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虐待親に逆上する人たちは虐待死予防に役に立たない以上に有害であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日生後6か月の子どもを両親が衰弱死させたという報道があった。2人はおよそ2週間日中から夜間にかけて娘を自宅に放置。アルバイトやパチンコをしていたとみられて・・・とのことであった。

私は、この書き方が不自然であると思った。
アルバイトって言ったって、
それしか仕事が無かったのかもしれない。
パチンコと言っても、
パチンコをするためにに外に行ったのではなく
仕事先で2時間待機(無給だろう)を余儀なくされて
パチンコでもするしか思い浮かばなかったのかもしれない。

この報道では、パチンコで遊ぶために
子どもを放置したように受け手に印象を与えるので、
ミスリードではないかと指摘した。
実はよく読むとそれを匂わす
記者の配慮もある。

前に報道された私の依頼者の事件でも
マスコミは、
警察発表を裏もとらずに垂れ流していた。

真実追求や人権侵害のおそれを気にせず
怒りを誘導することが目的だ
としか思われない報道姿勢だと
常々感じていた。

このような虐待の背景としては
必ず現代の貧困があると確信している。

さて、そのようなことをフェイスブックに書き込んだら、
この親が鬼か蛇か、人間ではない
という怒りのコメントをわざわざくれた人がいた。
私がその両親に怒りを示さないことが悪いかのように
フェイスブック仲間の前で
そのことで公然と非難されたと感じた。

さらに「この両親は正しくない」と
コメントを書き込む人まで出た。
私は、この両親が正しいという気は毛頭ない。

しかし、私が怒らないことによって、
あるいはこの両親を責めないことによって
この両親があたかも正しいかのように
私が言っていると感じたようだ。

私達は、自分の怒る感情を疑うべきだ。

読者に怒りを起こさせる報道は
それによって読者、視聴者をつなぎとめるための
儲けの理論である。
人為的に怒らせることによって、
自分の本当の問題の所在から目をそらせ、
国民を簡単に戦争や、弱い者いじめに誘導する
有史以来の常とう手段である。

どうしてこの人たちが
私を面前で罵倒するように
怒りをあらわにしなければ気がおさまらないのか
それは、結局何の役にも立たない
一番弱い人の役に立たないということを
少し考えてみた。

<怒りは怒る人の自己防衛に過ぎないこと>

なぜ人は他人の子どもでもひどい目にあって死ぬと
怒るのか。
先ず、死んだ子供に共感してしまうということはわかりやすい。
ここまでは誰しも一緒なのだ。
無抵抗の赤ん坊が
おなかをすかして泣いていても
だんだん力が弱くなって衰弱していく様子を
思い起こして嫌な気持ちにならない人はいないだろう。
具体的にイメージがつかない人はいるかもしれない。

ではどうして怒るのか。

一つには、無抵抗の弱い赤ん坊に共鳴すると
その危機感、絶望感を
そのまま抱き続けることは人間は苦手だ
何とか危機感、絶望感、絶望的な不安感を解消しようと
無意識の反応を示してしまう。

その反応とは逃げるか戦うかなのだが
逃げるべき切迫する危険はわが身にはない。
加えて、犯罪者として悪と決めつけられた相手に対しては
わが身の危険を感じることはない
怒るという感情を持つことによって
危機感、絶望感、絶望的な不安感を
解消しようとしているのである。

また、行動経済学の見地からすると
不正それ自体を許さないという意識は
経済的効率性を度外視して行動に出ることがあるらしい。

しかし、要するに怒りは
自分の感情を収めきれない場合の
自分を守るための反応だということを頭に入れておいた方が良いと思う。

だから、怒る人にとって真実はどうでも良いことで
報道の、相手に怒る部分だけをクローズアップして
もしかしたら違うのではないかという理性は
見る影もなくなってしまう。

怒る人のもう一つのメリットも看過できない
虐待親は人間ではないという怒りは、
「私とは違う」という意識付けなのである。
自分とは連続性の無い者のすることであり、
きわめて特殊な、自分とは住む世界の違う者だ
ということで安心することができる。

しかし、刑事事件や虐待事例を多く扱っている私からすれば、
そのような思い込みを持つことができない。
虐待親は私たちと連続する人間の中の一人である。
ただ、それぞれの条件、環境が
彼らを追い込んでいるだろうと
確信に似た推測をしている。

その一つが貧困である。
貧困についてはまた改めて説明する。

この、「自分と異なる類型の人間」
というアイデアこそ有害である。
誰にとってか。それは、
この次に虐待死する子どもを救うことができない
という意味において有害である。

同じ人間がどうして子どもが衰弱死するまで放っておくか
どのような条件や環境があると
子どもを安全に育てることができないのか
それを考えることをしないからだ。

「自分と異なる類型の人間」のアイデアにしがみつく人たちは
特殊な人間だからその特殊な人間を排除する
という理屈になる。

実際に大阪で二人の子どもを餓死させた母親は
裁判員裁判で懲役30年の刑が確定した。

裁判員も餓死した子どもたちの写真を見ていると思う。
防衛本能が強く働くし、
自分は安全という環境があるので、
怒りの感情を量刑に反映したのだろう。
極めて自然な人間の行動である。
しかし、それでは子どもの虐待死は防げない。

私も、どちらかというと
怒りを前面に出すタイプの人間だった。
虐待という無抵抗であり、
親に庇護を求める子どもたちに対して
強度の共鳴をしてしまっていたと思う。

しかし、そんな無邪気な対応ができなくなったのは
虐待者からの相談だった。
法務局の人権擁護委員として電話相談をしていた。
自分が2歳の子を虐待しているといわれている母親から
相談の電話が来た。

この時、感情のままに母親を説教するということであれば、
母親は直ぐに電話を切っただろう。
止めたいのにやめられない虐待が続き、
子どもの命は風前の灯火になったかもしれない。

電話相談をするくらいの母親は、
自分の行動が虐待に当たり、
子どもに心身の影響を与えることは
既に知っている。
知識を吹き込む説教は意味がない。

子どもに対する愛情が無い親はいない。
子どもが憎いわけではない。
しかし、あたかも一般市民が虐待死の報道に触れて
怒りを抑えられないように
母親も怒りを子どもに向けてしまうのだ。

分かっていながら止められない
でも止めたい
どうするか。

子どもの命がかかっていると思うと
文字通り真剣勝負である。
私は、一緒に考えるという手法をとっていた。

指導するとか、援助するというのも違う。
相手の意見をすべて否定せずに、
ではどうしようかという
対等のメンバーとして知恵を出し合った。
結構オープンダイアローグ的な会話ができたように思える。
少なくとも、母親も電話を切らなかった。

話をしていて、そのお母さんが孤立している
ということがよくわかった。
そして、そのお母さんに抵抗なく溶け込んでいける場所を紹介した。
人権擁護委員の電話相談は、当番制なので
その後どうなったかについてはわからない。

でも
その方法ならやれる
ということを言ってもらった。

私は何を話したのか。
何のことはない。
自分の体験に基づいて、自分たちはどうしたか
ということをお話ししたのだ。

自分たちが苦しんだり不安になった経験を
このお母さんもしているとわかれば
あとは話は簡単だ。
自分たちが何を利用し、どのように危機を乗り切ったかを
話していくことがお母さんもすんなり理解してくれた理由だったのだろう。

そのお母さんの子育ての未熟さと
私の子育ての時の未熟さは
連続している。

ただ自分にあったものが
そのお母さんには決定的に欠落していた。

一番は困った時に助けてくれるつながりだ。

子どもから離れる時間を作ってくれる
パートナーであり、自分たちの両親である。

大阪の二人の子どもたちを餓死させた母親は
そのようなつながりが無かった。
自分たちの弱さをカバーしてくれる人はいなかった。

おそらく子供の泣き声が聞こえてきても
どうしたのか尋ねる人もいなかったのだろう。
その人を責めるわけではもちろんないが、
それが現代の日本社会の貧困なのだと思う。

虐待する母親は
私や私たちと連続している。
どこが違うのか、
その違うところを補う方法があれば、
虐待をしなくて済む。

排除の論理は、
子どもたちを救えない。
事後的に虐待死した子どもたちを
可愛そうに思うだけである。

誰からも子どもの愛し方を学ばなければ
子どもを愛することは難しい。
分断されている現代の日本社会の中では
驚くべきことが起きる。
それは、必ずしもその人だけの責任ではない。

怒りをあおる報道で
事情も知らないで怒るということは
歳のせいもあるだろうけれど
最近はなくなった。


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