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私がフェミニストだったら、強硬に離婚後の共同親権を主張するだろうということ。20年先を行く韓国の法制度並みに。 [家事]

突然、ある有名な判決の事件の代理人をした
弁護士の方から電話があり、
面会交流を含めた離婚に関する法制度のことで
しばらく話し込んでしまったのですが、
なかなか刺激的な体験でした。

その中でも話題になったことを、
その後のこちらの調査も含めて少しお話します。

つい2,3日前に思いついた話なので、
まだ持論ともいえないでしょうが、
論を持ったというところまでは言えると思います。

先ず、離婚をした場合に、父と母の
どちらを親権者とするかという法制度では、
特に理性的な考察をしなければ
単独親権制度ということになるのでしょう。

離れて暮らす父と母が共同で親権を行使すると
居住場所にしても、教育方針にしても
離婚しても話し合って合意しなければならないので、
実際は不便だろうということで、
どちらかに単独で行使したほうが
子どもの利益になるだろうという
そういう考えはもっとものようです。

日本においても単独親権制度なのですが、
そういう合理性に基づいた立法とだけも
言い切れないのではないかとそう思いだしました。

もともと日本の戦前の法制度は、
母は原則法的能力がないとされていました。
はっきりとした男女差別の考えですね。

戦前の法制度では、
父系を中心として血統を重んじた概念であるところの
「家」という制度が個人よりも優先されていまして、
個人の気持ちというのが家に劣後していたわけです。

だから戦前の法制度の離婚は
原則として家が気に入らない妻が(嫁が)、
「家」から追放される
というものでした。

もちろん、こういう制度は
日本国憲法における男女平等や
個人の尊厳原理に反するものなので、
戦後日本国憲法の成立に伴って、
民法も改正されました。

ただ、当時は、
まだ、子どもの成長や、子どもの人格
ということを法律に反映するということが
世界的にも遅れていましたから、
日本においても、あるべき離婚後の親権制度については
従来の離婚の制度を部分的に手直しする
という範囲での改正でした。

即ち、
封建制度の単独親権制度が
単に男女平等という観点だけから修正され、
子どもの権利や、子どもの健全な成長
という観点からの修正までは及ばなかったことになります。

両親が離婚してしまうと
子どもがもう一方の親とはなかなか会えない
ということは続いたわけです。

これまで母親が差別されて、子どもに会えない状態だったのが、
子どもに対して寂しい思いをさせる加害者が
平等の立場になったにすぎません。

時代的な限界なので、当時の立法を批判するわけではありません。

ただ、子どもがどちらかの親の単独親権に服す
ということは、
単に離婚が男女に葛藤をもたらせ持続する
という普遍的な事情の陰に
封建制度の残存物という側面があることを
現代人は認識しなければなりません。
しかも、性差別に根差した残存物だったのです。

男女平等の観点から現行制度をもう少し見てみましょう。
高度成長期以前は、家イデオロギーや
女性の働く環境の劣悪という諸条件から、
離婚後に子どもを引き取るのは父親が多かったようです。
家イデオロギーの希薄化に伴って、
高度成長期以後は母親が引き取るようになりました。

しかし、いまだに家イデオロギーのように
気に入らない嫁を追い出す悲惨な事件が無くなってはいない
ということを忘れてはなりません。
また、収入が低いということから
泣く泣く父親に子どもを預けて離婚している事例も多くあります。

あたかも封建イデオロギーに基づく単独親権制度で、
子どもを引き取りやすくなっていた男性が、
男女平等で逆に子どもと引き離されるように、
単独親権制度の恩恵を受けていた女性が
同じ女性の子別れを作り出してしまっている危険がある
ということを忘れてはならないのです。

但し、本当に女性は「恩恵」を受けているのでしょうか。
単独親権制度は合理的なのでしょうか。

そもそも、離婚後に女性が子どもを引き取るべきだ
という考えはどこから来るのでしょう。
子どもと離れたくないという気持ちは男女共通です。

現在のアタッチメントの理論は、
ともすれば、性差による役割分担の考えに基づいている危険があります。

アタッチメントの理論を提唱したボウルビーは、
必ずしも母親とのアタッチメントが不可欠だとは言っていません。
胎内記憶とアタッチメントというくくりでは
理論づけられているわけではないようです。

産後直後は母体の回復の必要がありますから、
母親が専従子育て者になることに合理性はありますが、
「母体が回復してもなお、母親が職を持たずに子育てをしなければならない」
ということは、性差による役割分担の主張だ
ということになるはずです。

裁判所は、現実の男女の労働条件や賃金格差を
現状追認的に肯定する傾向があります。

何が何でも、子どもが小さいうちは
母親が育てるべきだという考えが
性差別による役割分担論だとすると
離婚後も、主たる監護者である母親を親権者とするべきだという考えは
性差別による役割分担を現状追認する敗北主義的な主張
だということにならないでしょうか。

離婚後も母親が親権者になるべきだという考えがあります。
日本の親権者は、監護権、法定代理権があります。
一般的には親権者が子どもと同居して、
働きながら子どもを育てるということを余儀なくされるわけです。
それが母親でなければならないという主張があります。

その中の一つには、父親は、外に出て働いて、養育費を払えばよいのだという考え、
ないし感情があるようです。
まさに、封建イデオロギーの性差による役割分担の主張です。
この本音が、むしろ、男女平等を訴える側から出されていることが少なくない
ということは私の認識がおかしいでしょうか。

それから、母親が子どもを育てるべきだという考え方も
母性信仰という極めて古典的な女性蔑視ではないでしょうか。

この考えで行くと離婚後父親は孤独を抱えながらも自由に生活ができ、
再婚するチャンスも多いわけです。
これに対して、離婚後の母親は、
子どもの弁当を作り、幼稚園などの送り迎えをして、
さらに食事の準備から身の回りの世話をして
ということになり、
子どものためばかり時間を使い、
自分という一人の人間であることを否定されているような
そういう状況にあるわけです。

母性信仰に離婚後の女性を縛り付けているのは
男女、どちらが多いのでしょうか。

男性が親権を持つのか、
女性が親権を持つのか
二者択一的な選択肢は、
子どもの健全な成長という視点が欠落しています。

同じ儒教の国である韓国は
離婚後は共同親権です。

民法などが改正されて、
離婚の時には裁判所が後見的に
離婚や親の葛藤が与える子どもへのマイナス影響
等のレクチャーが公的になされていますし、
養育費や面会交流の定めを書面にする義務があります。
それが不十分である場合は
是正を求められたり、裁判所が定めたりするようです。

面会交流センターというものも
日本でいう家庭裁判所の中にあり、
面会交流支援や引き渡し支援など
子どもの健全な成長のためのサービスが運用されています。

子どもという次世代の国家を担う者への
国家的配慮がなされているわけです。

日本は未だに、
子どもの健全な成長とは何かということについて
理解が進んでいないようです。
親子断絶防止法案を見ても、
精神論ばかりであり、具体的なことは
子どもの意見を尊重して面会交流を進める
ということぐらいです。

何も学習せずに、
子どもの成長など掛け声だけだということが
韓国の法制度と比較すると歴然です。
感情の対立を放置し
国家が子どもの健全な成長の観点から
後見的に、面会交流を進めやすくする
という肝心な点がきわめて抽象的です。

そうして、現在の離婚制度が
極めて女性蔑視、女性の役割論に基づいている
ということは、一切考慮されていません。

韓国と比べても
20年くらい日本は遅れている
といわざるを得ないようです。

この20年の遅れは、現在の評価です。
日本が子どもの健全な成長のための理性的な改革がなされない以上、
時がたつにつれて遅れの期間が増大していくことになります。

残念ながら、役に立たずに弊害ばかりの
親子断絶防止法が
せめて、オープンな議論が始まるならばともかく、
こっそりと提案されるだけであるならば、
取り返しのつかない遅れが確定してしまうような危惧があります。


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