩序形成者の役割を果たします。

これは学校教育の根幹ではないのでしょうか。
私塾や家庭教師との最大の違いだと思います。
ここを軽視しているようでなりません。

忙しすぎたら、こんなことできるわけないですよね。

それから、もう一つ、スクールカウンセラーに
心のケアを期待する風潮は、議論が必要だと思います。
心の問題が、学級指導と切り離されてしまえば、
担任は、少しでも心の問題だと思えば
自分ではなくスクールカウンセラーの領域だと
丸投げしようとしてしまわないでしょうか。
担任が懸命にもそう考えずに努力しても
管理職がそのような指導をしたのでは水の泡です。

そもそも、そのような学級というコミュニティから切り離された
「こころ」というものが何なのか
疑ってかかる必要があります。
それができないこと、現場で疑問視の声が上がらないことにも
問題の深刻さがあるように感じています。

なんとなく心の問題だから心の専門家に任せる
というような安易な発想ではないのかという疑問です。

最後に、いじめは悪だという決めつけを
第三者ギャラリーがするならいざ知らず、
教育機関が沿う決めつけるのは情けないことだと思います。
自分たちの仕事を理解していないのではないでしょうか。

そういう意味での悪はすべて懲戒の対象なのか。
叱責や排除ということでは、単なる結論の押し付けであり、調教です。
子どもたちに対する尊敬の念があってのことではないでしょう。

すべての子どもたちの行動には理由があります。
未熟さから出てしまう行動のすべてを悪だとして切り捨てたら
教育の余地は残らなくなってしまうと思います。

いじめる側にも言い分があり、
苦悩があり、孤独がある。
誰かが理解できなければ、
その孤立は固定化してしまいます。

まさに教育者の花形的な仕事だと思うのです。

このブログで再三述べてきたことですが、
いじめというマイナスポイントを0にするということでは
いじめは解決しないと思います。

楽しい学校生活こそ当たり前
という0の先のプラスを目指して初めて
いじめ対策の有効な手段が見つかると思います。





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