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いじめ調査委員会は何を発表するべきか 中学生の自死を予防するために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死事案があると、

第三者委員会の調査があり、報告があるのですが、


よく、

いじめがあったとかなかったとか

あったとして、

いじめが自死の一因だったとか、

自死との因果関係は認められなかったとか、

そういう結果ばかりが報道されます。


中途半端な報道だということです。


一つには、マスコミが、

一般大衆の被害感情をあおり、

誰かを攻撃したいという意識を頼りに

視聴率や部数を稼ごうとしているところに問題があるのでしょうが、


もしかすると、調査委員会も、

その中途半端なところまでしか調査の分析が

できていないのかもしれません。


必要なことは、

じゃあ、どうすればよかったのか

ということです。


誰かを攻撃して、

いじめ加害者を攻撃して、

留飲を下げても

いじめはなくなりません。原因を分析していじめの原因を除去することが

いじめ防止だということは誰でもわかっています。


仮に加害生徒を特定しなくても

加害行為を特定して、

なぜそれが自死者を追い込む要因となるのか、

そして、その加害行為をしないために

どんな工夫が必要か

そういうことを報告し、報道してもらいたいのです。


それができないのは、

いじめ調査という制度に構造的な問題があるのかもしれません。


1 いじめかどうかを気にしすぎること


自死の原因がいじめだったのかどうかということに

あまり意味を感じていません。


いじめであろうとなかろうと、

その子を追い込んだ原因であれば

予防するべきだからです。


法律上のいじめの定義は、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」

となっています。


被害者の主観に依拠して定義づけされています。

メリットは、その子が嫌だということをやめるということで

理にかなっていることです。

これまでの弱い者強い者等余計な条件が無くなりました。


デメリットは、その子が「精神的苦痛が無い」と

言わせられればいじめにならないことです。

「大丈夫?」と聞いて

「大丈夫」と答えさせようとする理由がここにあります。


もう一つのデメリットは、

というか、定義を作ること自体のデメリットですが、

いじめではなければ手当てしない

という発想が出てきてしまうことです。


「攻撃ではない」

「いじめではなくからかいだな」

「その子にだけ集中していたわけではない」

と、いじめではないとするための工夫だけが進歩していきます。


学校ないし学校の人間関係という舞台で、

何らかの精神的圧迫が加えられたのであれば、

それを除去するべきです。


いじめかどうかというワンクッションを

置かなければならないことに情けなさを感じるべきです。


そのためには、

「いじめが無ければとりあえずよい」

という発想を捨てなければなりません。


「いじめをなくす」

という目標では足りず、

例えば、

「みんなで、お互いの弱点をかばい合う」

とか、

「助け合って一つのことを行う」

とか、

「みんなが楽しい学校生活」

というゼロの先のプラスを目標として

指導をしていく必要があると思っています。


生き生きしていない目をした生徒がいたら

気遣いあう学校であるべきだということは

遠い理想論なのでしょうか。

そうだとしたら、子どもを学校にやる理由はどこにあるのでしょう。


2 損害賠償の証拠にされてしまう。


いじめ調査委員会には強制権限がありません。

このため、事情聴取を断られることが多いようです。

特に加害者とされる生徒と保護者は拒否するようです。


うかつなことを良心に任せて言ってしまって、

それが記録として残ってしまい、

あるいは結果として報道されてしまい、

後で裁判の証拠として出されてしまうと、

損害賠償を払わなければならなくなると思うことは

あるいはやむを得ないことかもしれません。


自分の言ったことが

どの程度原因とされるかわからないことが多いのでなおさらでしょう。


一般にいじめというと

2,3人の特定グループが

執拗に嫌がらせや脅迫、恐喝を繰り返していた

というイメージを持ちやすいのですが、

それは少数です。


さすがにそういうことがあれば

多くの事例では、子どもも動きますし、

大人も動くからでしょう。


多い事例は、

結構な人数の子どもたちが

日常的にからかいと称して

その子の弱点を笑いの対象として


周囲も同調したり

そういう子どもを注意しようと思っているうちに

自死や不登校となってしまい、

何もしない傍観者といわれてしまうケースでしょう。


「いじる」という楽屋言葉が

一般的に使われているところに

大きな疑問があります。


このように誰かをいじって笑いをとるということが

否定的なニュアンスで語られないところに

日本の情けない現状があると思います。

テレビで放送するべきことではありません。


ソフトなからかいでも

それが、

からかわれる生徒が固定化されてしまい、

一方、

あまり面識のない子どもまでがいじりに参加してしまうと、

孤立感が出てきます。


だんだんと、その子と一緒にいることで

自分のステイタスが低下するような感覚が蔓延していき、

その子と人間的な交流を避けるようになります。


その子から見ると、

自分が差別されていると感じ、

その解決の糸口が見つからないと、

絶望的な孤立感を抱くようです。


そうだとすると、

確かに、あの時、あの子のいじりに参加したなとか

みてみぬふりをしたなという意識があると、

それが自死の原因になったと言われてしまうと、

それを否定したいという気持ちにもなるでしょう。


訴えられるという恐怖も出てくるでしょう。


口をつぐんでしまう構造があるのだと思います。


3 証明の程度についての誤解


いじめ調査が何のために行われるのか、

その目的をはっきりさせる必要があります。


再発防止ということが目的であれば、

実は、自死や不登校と何らかの関係があると思われることは

どんどん指摘をして、

それをしないためにはどうすればよいのか

ということをどんどん提起するべきだと思います。


多少、その出来事が本当にあったかどうか確信が持てなくても

そういうことがあった可能性があると認定できるようにするということです。


調査とはそういうものだということになれば、

いじめ調査の結果を裁判の証拠で使えない程度のものにとどめる

ということがあり得ることだと思います。


「特定の生徒○○によるいじめがあった」

「それが原因で生徒が自死した」

という認定をするべきではないかもしれないということです。


いろいろな出来事が自死につながる可能性がある

調査委員会で気が付いたのは

こういう出来事、こういう出来事

それらの出来事が、自死した生徒に孤立感を与えてしまい、

些細なこういう出来事やこういう出来事も

自分がみんなから拒否されていると

感じてしまう要因になっていった。


だから、こういうことがあったら、

生徒同士でこういうような声掛けをして、

先生はこういう形で指導をしていくことが考えられる

という調査結果の報告、答申になるべきだと思います。


ここでも、ゼロの先のプラスを目指すという発想が

予防策の提言への特効薬になるはずです。


つまり、いじめという犯罪類似の行為があるとすると

その「加害者」に対する報復をしなければならない

という一般的な報復感情が生まれてしまい、

悪は罰せられるべきだという意識につながってしまいます。


しかし、一人一人が楽しい学校生活を送るために

それを妨げるものを除去するための調査だということになれば、

自死につながる可能性のあるものを

どんどん排除していけばよいのだと思います。


あれをやってだめ、これをやってだめというのではなく、

これをやりましょう、こうすると楽しいよ

という問題提起というわけです。




人間関係で苦しむ子どもを作らないようにしたいのか、

いじめる子どもをこらしめたいのか、

どちらかを選ばなければならないのではないか

と感じているところです。

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