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「自閉症の世界」途中感想2 自閉症と自閉症スペクトラムの概念と普通の人たちの大雑把の力 時々SNSの弊害の理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

この記事は、ブルーバックスの「自閉症の世界」を読みながら考えていることを
忘備録的に記載しているものであって、
治療についての検討や、社会的提言をするものではありません。

私の中でなんとなく済ませていた「自閉症」の意味でしたが、
少し整理します。

自分の殻に閉じこもって引きこもる
という意味ではなくて、

社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
こだわりが見られること
が診断基準となっているようです。

簡単に言うと、
他者との感情的つながりを結びにくいというか、
面倒くさく言うと
他者との結びつき方がわからないので、
積極的に他者と結びつこうとは思わないし、
他者からの自分の評価というものも関心がない
そういう意味で自閉というのだと思います。

これらの点について、本は、
自閉症が注目され始めてから現代まで、
時代ごとの変遷と登場人物等のレポートが詳細になされていて、
読み物としても、興味を絶やさず読むことができます。

単なる理論の説明ではなく、
人間がどうかかわるか、戦争(ナチス)の影まで出てきます。


次に自閉症スペクトラムという言葉が出てきます。
これも誤解を受ける概念でして、
障害の程度に幅がある
というわけではなく、

一つには、
自閉症の出方は千差万別であり、
その人それぞれの特徴があるということです。
そのため、
自閉症という診断がついたからと言って、、
ではどうするかという答えが一義的に出てくるわけではなさそうです。

また一つには、
いわゆる普通の人と自閉症の人との間に
線を引くということがなかなか難しく、
いわゆる普通の人の中にも
自閉症的傾向を持つ部分がある
ことがおかしくないということのようです。

また、なんとなく精神障害というくくりで語られることから
知的能力に問題があるような誤解もあるのですが、
この点も千差万別だそうです。


むしろ、知的能力の高い人も多いようです。
コンピューターの分野もそうですし、
物理化学の分野や
数学等において、
いわゆる普通の人では到底不可能な業績を上げている人たちの多くに
自閉症の診断基準を満たすのではないかという人たちがいる
ということのようです。

「レインマン」という映画では、
数的感覚や記憶力の突出した人として描かれています。
(もっとも、映画ではカジノでこの能力を使って大儲けをするのですが、
 リアルで試そうとしたときは
 「それは不正だ」と言って、能力を使うことを拒否したそうです。)

この「レインマン」が企画され上映される経過も詳細に書かれているのですが、
かなり感動を覚える部分です。

特別な能力があるのに
周囲に溶け込むことができないということは、
むしろ、特別な感覚があるから
周囲に溶け込むことができない
ということなのかもしれません。

出典を覚えていなくて恐縮なのですが、
「聴覚が優れていて、記憶力が突出している人は、
 逆に、声で人を識別できない。」
ということを読んだ記憶があります。

人間の声というのは体調や感情によって
ずいぶん変わるのだそうです。
そのため、一度聞いた声を完璧に識別して
完璧に記憶していると
「前に聞いた声と違う」
ということになってしまうのだそうです。

むしろ、ある程度おおざっぱに識別して
大ざっぱに記憶していた方が
実務的にはうまくいく
ということらしいです。

電話の音声信号なんて、
そういうおおざっぱだからこそ成り立つのではないでしょうか。

そういう風に厳密な感覚を持っている人たちにすれば、
大ざっぱに事が運んでいくことは耐えられないことでしょう。

「事が運べばよいや」
という価値観の場合は、
細かいことにこだわると、周囲が受け入れなくなるでしょう。

しかし、
「正確に、正しく」が運用よりも優先(生産性より緻密性)
という価値観の場合は、
例えば精密部品のチェック等の場合は、
貴重な戦力になるわけです。

これは上司(指導者)の性格に対応する場合も
あるいは、上司が部下に対する対応を考える場合も
参考になるようです。


また、自閉症の人の中には、
他者からの評価に価値をおかない人がいるようです。
自分のこだわりを満足させることこそがモチベーションということですね。

いわゆる普通の人は、
様々な情報を幅広く獲得してそれに対する無意識の反応をしているようです。
その無意識の脳の活動を停止させれば、
思考に集中することができ、
さらに、いい加減なことで止めることができなければ、
形而上学的とも思えてしまうような抽象的な数式や図形が
頭の中だけで組み立てられることもできるのかもしれません。

この様々な情報というのが
他者の気持ちや自分の置かれている立場
ということらしいのです。


少しずれますが、
SNSがなぜ他人に対して攻撃的になるかということを述べたことがあります。

その考察の中で、
リアル対面の会話というのが、
相手の反応だけでなく、相手の存在
相手の感情や立場など、色々なことを考えて、
実際に言葉として表明する事象や
言葉やしぐさの表現を自己規制している
ということと、

相手方も、言葉だけでなく、
その声の調子や顔の表情、
しぐさやシチュエーションを含んで、
相手方を受け止めているということを考えました。

これに対してSNSは、
相手が目の前にいないので、
こういった配慮が極端に低下するようです。

相手と協調するという志向も低下してしまうようです。

すると、相手と協調しながらことを進めていこうという意識が後退し、
自分が考えている正論をどこまでも追求しようとする
客観的に見てこだわりが生まれてしまい、
結果として相手や第三者を不愉快にさせることを
言ってしまっているということがあるようです。

攻撃しようという意識を持ちやすいというよりも
相手の気持ちの優先順位を下げる結果、
自己防衛の気持ち(領域侵犯に対する攻撃等)が強く表現される
その結果、相手が傷ついたり不愉快になる
という結果になるように思われます。

だからこういう人に対しては、
第三者が顔を見せて、相手方の顔を見て
直接話すことによって、
瞬時に社会性を取り戻して、
ひたすら謝り続ける
ということになることがありました。

匿名性の世界というのは、
「ばれないから何を書いてもいいや」
ということよりも、
「対象について想定できないため
 協調の価値観が無くなって、
 自分の『正しさ』を追及してしまう。
 その結果、相手の感情を害することを気にしなくなる」
ということなのかもしれません。

このブログも自戒しなければならないところであります。


ところで、大雑把に済ますことができないということになると、
一番困るのが、
他人の感情なのでしょう。

どうして人は怒るのか
どうして人は笑うのか、
どうして人は悲しむのか、

案外単純ではないようです。

感情的になられても
その理由がわからないことは結構あるでしょう。

それでも、普通の人たちは、
なんとなく泣いたらかわいそうに思い
怒らせたら恐縮して、
笑うと一緒に笑おうとするのではないでしょうか。

大雑把に処理するからこそ、アンテナを広く張れるのかもしれません。

そこに合理性や正義を要求することは
考えてみれば酷なことかもしれません。
他人と接するということは
厳密に考えれば
難しいことかもしれません。

厳密に考えて他人の感情がわからないため
他人が嫌なわけではないけれど、
なるべく関わりたくないということならば
分かるような気がしないでもありません。


ここで力を発揮するのが大雑把という力技なのかもしれません。

特に私のように歳を取ると
逆に、
人からどう思われようともういいや
という気持ちになるということですね。
特に異性関係なんかが最たるものでしょう。

自分がやるべきことをやって、
相手の反応を見て、
「ああこれはだめなのね」
ということを学習して、それはしない。

その上で相手から誤解されたって
あまり深く傷つかない。
必要の範囲で
職場では話し合いをして、是正を行い
家族の中では、自分の対応を変えてみる
そう、あっさりとした人間関係の構えの方が
案外うまくいくというように思えるのです。

極力、知らない人にはちょっかいかけない。

若いころは、
かなり難しいことを成し遂げようとして
できないからと言ってくよくよしていたなあ
ということなのかもしれません。

他人に対して、
どうしてっていうくらい多くを求める人たちがいますが、
(求めるのはいいけれど、できないからってとやかく言うな)
もしかして、そういう人たちは、自分の頭の中で、
こうあるべきだというこだわりが強すぎるのかもしれません。

そんなことを考えながら
分厚い本を読み進めています。

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