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大人とは何か。国会議員のパワハラに学ぶ [労務管理・労働環境]


大人の反対は子どもで、究極には赤ん坊でしょう。
とりわけ人間の赤ん坊は、自分では何もできません。
おなかがすいても、おっぱいまで自力でたどり着けません。
移動がまず無理です。

暑くても、排せつでも、眠ることすら
自分で始末ができません。

大人に気づいてもらうために
泣くわけです。
大人も、ツバメが巣のひなが口を開けて待っているところへ
餌をやるように世話をします。

人間の赤ん坊の対人関係は
他の構成員に完全に依存をして
身体生命の安全と
対人関係的な安全を確保するという関係です。

「成長」とは、
自分の行動可能範囲が拡大していくことです。
それと同時に、
自分の行動を自分で決定して行動したい
という要求も生まれてきます。
これが本来あるべき動物の個体の特性ですから、
当然のことです。

ちなみに、この決定権が阻害されたときの反発が
「反抗」です。

大人になるということや「成長」が
身体の変化についてだけ語られることが多いのですが、
対人関係学的に言えば、
一つは、今述べた自己決定による行動の拡大が「成長」です。

もう一つの「成長」は、
対人関係における自己の在り方の変化です。
これが重要な指標ということになります。
つまり、
赤ちゃんの時は、すべて
例えば家族という対人関係では
親等が対人関係的な危険を除去してくれていました。
自分は、家族という対人関係に対して
何らかの行動で貢献をしていません。

完全に従属的な対人関係です。

少しずつお手伝いをしながら、
家族の一員として行動をするようになります。
同じ行動をしても、
例えば勉強をしていても、
自分のためだけに勉強をするのではなく、
将来の家族のためだったり、
家族の一員として頑張る
等の意識付けがなされることもあります。

家族に何かしてもらばかりではなく、
家族のために何かをするようになるということです。
これが対人関係学的な成長です。

こういう体験を通じて、将来、
親の家庭から独立して
自分の家庭を持つための準備になるわけです。

動物の場合、
本能的ないし生理的に
子別れの時期が来て子別れができるのですが、
人間の場合、
意識的に行わないと
親離れ、子離れができません。
こういうケースも多くなってきました。

一つのキーワードは、
家族の構成員として子どもを行動させることが、
逆に子離れ、親離れを自然にスムーズにするということです。

親がすべてをしてあげることは、
あるいは、親にすべてをしてもらおうという意識は、
子どもが大人に成長することを阻害することになります。

年齢が大人に達してなお、親に依存している生活を続けてしまうと、
なかなか対人関係学的な意味での大人になりません。
それでも、時が過ぎると、親に依存することができない年齢になってしまいます。
こうなると、ようやく対人関係学的に大人になったときにできることは
せいぜい親の介護だけだったということもあり得る話なのです。
その人の一生が老老介護で終わってしまうということです。
もしかしたら、それは親の責任かもしれません。

以上から見えてくる「大人」とは、
「他人に依存することなく、
 対人関係を、主体的に形成していく人間の成長の段階」
を言うのだと思います。

主体的に形成するといっても、
人間は群れを作る動物ですから、
他の構成員と共同作業をする
という特質があります。

共同作業と依存のどこが違うかということは、
共同作業は、相互に相手を尊重しながら、
それぞれが自己決定した行動を共有します。

依存は、決定過程に一方の意思しか反映しません。
他方が自分で何かを決めることは許されません。
一方が結論を求めて他方が従うという構造となります。

赤ちゃんがおなかがすいたからおっぱいをあげる
というのは、
赤ちゃんの決定、つまり、「自分のおなかを満たせ」という結論の求めに
親が対応しているということになります。

行動を決定する者、結論を求める者こそが、
実は依存者なのです。

最近実録音声が公開された国会議員のパワハラは、
パワハラ加害者の幼稚性を
実にわかりやすく示しています。

この場合、結論を求めている方が
国家議員でした。
国会議員が秘書に依存していたと評価されるべきです。

過去の誤りをなかったことにしろという
典型的な無理難題の結論を
秘書に押し付けていたわけです。

実現不可能な結論を求めて、
攻撃を繰り返すところに
パワハラの特徴があります。

厳密な意味では不可能ではないにしても、
実際それを遂行するのは著しく労力がかかる
ということも似たようなことですね。

被害者は、途方にくれますが、
対人関係的な危険を強く感じ続けるという状態で、
生理学的に言えば、
生命身体の危険を感じ続けるということと
同様の反応を人体は示しています。

人間にとって、
心身共に極めて有害な出来事なのです。

赤ん坊が親に泣きつくのは、
赤ん坊だから許されるし、
泣いている声も可愛いと思います。
(だからなぜ泣いているのかわからないと
 不安になったり怒りを覚えたりします。)

大人が、特に権力を持っているものが
赤ん坊の様に結論だけを求めて
喚き散らすことは
むしろ犯罪として取り締まりたいくらい危険なことなのです。

それでは、同意対応をすることが
大人の対応なのでしょうか。
理想的な上司の対応を検討します。

部下が、ミスをした場合。
不問に付すこともできないとしたら、
先ず、このミスから、どの程度の実害が生じるのか
冷静に分析をします。
そうして、その実害を克服する方法、
むしろ、ミスを活かす方法を検討するでしょう。

そして将来に向けて
どうしてそのようなミスが生じたかの原因を分析する必要があります。
気が緩んでいたとか、そういうことでは安定した仕事はできません。
具体的にミスの生じた構造を分析し、
将来ミスを繰り返さないために、
具体的な対策につなげなければなりません。

仕事とはそういうものです。
繰り返されるところに業務の特徴がありますから
繰り返さないこと
改善することを見つけて将来さらにプラスを目指すチャンスなのです。

日本の風土はもしかしたら
「ビジネスチャンスになるミスの活用」
という発想が無くなってしまったのかもしれません。
「損して得取れ」という日本古来の発想です。

叱責や懲戒が、
当人だけでなく、職場という対人関係全体の将来において
プラスになるのでなければ意味がありません。
デメリットしかないのです。

部下の有能さ、上出来の結果だけを求めるというのは、
無能な上司の言い訳にしかすぎません。

「部下に緊張感を持たせる仕事」
「重石、ないしプレッシャーを与える仕事」
ということで割り切る会社もあるようです。
早晩、会社は先細りになるでしょう。

緊張やプレッシャーは良い仕事をするための要素になります。
しかし、それが高度になったり持続することで
自己決定力が落ちていき、ケアレスミスも増え、
結局デメリットしかないからです。

人間の緊張の持続には限界がある
という当たり前のことに目をつぶり、
緊張によって成し遂げる結論だけを求めている
幼稚な労務管理ということになります。

幼稚な労務管理は、
自発的な活動や、自主的な考察、
独創的な発想を奪います。
要するにモチベーションが低下するわけです。

ボランティアの支援者たちだって、
人を支援する場合には人間とは何かを考えるというのです。

他人と交流して利益を上げようという企業が、
人間とは何かを考えずに、
結論だけを求めて泣き叫ぶ赤ん坊の状態では
業績が上がらないことは理の必然だと思います。

まして、
国の在り方を決める国会議員が赤ん坊状態で泣きわめいて
権力を振りかざしているとしたら、
その国の将来はどうなることでしょう。

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