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「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」と授業料を払って過労死に誘導されないために、武蔵野大学の学生は人間らしい関係の構築を学ぼう。 [労災事件]

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」と授業料を払って過労死に誘導されないために、武蔵野大学の学生は人間らしい関係の構築を学ぼう。

今、厚生労働省を筆頭に、ワークルールの確立、過労死防止対策の啓発、ワークライフバランスなど、人間らしい働き方を実現するために、安倍内閣は国を挙げて取り組んでいる。国が作った初めての過労死白書も発表された。そんな時に、再び電通の若い労働者の自死が過労死であると労災認定された。過労死も、当人が亡くなるばかりではない。ご遺族、友人、同僚といった多くの関係者の悲しみは拭うことはできない。

 まさにこの時、武蔵野大学グローバルビジネス学科教授の肩書でなされたTwitterが炎上している。
 このツイートは、単なる無知の領域を超えている。彼の職業、経歴などからすると、「犠牲者が出たからといってひるむのではなく、過労職場への労働力の供給を絶やすな」という、戦場へ兵士を送り込むような確信を持った言動であると考えなければならない。まさに死の商人である。武蔵野大学は、このような人物をあえて教授に採用し、授業料をいただいている生徒たちを過労死という死に向かわせていると批判されなければならない。企業などにとって都合の良い、死ぬことを考えないで言いなりになる労働力を育成しているのである。
 具体的にその発言を見てみよう。

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」

1 先ず、人の死に対する冒涜である。
  悲しみにある電通の労働者の遺族等関係者だけでなく、これまで過労死で亡くなった故人、その遺族、関係者すべての人たちに対する冒涜である。これだけで、この武蔵野大学教授のインテリジェンスの程度が見て取れる。このような人を教授とする武蔵野大学の経営方針の程度がみてとれる。
  この武蔵野大学教授は、不特定多数に対して発言する際に、人倫とか遺族感情とかそういうことに配慮する気遣い、能力、わずかな努力を持ち合わせていないということになる。しかし、そういう風に「善意」に解釈してはならないのだろう。武蔵野大学という大学の教授がそのような心がなくても、自分が社会の多くの人たちのひんしゅくを買う情報を発信しているという自覚がないということは考えられない。武蔵野大学教授を馬鹿にしてはならない。そうだとすると、そのようなひんしゅくを買う発言を、何らかの目的があってあえて行ったということがリアルな理解の仕方である。それは、過労死を作らないワークルールや、過労死予防の風潮が、この電通の過労死認定報道によって高まっては困るという人たちの立場を代弁していると考えるほかないということになると思う。日本では、生活を圧迫するような労働の在り方を改めようと国を挙げて取り組んでいる。日本では否定的評価がなされているが、彼が専門とするグローバルビジネスでは、それが常識的なスタイルなのかもしれない。世界に輸出しようとしているのかもしれない。新たなグローバルスタンダードを確立しようとしているのかもしれない。これは日本語でいうところの新自由主義である。

2 過労死の生理的メカニズムに関する無知
  先ず、情けないというが、これと全く同様の話をすれば、「腹を刺されたくらいで死ぬなんて情けない。」という意味と、生理的には同義であることをこの武蔵野大学教授は知らないのだろう。腹を刺されて出血死したり、敗血症や多臓器不全で亡くなるということは、情けないことだと誰も思わないだろう。刺されたという出来事と死という結果が単純に理解できるからだ。過労死は疲労が蓄積していき、動物としてのホメオスタシスが徐々に機能しなくなってゆき、遂に致命的な破綻に至る現象をいう。根性などの精神論で解決する問題ではない。だから、環境を改善しないまま「もっと頑張れ」という叱咤激励は、どんどん人を死に追いやるキーワードなのである。腹筋や脚力ではないので、鍛えて鍛えられる話ではない。
  付け加えると、精神力の強い人でなければ過労死しない。責任感が強く精神力が強いからこそ、人間の生理に反して働くことをしてしまうのである。他の人が手を抜いても、あるいは他人が手を抜くからこそ自分が頑張って最後まで、自分の健康や家族をなげうっても与えられたことをやり抜いていしまうからこそ過労死するのである。武蔵野大学教授があざ笑っている対象はそういう労働者である。
  また、過重労働を100時間ということだけに単純化している。
  100時間働くとは、定時が9時から6時、昼食休憩が1時間だとすると、例えば平日4時間の残業だとすると毎日深夜10時まで残業することになる。それだけでは、4週で80時間にしかならない。毎週土曜日5時間の休日出勤をして初めて月当たり100時間の時間外労働ということになる。厚生労働省の労災認定のもとになった統計からすると、月当たり100時間の時間外労働があれば、毎日平均4時間の睡眠時間が確保できないという結果が出ている。これが1カ月続くのである。私は、国の言う通り、このような働き方は人間らしい生き方ができないのだからやめるべきだと思う。間違っても受容する観念を世間に向けて発信してはならないと思う。

3 個別性具体性を観念できない想像力
  それにしても、100時間という数字で人の生き死にを語ることは許されないと思う。あたかも、腹を刺された場合でも、真皮まで到達したか、筋肉を切断したか、内臓などが傷ついたかによって重症度はまるで違う。また、刺された後放置されたのか、止血の手当てをした人はいたのか、救急車で運ばれて適切な処置をされたのかによっても、その後の経過は全く違う。
  100時間働いたとしても、上司や同僚が支援的に見守ったり、指導したり、励ましあったりしたり、弱点や未熟さを受容されながらの100時間なのだか、あるいは不可能を強いられ、絶望感を受けながら、孤立無援感や疎外感を感じたり、自責の念を植え付けられたりし続けた100時間と所定時間177時間の合計277時間なのか。後者であれば、4時間の睡眠時間だって眠れるわけがない。何のために生きているのかという労働者の叫びはもっともである。
  通常100時間の時間外労働を強いる職場で、個人の尊厳を尊重するような同僚の態度はありえない。そもそもそのような職場ならば長時間労働を強いるということはないからだ。また、労働の質も悪く、トラブルがあるからこそ時間外労働が100時間に到達するのである。
  このような事情について、武蔵野大学教授は全く捨象している。労働者を人間として見ているのではなく、生産を上げるための道具として見ているのではないかという危惧を禁じ得ない。

「会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。」

 労務供給形態の無知
  この点は、実に初歩的な問題であり、法学部生ならすぐに理解できるだろう。この武蔵野大学教授は、労働契約と請負契約の区別がつかないのである。労働契約は、使用者、上司の指揮命令に従って労務を提供するというところに特徴がある。請負は、結果を出すという仕事を任されて、自分の判断をフルに使って仕事を完成させる。全く異なるのである。特に当該被災労働者のツイッターを見ていると、単に言われたとおりにやるだけでなく、言われないことも含めて上司が気にいる結果を出すように強いられて、そのために必要な情報もスキルも与えられていなかったことがわかる。
  東北労災病院の宗像正徳医師は、大規模な研究をされて、同じ労働時間であっても、自己の裁量(判断)が広い労働者と、狭い労働者では、狭い労働者(誰かの言いなりに働く労働者)の方が有意的にストレス物質が増加することを発表されている。また、古典的なカラセック・ジョンソンモデルという労務管理の研究でも裁量の狭いことがストレスを増加させるという結論になっている。動物は自分で自分の身を守ろうとする本能がある。自分が何かの時に何もできないという予想はそれ自体恐怖・ストレスになる。自分の判断で自分の行動を制御できない意識が高ストレスになることはむしろ当然のことである。
  自分で起業した人が、自分の仕事を自分で判断してやりぬくことはそれ自体が喜びである。多少のストレスがあっても、それ以上のやりがいがある。なによりも、それだけに集中したとしても、それ自体が自己実現ということである。徹夜しようが泊まり込みしようが、やらされているわけではない。但し、寝袋を事務所に持ち込んでピクニック気分の起業家を私は知らない。寝るなら家で寝るし、会社に泊まり込むなら徹夜で作業をしているはずだ。武蔵野大学教授の周囲は何かちぐはぐな人だらけなのではないだろうか。
  しかし、武蔵野大学教授である以上、そんなことはわかり切っていって言う可能性がある。そうみるべきであることは前述の通りである。そうだとすると、なぜ、全く労務提供の質の異なる起業家と、新入社員を同列に論じているのであろうか。そこには、特定の意図があるはずである。これこそが、なぜ過労死するまで仕事をやめなかったかについての答えの一つである。
  要するに、「自分が与えられた仕事は、自分が起業家として選択した行動である」かのように錯覚を与えようとしているということなのである。これを繰り返していくうちに、会社の利益に従って行動をする癖がついてくる。自分の人生や人間らしい在り方ということが行動原理にならなくなっていく。自分の体調や人間関係の状態に合わせて行動するということが、許さないことではないかと思ってくる。会社の求める行動をすることこそ、自分がやるべきことということを信じて疑わなくなっていく。そうして、うまく仕事がこなせないということは、自分が悪いということを感じさせるようになり、常に会社に対して申し訳ないという罪悪感を持つようになっていく。もともと、責任感が強く、何事においてもやり抜かなければならないという感覚が強い人たちだから、やり抜くことで最悪の事態をまぬかれたいと思うようになる。会社を退職しようという意識をもてなくなり、極端な話休もうとする意識も薄れてくる。休む目的は、明日の仕事に悪い影響を招かないためである。家族の幸せを願いつつ、家族のために貢献できない自分を責めるようになる。これが過労死のリアルだ。
  武蔵野大学の教授職ともいう人が、これらのことを知らなかったから発言したとは思えないし、思うべきではない。彼のツイートが誘導する先は、まさに生き地獄である。生きているという喜びも安堵さえも感じられない毎日である。

「。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。」

何かおとぎ話か、出来の悪い人情話を聞いているような感覚になる。いったい、このようなことが許される日本の企業がどれほどあるのだろうか。むしろ、上司を説得したら最後、発達障害の烙印を押されて、退職するまで集団でのいじめに会うことが多いのではないだろうか。では、人的資源をどうやって獲得するのか具体的な方法について、私も大変興味がある、武蔵野大学の学生は、教授の説明をよく聞いて教えてほしい。死者や遺族を冒涜するツイートをする暇があったらこのノウハウをけちらずに拡散するべきである。とにかくここでも彼はプロ意識という言葉でけむに巻く。何か労働者がいたらない場合は、プロ意識が欠如しているという。「プロ意識」は自責の念を誘導するキーワードとして記銘しよう。

 武蔵野大学教授は、自分のツイートを削除したという。削除したことは高く評価して、具体的氏名は割愛した。しかし、過労死のメカニズムや、過労死に誘導するプロパガンダの存在、及びその手口について大変わかりやすいサンプルをご提供いただいたので、深く学ばせてもらうためにブログを作成した。

 武蔵野大学に限らず、各大学、高校において、人間を大切にする生き方、働くためのルールなど、人間らしく生きるための研究や講座開設がなされることを強く希望する。

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