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「今でも人を殺したいと思う。」という言葉が反省を表している可能性がある事。対人関係学的な弁護人の役割 [刑事事件]

タリウム事件を連続して題材にしてしまいます。
前の記事で紹介したコラムでは、
以下のように紹介されています。

他方で元名大生が発する一言一言は、胸をえぐられるほど衝撃的だった。
 「生物学的なヒトなら誰でも良かった」
 「人を殺したい気持ちは今も週1、2回生じる」
 「個々がかけがえのない人だという感覚がない」
 殺意の矛先は家族や親友にとどまらず、法廷の裁判官や弁護人、傍聴者にも向けられた。

これを読むと、通常は、
「未だに反省していない」と感じることでしょう。

そうなのかもしれないけれど、
そうでないかもしれないということにつて
弁護士の立場からご説明します。

犯罪はそれ自体不道徳ですが、
なかなか自分のしたことが不道徳なことだということを
実感をもって理解できない人がいます。
だからこそ犯罪を事前に止められなかったわけですが。

自分のしたことがどういう風に悪いのか
誰にどのような迷惑をかけるのか
ということを、
私は弁護人として最初に考えてもらうようにしています。

最初は漠然とした考えしかありませんが、
話し合ううちに、徐々に
カメラのピントが合うように
はっきり理解される被告人の方も出てきます。

(最後までピンボケの場合もないわけではありません)

すると、飛躍的に反省や後悔がの感情がでてきて、
「自分が取り返しのつかないことをした
 そういうことを二度とやらないためにはどうしたらよいだろう」
と敬虔な気持ちになる方も少なくないのです。

このような方々は、
犯罪実行時は、自分の味方がいない
という意識がある方が多いように感じられます。

常に、自分を守っていなければ
誰かから攻撃をされてしまうという意識です。

攻撃といっても、ピストルで撃たれるわけではなく、
馬鹿にされるとか笑いものにされるとか
自分だけ損をさせられるとか、
自分だけ危険な目にあうとか
裏切られるとかそういうことです。

だから、他人に弱みを見せるということが
できない状態が持続しているということになります。

これは、タイミングと会わせると強くなります。

自分が誰かから被害を受けたのに、
誰も同情したり、いたわったりしてくれないという場合
逆に
自分がみんなのために貢献したのに
誰もねぎらってくれないばかりか
笑い者にされてしまう
ということもあるでしょう。

およそ、心情的に仲間という人が
身近にいないということになります。

犯罪によって警察署に留置されているというような場合は、
自分が悪いことをしたために責められるということは理解できます。

こういう時にニュートラルな立場の弁護士が
犯罪を責めることをしないで、
どうして犯罪に至ってしまったか
どうして事前にやめることができなかったか
ということを被疑者と一緒に考える姿勢を示したら、
被疑者被告人は、自分の弱い部分を見せても
そこを責められない
という体験をすることが出てきます。

これが、新鮮な体験だという人も少なくありません。
安心すると話し出します。
弱い部分を見せても良いのだと思うと
安らぐことができるようです。

裁判が終わるまでの限定的ではありますが
片面的なコミュニティーができるわけです。

弁護士だけでなく、
警察官の方にも同様な態度で接してもらうと、
自分の悪かったことを言うことが
自分が更生する等良い方向に向かう条件だと
素直に認識するようになります。

こういう時、弁護士が質問する場合は
答えが大体わかりますから
ドラマチックに盛り上げて完結することができるのですが、

検察官の反対質問や
裁判官の補充質問でも
同じように素直になってしまうと
その時の悪い感情やその後の感情
(裁判時には克服しているのですが)
包み隠すことをしないで
積極的に話していくことがあります。
(そこまで言わんでよいと言いたくなるくらい)

それが強烈すぎて、
現在は克服されているにもかかわらず、
検察官なんかは、いまだに反省をしていないと責め、
頓珍漢な裁判官もそのような認定をしてしまう場合も
弁護人としては心配しなければならなくなり、
あれだけ美しく完結した弁護人質問を
つぎはぎを繕うことも出てきます。
大体裁判官は理解してもらえることが多いですが。

前回引用したコラムからも、
被告人が、素直に供述している様子がうかがわれます。
少なくとも露悪的に殺意を見せびらかしているわけではなさそうです。

質問されたから誠実に答えている可能性があります。
それを応えるのが自分の役割だということですね。
うそをつかないことでメリットがあると感じているということです。

誰にも言えなかった殺意を言うことができたという
弁護団との交流による貴重な経験があったのだと思います。

弁護活動が対人関係学的には成功された可能性があります。

もう一つ付け加えます。

彼女にとって人を殺すということは
おそらく心理的抵抗が少ない状態であり、
それは、器質的問題か生育環境なのか
通常人の感覚を超えた問題がありそうです。

要するに、普通の人が人を殺すという場合、
罪悪感だったり、生物的な嫌悪、恐怖だったり
抵抗が強くあるわけです。

これを打ち破るためには、
怒りだったり、恨みだったり
強烈なエネルギーを伴う負の感情が必要になります。

だから、「今でも人を殺したい」
という言葉を聞くと、
強烈な負の感情があるものだと
無意識に受け止めて、険しい感情になるわけです。

ところが、彼女は、
そのような怒りとか恨みとかの負の感情を抜きに
人を殺したいという気持ちになるようです。

今回の裁判体は、
常識の枠の中で被告人を把握し、
無期懲役の刑を宣告しました。

そういう考えも成り立つとは思いますが、
他の適切な選択肢を持ったうえで
専門的に判断することが必要だった事案だと
思いました。







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