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戦争の条件とマスコミの貢献、私たちの心の中で戦争の準備は既に始められている。「この世界の片隅で」を観て [事務所生活]

「この世界の片隅で」を観ました。
おそらく、「単なる反戦映画」
というものは存在しないのだ
ということを改めて感じています。

この映画を観て、
喜びや悲しみという人間の当たり前の在り方を
根底から奪う戦争というものに対して、
当たり前のように絶望を押し付けてくる戦争に対して、
それを起こさないという人間としての役割を
自分が与えられているということを自覚しました。

怒りという浮ついた感情より深く
人間の精一杯の生の営みを
仲間である人間として支える
そういう役割です。

「ぼーっとしたまま一生を終わりたかった。」
といったすずの叫びを忘れることはないでしょう。
映画を観て泣けたならもう少し苦しくなかったでしょう。


現代の戦争は、
為政者だけの判断で起こすことはできません。
ある程度の大衆の支持が必要です。

日本の為政者も、明治以来
国民を戦争支持へと誘導し続けてきました。
いくつかあるうちの誘導の方法の中で、
国民感情ということについてお話ししたいと思います。

国民感情とは、戦争を支持する
漠然とした世論です。
どの程度の人数の
どの程度の強さが必要なのかは
よくわかりませんが
そういう支持が見られてきました。

支持とは熱のようなもので、
熱に浮かされている国民がある程度存在すると
冷静な国民は黙らざるを得なくなるようです。

私の父と伯父は
太平洋戦争末期、10代の半ばを過ぎていました。
既に特攻隊が出動しており、
報道もされていたようでした。

父と伯父は特攻隊を知り、
祖父に対して、自分も特攻隊になると志願したそうです。
祖父は、死ぬことだけがお国のためになることではないと
一喝したそうです。

感受性の強い子どもたちが、
戦争の熱に浮かれており、
年配の者は、比較的冷静に見ていたのかもしれません。
しかし、既に戦争を支持する国民感情は
完成されていたわけです。

戦争支持のためには「怒り」の感情が
優位になっていることが必要です。
相手国の人間を殺害することを厭わないためには、
どうしても「怒り」という感情が必要です。

親が子どもを見殺しにせざるを得ない状況
兵士にも親があり家族があるということを厭わない状況
家族や夫婦、恋人や友人が
死別していく状況
体を不自由にされて一生涯苦しむ状況
心がすさんでいく状況

ありとあらゆる戦争にまつわるその人の状況について
何も気にしないという戦争当事国の
国民感情を支えるものは「怒り」の感情です。

「怒り」は、自分に降りかかった危険を
回避するための脳内の反応です。
これによって、脳がホルモン分泌を促し、
交感神経が活性化し、
脈拍、血圧、体温の数値を上昇させ、
筋肉を動かしやすくして戦いやすくするわけです。
その時の自覚している気分が怒りです。

さらに怒りの状態では
思考の焦点は、戦闘が終了したか否か
勝ったか負けたかという
二者択一的なものとなり、
極端な思考の視野狭窄がおこります。
相手に対する配慮などということは
起きにくくなるわけです。
そうすることで、生存率が高まる
ということになります。
「怒り」は生物としての生きるための仕組みです。

この視野狭窄のために、
戦争相手の人間に対する思考が停止し、
相手方の苦しみなどについて
考えが及ばなくなります。

国民の中に多少の戦争反対の動きがあったとしても、
そもそも戦争をするべきかやめるべきか
という思考が生まれてきませんから、
議論にならないことは当たり前なのです。

では、国民の「怒り」は作ることができるのでしょうか。
それには、まず、「怒り」の成り立ちを
お話ししましょう。

「怒り」は、危機に対する反応だと言いました。
この場合の危機は、実は何でもよいのです。
例えば、害虫を見て、害虫を攻撃するような
危機の所在に対して適確に対応するよりも、

別所からの危機に対して
他方に攻撃をしてしまう、
いわゆる八つ当たりということが多いということが
「怒り」の特徴です。

例えば、職場で上司に激しく叱責されて
職場内の自分の立場に危機意識を持っていると
帰宅してもイライラした感情が続き、
何気ない家族の言葉に敏感に反応してしまい、
些細な言葉(些細な危機感)に対して、
不相応の強い攻撃をしてしまう
ということがよくあることと思います。

人間は、身体生命の危機だけでなく
対人関係の危機においても
同じような反応をします。

これが、自分より強い相手で
まともに責めても勝てないということが
初めからわかっていると
「怒り」という感情は起きにくいです。
「勝てるという判断」が「怒り」
を起こしやすい条件ということになります。

ちなみに勝てないという判断は、
不安や恐怖という気持ちになって現れます。

勝てない相手が原因の危機意識は
相手に対して「怒り」の感情を形成できませんが、
危機意識は持続しているわけです。

この時、勝てる相手が原因となっている危機意識が生まれれば、
勝てない相手の危機意識も合わさることによって
大きな「怒り」が形成されてしまうわけです。

第1の結論です。
国民に「怒り」を持たせるためには
危機を与えればよいということなります。

危機は対人関係的な怒り、
即ち、自分が所属している群れの中の
居場所がなくなるかもしれない(立場を失う)とか
自分だけが損をしているというような意識も含みます。

つまり、
失業、いじめ、パワハラ、
ほしいものが「自分だけ」手に入らない
低収入、将来に対する不安
家族や職場での不信感、疎外感
そういうものが人為的に作ることができるのであれば
潜在的に「怒り」を形成する火種を作ることができるわけです。


さて、「怒り」にはもう一つ特徴があります。
実は、相手に勝てないと判断しても
「怒り」を形成して戦いを挑む場合があります。
それは、仲間に対する攻撃があった場合です。
人間が群れを形成する動物としての本能として
仲間、特に弱い仲間を助けようとする
行動をするというものがあります。

この本能は、自分が無謀な戦いに挑むという行動だけでなく、
弱い者に対して可愛いという感情を持ったり、
弱い者を助ける行動に自分の喜び、達成感を抱いたり、
他人の行動に称賛をする感情を抱いたりします。

心が勝手に反応することが
本能の本能たるゆえんなのです。

誰かのために戦うものが強い理由がここにあります。

母熊が子どもを守るために攻撃的になる理由もそうです。
但し、人間は母子の間だけではなく、
血縁関係のない仲間に対しても
守ろうとする意識を持ってしまいます。

自分はともかく、自分たち、自分の仲間が
危機になることを許さないという意識です。
「正義感」という言葉の多くが
このことを指すのではないでしょうか。

戦争末期、私の父や叔父が特攻隊に志願した理由も、
おそらく、母親や姉や妹といった女性、
自分より年下の子どもたちを守ろう
という意識だったのだと思います。

父が私に繰り返し伝えていたメッセージが
この「弱い者を守れ」というものでした。

このような仲間を守る意識は、
本能的に、自分が死ぬ恐怖すらも忘れさせます。

「憲法9条を守ろう」と主張する人たちに対する
少なくない人たちの潜在的な反発、不信感は、
弱い者を守ろうという意識に支えられているのです。
これは意識的な意識であることも少なくありません。

第2に、「怒り」は、自分たちを守ろうとする本能が
刺激されて怒るということでした。

そうすると、
いま私たちが、自分たちの日常を離れて
「怒り」を誘導されていることが多いことに
気が付くことと思います。

ひところ、SNSで、
ちょっといい話として、
妊産婦や障碍者、老人等が攻撃を受けているという設定があり、
それを女子高生や、バスの運転手、一人の老人が
攻撃者を追い込めてしまう
というような「事例」紹介記事が増えていました。
おそらく、フェイスブックなど反応がわかる媒体を通じて
どのようなシーンが人々の怒りの共感を広げるか
解析することができたと思います。

今、それがテレビ番組とまでなっています。

「誰かを攻撃したい」ということが
危機の八つ当たりの特徴です。
そして、攻撃感情に後ろめたさを持たないために
攻撃対象が悪であることが必要なのです。

相手を悪と塗りこめて、
悪だと叩いて喝采する
自分たちの持っている危機意識を
幾分解消する
こんな勧善懲悪が流行しているようです。

戦前直前以外の日本においては
就学以前の子ども向けとされていたはずの勧善懲悪が
大人の間で流行しているという状態なのです。

報道でも同種の手法が
反省もなく繰り返されています。

一つはいじめの報道です。
いじめの起きた学校を、突き止め、
記事では匿名にしながら、
校舎の写真を掲載したり放送したりして
どの学校でそれが起きているか
捜させようとしているわけです。

不特定多数人がどの学校で起きたかを知ることは
いじめの解消には無関係です。

その報道で何が起きるでしょうか。
その校舎を知っている人が学校を特定し、
学校内部の事情を知るものが、
いじめられた生徒、いじめた生徒
担任など学校関係者などの
実名や写真をインターネットで公表するのです。

全く無関係な人の実名や写真も
被害者加害者として流されることもある上、
その学校の生徒全員が
加害者扱いされています。

全く無関係な学校の地域の住民までが
罪悪感を抱かされています。

何にも関係のない人たちが
正義感を振りかざして、
漠然とした対象を攻撃しているのです。
まさにこれこそが「怒り」の構造です。

先日このブログでも紹介しましたが、
教師の不適切発言が報道されました。
言葉だけが切り離されて報道されたということ、
報道の内容と学校、教育委員会の対応に
警戒するべきだと言わせていただきました。

今日はその後日談をお知らせしたくて
書いているものです。

生徒たちに対する説明会の数日後
保護者に対する説明会があったそうです。
夜に開催されたにもかかわらず、
100人以上の人たちが参加したようです。

かなりの人数の保護者の方々が発言したとのことですが、
全員が、加害者だと報道された教師を
擁護する発言だったとのことでした。

新聞に情報を提供した人の主観でもって
学校や教育委員会が振り回されて、
教師を悪者扱いにして、
学校や教育委員会が不適切な対応をしたために、
かえって当該子どもが、友達から浮いてしまっている
というのです。

学校側がマスコミからたたかれるという危機意識を
当該教師に対する攻撃に転嫁させて、
それで保護者に納得してもらおうという
「怒り」の共有を形成しようとした意図が
保護者から見透かされて、逆に攻撃を受けた
ということでした。

それにしても、当該教師は
生徒たちや保護者からの信頼が厚く、
「ほかの先生だったらよいけれど」というわけではないでしょうが、
よりによってその先生が生徒を虐めたと
攻撃されることが納得できない
というような感情が校長と教育委員会を除く
生徒と教師と保護者の総意だったようです。

(これを書いているときにも私の心にも
 校長や教育委員会に対してかすかな攻撃意図があり、
 保護者たちの対応に喝采しているという
 「怒り」の構造があることを自覚しなければなりません。)

それにしても、このひどい報道
被害者とされる保護者の主観に意図した報道は、
あたかもそれが真実行われたような印象をまき散らし、
その学校に通う生徒たちの圧倒的多くを傷つけました。
保護者達に危機感を与えました。
当該子どもは、友達の中に戻れないまま冬休みを迎えました。

そのような、誰かが傷つく、不利益を被るということを
少しでも推測できる能力があるならば、
いたずらに「正義感」をふりかざすことは
できないはずです。
これがインターネットの私的なブログならばともかく、
新聞報道でなされることの
なんと愚かしいことか落胆せざるを得ません。

昨今のこの新聞の学校攻撃は異常だと思います。

(また、そのような記事に対して、
 教育委員会は抗議や申し入れをする予定はないと
 説明会で述べていたそうです。)

これは、当該新聞社が
戦争協力を始めているか否かにかかわらず、
弱い者が攻撃されているということを印象付け
真実か否かにかかわらず「怒り」を拡散しているわけです。
マスコミという、要請されたインテリジェンスに照らして厳しく見ると
戦争に必要な条件づくりをしているということです。

マスコミの戦争犯罪は
大本営発表の虚偽の事実を報道したり
必要な事実を報道しないこと以上に、
国民の危機意識をあおり、
「自分たち」の防衛を意識付け、
他国に勝てるという情報を提供し、
「怒り」をあおったことにあります。

そうやって、国民の多くに戦争支持を誘導したのです。

まさに、この報道は
現在のマスコミの状態が
戦争前の程度まで低下していることを示すものだと
思えてなりません。

21世紀の私たちは
素朴な怒り、素朴な正義感こそ
警戒するべきだと思います。

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