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「汝の敵を愛せよ」、紛争学(ウインウイン)と代理人の役割 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

紛争学というといかにもいかめしい響きがありますが、
「ウインウイン」なんていう言葉は、紛争学が発祥だと思うのですが、
割とポピュラーになっていますね。

アメリカの調停技術の理論から発生した学問で、
特に継続的な人間関係の紛争を解決するための理論
と私はうるおぼえで把握していました。

主として家事紛争の場面で活用されているのですが、
もともとは、会社と労働組合の紛争の研究から
理論が発展していったという歴史があり、
まさに私の業務分野に関連している学問であります。

紛争学といえば、日本では、
レビン小林久子先生が有名で、
九州大学の先生だったのですが、
宮城県や山形県に根強いファンがいて、
先生の講演会ともなると、
車を乗り合わせて駆け付けるという現象が起きます。

先生が各分野のADRのご指導をしている
お弟子さん方ともいう方々ということであります。

私は、平成20年だったと思うのですが、
地元の法科大学院のシンポジウムに
パネリストとして招かれて、
レビン小林先生のお話を聞きながら、
議論をさせていただきました。

何を話せばよいのかわからないので、
紛争学についての文献を読ませていただいたのですが、
目から鱗でした。
その後、弁護士会の執行部に入ったことと相まって、
猛然といろいろなことを興味に任せて考えていき、
このブログを開設したことも相乗効果となり、
対人関係学に突き進んでいきました。

なぜパネラーとして呼ばれたかというと、
当時、交通事故のADRであっ旋委員(調停委員みたいなもの)
をやっていて、
あっ旋委員の中から誰かが行くことになっていて、
おそらく年長の私がやらされたのだったと思います。

お互いに、相手が100%悪いと言いあっている
交通事故当事者の示談をまとめていっていた
ということから、
なぜまとまるのか
訴訟と何が違うのかという話をさせていただいたと思います。

この辺のことは詳細は忘れているのですが、
このブログのどこかに書いているので、
後で読んでみたいと思います。

紛争学の教訓(私が把握して記憶している範囲)は、
私のころまでは、複数の先輩弁護士から言われていたことで、
「人間関係を解決する」のが法律家であり、
事件を処理するのではないというところにあります。

どちらが正しいか、
どちらがいくら支払うかということばかり考えても
それは裁判は終わるのでしょうけれど、
人間関係は解決しません。

一方の言い分ばかりを勝たせると
その事件は万々歳となっても
紛争の火種が残ることにより、
新たな事件が勃発して、
結局、幸せになれない
というようなことになることを
恥としなければならない
みたいな感覚なのでしょうか。

また、多くの事案で、
実は金銭についてはそれほど重要視していないのに、
外に主張するポイントがなく、
金額を軸に争っていると
なんか違うということがあります。

「謝ってほしい」
という要求の意味は深く、
今後の人生にとっての意義は大きいことに
気付かされることがあります。

もっとも当事者は、
猛烈に不愉快だったり、傷ついていたりしているわけですが、
必ずしも、それがどこから来るかわからないことが多くあります。

実は、報酬がもらえなかったこと自体に不満が集中しているよりも、
これだけクライアントのために努力して
それを相手が知っているのに、
その努力を否定するかのような金額の根切に対して、
自分が馬鹿にされたというところに
一番のわだかまりがあるなんてことがあります。

相手も、
とにかく金銭を支払いたくないという一点張りで、
相手の人格を傷つけたことを自覚しないまま、
全面的にこちらの落ち度を主張してしまい、
全面戦争になってしまうということがあります。

それは当事者では、なかなか言葉にして
裁判所などに伝えることは難しいのです。

調停委員が、事案をよく理解して、
双方の本当に言いたいことを言い当てて、
双方がそれなりに問題を解決する調停案を作れれば
それでよいのですが、
紛争で葛藤を強めている当事者がそれをすることは
なかなか難しいという実情があります。

だから弁護士が代理人になるのだろうと思うのです。
もちろんこれは私の考えです。
一般かしなければならないということではないのですが、
できれば頭の中に入れていただきたいと思うのです。

弁護士は、依頼者の真意、紛争の要点を把握し、
相手方がどうしてそのような行動をとったかを推論し、
双方の言い分が、法的レベルで対立していたとしても
法理論とは別の座標軸から、
解決の糸口を探し出すことで
紛争を解消することが可能となるはずです。

これに対して、弁護士は、当事者の利益を追及するもので、
その利益は人それぞれ違うとしたら
金銭的な追及をするしかないという考えもあり得るでしょう。

ただ、この考えでは、
弁護士は、依頼者の利益を法律理論で翻訳し、
相手方とは相いれない関係にあることを前提として、
優劣にすべてをかけるということになってしまいます。

紛争の解決にはつながりません。

確かに価値観は人それぞれなのかもしれません。
だから、打ち合わせが必要なのだと思います。

どうして、弁護士を依頼したいのか
法的手続きの中で、本当に解決したいことは何か、
要するに、何のために事を起こすかということですね。

ここをしっかり押さえて、はっきりしないと、
望み通りの結果を出しても満足されないことが
多くあります。
ほぼ完ぺきな仕事をしても
こちらに怒りをぶつけられる場合だってあるのです。

私は、人間の価値に多様性があるとしても、
弁護士が、自分の人格に基づいて提案することは
必要なことだと思うのです。

訴訟や調停は技術ではなく、
人格と人格のぶつかり合いによる
共同作業だと考えています。
その過程の中で、
依頼者、相談者から多くのことを学ぶことができ、
誰かのためにその知識を活かすことができる
そうして、生きる意欲が低下している人に
再び生きる希望を持ってもらう。

そういう素晴らしい理想があるように思えるのです。

「汝の敵を愛せよ」
勝手なことを言うとキリスト教の方々にお叱りを受けると思うのですが、
人間の紛争を解決する時の最大のツールがこれだと思います。

敵を叩き潰すのではなく、
敵を敵ではなくする
味方になるまでにはいかないとしても
対立関係を解消する。

そのためには、
敵を否定するのではなく、
敵を理解しようとすることが必須のことだと思います。

そのためには、相手を馬鹿にするのではなく、
敬意をもって接するようにするべきなのでしょう。
それが、思わぬ失敗をすることを防止する秘訣でもあります。

当事者は、葛藤が強いために、
なかなか自然とこういう考えになることはできません。

弁護士は、依頼者の100%の味方なのですが、
それは、依頼者の表面的な言動に忠実に従うのではなく、
自分と依頼者の人間関係に基づく共同作業の中で、
依頼者の真の利益について問題提起をして、
一緒に構築していくことなのだと思います。

だから、どっぷり依頼者の感情に追随するのではなく、
岡目八目が発揮できる位置に立ち、
依頼者の本当の利益を害しないように
依頼者に代わって、依頼者の敵を愛する
という作業こそが必要なのだと思います。

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