SSブログ

過重労働=強すぎる責任感を脱却して、過労死を防ぐための人間らしく生きる価値観への価値観の転換を [労災事件]

1 過重労働に胸を張る人々
2 過労死の弊害
3 責任感を持つことは美徳だという考え方
4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ
5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える


1 過重労働に胸を張る人々

開業されているお医者さんからうかがったのですが、
最近の学校の先生方の長時間労働は目に余るというのです。
60歳前の管理職の先生は
いつも深夜零時まで仕事をしているけれど
充実していて楽しいとか
別の先生も、先月時間外労働100時間になっちゃって
とか、それは高血圧は治りませんねと私も相槌を打ちました。

「ずいぶん忙しいですね」と
言外に働き過ぎが良くないよというニュアンスで言っても
教師の場合は、真顔で
「ええ、忙しいです。」というのだそうです。
他の職業の人たちは、ごまかしたり、苦笑したりと
そういう態度をとるのに、
教師は二の句を継げられない反応をするそうです。

医師の言う「忙しいですね。」という意味に
否定的なニュアンスがあることを分からないというより、
どこか誇らし気な雰囲気がある
あるいは教師だから当たり前です
という雰囲気があるそうです。

もう一つエピソードがあります。
平成29年3月の仙台市の中学校の卒業式のことです。
仙台で、一番ではないけれど古い創立だろうという名前なのですが、
卒業式の校長の祝辞で、
銀座にすし店を構えて世界中から食べにくるという
寿司職員の話が出されました。
子どものころからろくに教育も受けないで、
みんなが寝ている暗いときから起き出して準備をして、
みんなが寝た後まで仕事をして
仕事を覚えて、上り詰めて
それで銀座ですし職人をやっている。
それを見習えというのでしょうかそういう話でした。

既に電通の過労死事件が広く報道され、
国を挙げて働き方改革を唱えている時に、
あえて挑戦するように過重労働に自ら飛び込めという話でした。

ちなみに、そのすし職人の方は80歳を超えているということですから、
特別に血管や肺が丈夫な人だったということです。
同じ時代の若者たちは
どんどん過労死で死んでいきました。
今の脳・心臓疾患ではなく
結核などの伝染病や
風邪をこじらせた肺炎、衰弱死などで若い命を落としてきました。
当時の栄養状態では、
脳・心臓疾患が発症する前に
栄養不良が原因で死んでいったのです。

このため、昭和22年に制定された労働基準法は
1日8時間の労働規制が定められて今に至っているのです。
労働基準法の作成に携わったお役人は
後に労働法の教授となり教科書を書いています。
1日8時間労働制や当時の48時間労働制は
早死にしないために法律に入れたとはっきり書いています。

過労死という言葉はなくても、
当時から働き過ぎで命を落とすということは
法律に盛り込まれるほど知れ渡ったことでした。

中学校の、校長ともいう立場の人が
これから社会に巣立つ教え子に贈る言葉が
過労死にいざなう言葉を祝辞で話すというのだから
学校現場の労働に関しての考え方が
うかがい知れるというものです。

2 過労死の弊害

教師には危機感を持っていただきたい。
長時間労働を中心とする過重労働は
本人を早死にさせるだけではありません。

死に至らなくても
脳梗塞を発症して長期入院を理由に自宅に帰され
奥さんが24時間管理をしていた事例

うつ病を発症させて
奥さんが買い物行くとすぐに電話がかかってきて
いつ帰る?どこにいる?とはじまる事例

またうつ病のために奥さんと話さなくなったため、
奥さんの方で自分が嫌われたと思い込んで
離婚に至ってしまった事例、

本人がイライラして家庭不和がおこり、
子どもたちが大人の分まで家族を支えようとして
力尽きてしまった事例、

そもそも、親と一緒にいる時間が極端に少ない事例
実際には、死ななくても家族は苦しんでいるのです。

3歳で父親を亡くした事例では、
日曜日も仕事に行っていたので、
娘の父親の思い出は
2回、近所の公園に行ったことだけでした。

家族だけではありません。

自分が無邪気に長時間労働をするため
同僚が早く帰宅することがはばかられたり、
そういうこともありますが、
前任者はここまでやってくれたと言われて
後任者の長時間労働の道筋をつけたりということもあります。

学校の先生の場合は、さらなる問題があります。
教え子がいるということです。

もし、過重労働、長時間労働が
テレビの中だけのことだったら
実際に自分が、長時間労働を強いられれば、
これは異常だとか、これはひどすぎると思うことができるでしょう。
しかし、良く知っている人が
夜中学校の近くを通ると仕事をしていたり、
休日労働をしていたりすると
その異常さや、ひどいと感覚はだいぶ薄れてしまいます。
過重労働職場からの離脱が遅れてしまうということが
あると思います。それは生死を分けるでしょう。

仙台市の中学校の校長の卒業式は極端な例だと信じますが、
(おそらく教育委員会は処分したのでしょう。)
そんな馬鹿な常識外れのことを言わなくても
自分の働き方で教え子を過労死に導いてしまう
そういうことも考えてもらわなければ困ります。

3 責任感を持つことは美徳だという考え方

過重労働をする人、もっと端的に言えば
過労死でなくなる方たちは、概ね、
責任感が強く能力の高い人たちです。
学校の先生方はまさにそういう方々なのでしょう。
仕事の内容がそれを要求するのだと思います。

大切な子どものために、
やらなければならないことはやり抜くと
責任感を持ってやるからこそ
過重労働となることが当たり前だ
という意識なのでしょう。

また、PTAや社会が要請するから仕方ない
という言い訳もよく聞きますが、
これも期待に応えようという
責任感なのでしょう。

これまで私は、そのような責任感を
否定的に評価することができませんでした。
しかし一方で、自分を大切にしない、家族への責任を果たせない、
同僚や教え子に害悪をまき散らし
他人の命を縮めている原因になっているとすれば
どうにか考えを改める必要があると思います。

このように社会的に正しいと思われた価値が
後に否定された例としては戦争協力があります。
ほかならぬ学校の先生が、
仙台市の中学校の卒業式の祝辞の様に、
生徒たちを鼓舞激励して、
戦地へ送り込んでいきました。

戦争反対などをいうならば
教育の名のもとに非国民扱いをしたわけです。
万歳三唱で戦争に送り込んだわけです。

当時は、戦争に対する表面的な評価は
日本の経済を打開し、
アジアの諸国民を解放する聖戦だというものでした。

戦争に行って国のお役に立つということこそ
責任感の最たるものだったのでしょう。

戦争協力は単純否定されましたが、
滅私奉公とでもいうような責任感は
肯定的に温存されたのかもしれません。

また、今やるべきことを目の前にして
あるいは、サービスを低下させて
家族の元に帰るということも
一抹の抵抗感があることも事実です。

責任感もほどほどにということもあるでしょうが、
ではどこで責任感=過重労働に歯止めをかければよいのでしょうか。
ここは悩んでよいところだと思います。

4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ

これからいうことは、宗教の奥義ではありません。
あくまでも高等学校の倫理社会の教科書レベルのはなし
ということをお断りしておきます。

さて、ブッダが登場するころ、
インドでは、堕落に対しての抵抗が強く
厳格な戒律の元、厳しい修業が行われていました。
ジャイナ教では、万物の命を大切にするということを徹底し、
空気中の小さな生き物を誤って食べてしまわないように
白い布で口を覆うなどの徹底ぶりでした。

修行も厳しく
生死の境に追い込むような厳しい修業が尊ばれていたそうです。

ブッダもこのような修行の道に入りかけたようですが、
まさに悟りを開いて、
厳しすぎる修行から離脱したそうです。
その時に、牛飼いの少女から牛乳をもらったということが
象徴的に語られています。

中道という言葉があるのですが、
どうやら、厳しいのもほどほどにという意味ではなさそうです。
私たちはそのようにとってもよいのでしょうけれど。

道という言葉は、実践を意味するのだそうです。
中という言葉は、一つに偏らないということが中核で、
左右の間ということよりも、
むしろ、右と左とか、善と悪とか
そのような二者択一的な思考から自由になる
そういう意味のようです。

もっとも私たちは、少し単純化して、
修行を厳しくするか否かということから考えをはなれて、
本当に大事なことは何なのかということを考え、
そのためにどのような修行をするかということだと
一応押さえておきましょう。

このような状況をこのような切り口で見ると
思い起こされるのがイエスのアガペーです。

やはり当時、堕落に対抗して、
戒律という神との約束を守り
神の国を作り救済されることを目指した、
厳格でまじめな集団であるパリサイ派の人たちが
活躍していた時代です。

神との約束を守るということですから
誰もそれを否定することはできなかったわけです。

しかし、戒律を守るということは
わかりやすいだけに難しい側面が出てきます。
例えば、安息日には仕事をしないという戒律があります。
病気で苦しんでいる人がいても
安息日は治療をすることができないということになります。

戒律を守るということに縛られてしまい、
是正してよいものかなんとも難しい思いをされたことでしょう。

そんな時に登場したのがイエスです。
もっと大事なことがあるということで、
神は、善なる者にも、悪なる者にも、
変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる
という神の無償の愛、絶対愛を説いたわけです。

汝の敵を愛せとか黄金律の隣人愛等
戒律ではなく愛を説き、
神との新しい約束を説いたわけでありました。

こうやって見ていると
真面目過ぎる人たちは必ず、
世の中がおかしくなるときには出てきて、
その中から至高の実践家が登場し、
新しい価値観を示していたということがわかります。

大変興味深いことです。

5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える

それでは、責任感に代わる価値観を説く
スーパースターに橋渡しをするために
無理を承知で考える試みをしましょう。

責任感が正しいか否か、その程度は
という問題はいったん脇に置いておきましょう。

今考えなければならないことは
まじめな人たちが過労死しないための価値観です。

過労死を招く過重労働について考えましょう。
過重労働は、人を死なせる環境です。
この環境は、生きようとすることと逆行します。
少なくとも生物的にはそのように言えるでしょう。

過重労働をするということは
自分の命を守ろうとしないことになりますから、
少なくとも生物として間違っていると言えるのではないでしょうか。

そうして、先に述べたように
家族の中で自分の役割を果たす時間が無い
ということも言えそうです。
特に子どもに与える影響は深刻です。
過労死したり、致命的な状態になり寝たきりになれば
家族を苦しめるということも過重労働の結果です。

また、同僚に自分と同じ過重労働を無言で強制することですし、
後輩に過重労働の道筋をつけるということでもあります。
それは、他人の命の危険というリスクを拡大することです。

そうだとすると、この価値観を強調することが
問題の出発のような気がしてきます。

要するに過労死を起こすような過重労働は、
自分の命や健康を蝕むという環境であるとともに
自分が大切にするべき人達の人間関係を蝕む環境
出もあると言えると思うのです。

自分が大切にするべき人たちに
大切にするという役割を果たせないと言い換えてもよいでしょう。

これは、ただ命を守るという以上に
人間は、自分とつながりのある人たちに
役割を果たしていく責任があり、
つながりのある人たちと一緒に幸せになる
なろうとすることこそ、
人間として生きるということなのではないか
ということになるのだと思います。

自分とかかわりを持って生きることで
生まれてきてよかったと思ってもらうことができれば
なんて素晴らしいことでしょう。

6 価値観の転換をすることこそ過労死予防の一つの条件

法律には、もうすでに、過労死を防ぐための工夫が
色々と施されています。
これ自体が、禁止されても自分たちの権利を訴え続けた、
先人たちの努力と犠牲の結果です。

先人たちは、自分たちの主張こそが正当だという確信を持ち
国家などからの禁止、制限に対抗してきたと言われています。

実際の労働者の権利を拡充していったパイオニアは、
イギリスなどの西洋の人たちでした。

その不屈の精神は、
日本でもある程度は存在していましたが、
自力で法律を変えるという力になったというまでには
行かなかったと思います。

それはどうしてか。
おそらく、
自分たちこそ正当だ
という意識を
どのように作っていったか
その点を考える必要があったように思います。

西洋の人たちは、
自分たちこそ正当だという意識を持つ背景として、
自分たちを大切にしよう
自分の家族を大切にしよう
自分の仲間を大切にしようと
そういう考えに習熟していたのだと思います。

時代的背景や社会構造の違いなどがあると思います。
ただ、日本ではそのように、
自分や自分のつながりのある人を大切にする
という価値観が十分に確立しては
いなかったのではないでしょうか。

責任感が、教育や社会風習で、
会社のために自分の時間を費やすということに
すり替えられていたという
側面はないでしょうか。

私は、様々な法律の工夫だけではなく、
肝心な過労死防止の保障がここにあると思います。

自分の素朴すぎる責任感を疑うべきです。
長時間労働だけでなく、
パワーハラスメントやセクシャルハラスメント
不可能なことをやれと言われる環境等
自分の職場の出来事を家族に語れない環境
そのような職場は、
人間らしく生きるという価値観に照らして
不道徳な職場だと評価されるべきです。

与えられた仕事をやり抜くという
責任感に対する価値観よりも、
人間らしく生きるという価値観を優先するべきだと思います。
その行動の結果、
リスクがあるのか、デメリットがあるのか、
ということを十分に考えて、
人らしく生きるという観点に逆行するのであれば、
人間らしく生きるという方向に転換するべきです。

それこそが、過労死をしないで働く権利、
人間らしく生きる権利を保障する価値観だと思います。

過労死を防止するためには、
価値観の転換こそが必要だと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。