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執拗ないじめは、200万年前の人類の狩りの手法から来ている。傷つく心も200万年前の環境を反映している。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ事件でそのいじめの概要を聞いていると
どうしてここまで容赦なく、執拗に行うことができるのか
信じられない気持ちになります。
加害者は、いじめをするために生まれてきたような
極悪非道の人間ではないかと思うことにも理由があるような気もします。

しかし、
ハヤカワノンフィクション文庫の
ダニエル・E・リーバーマンの
「人体600万円史」を読むと
ああ、そういうことかということがわかります。

200万年前、まだ人間が、狩りの道具を持っていない頃、
人間が動物を狩る方法は、
ターゲットとなる動物を追いかけていくそうです。
どこまでも追いかけていくうちに
ターゲットの動物の体温は上昇していきます。

当然追う側の人間の体温も上昇するのですが、
人間の皮膚には汗を出す汗腺が膨大にあり、
汗を出し、汗が気化する時に
周囲の皮膚のエネルギーを奪いますから、
皮膚の温度が下がり、体温を下げることができます。

一方ターゲットになった動物は、
汗腺が少なくて、熱い毛皮に覆われていますから、
どこまでも体温が上がっていきます。

また、人間は二足歩行なので、
移動のカロリー消費は、
四足歩行より少なくて済むという利点もあるようです。

そうこうしているうちに
ターゲットの動物がヒートアップしてしまい、
ダウンしてしまいます。
すかさず息の根を止めて、
いっちょ上がりということになります。

人間の狩りの仕方を一言でいえば、
消耗戦をしかけ勝ち抜くということなのです。
相手が消耗するまで追いつめるということですね。
「人体」のほかに
NHK出版新書「絶滅の人類史」更科功にも記載されています。

この追い方なのですが、
一人の人間が追いつめるのではなく、
おそらく複数のグループで共同して追いつめていったのだと思います。
無防備な単独行動をとってしまうと、
獲物を追っているつもりが、
もっと大型の動物に自分が狙われてしまい
ひとたまりもなくなるからです。

おそらく、大勢の人間で、
ターゲットがわざと全力で逃げるように
囃し立てながら追っていったのでしょう。

学校のいじめも
最初は、些細ないさかいからけんかが起こります。
加害者は、被害者になるターゲットが自分を攻撃したと感じ
自分を守るためにターゲットを攻撃します。

加害者は、感情を豊かに表現できる場合が多いので、
訳の分からない共犯者は
どうしても加害者に共感してしまいます。

そうしているうちに、
最初は防衛行為として始めた加害が、
いつしかルーチンになっていくとともに
全く関係の無い第三者が攻撃参加をしていくうちに
いじめとして成立するようになっていくわけです。

集団でターゲットを追いつめる
ターゲットが消耗するまで追いつめるということは
人間の狩りのスタイルそのものですから、
本能的な攻撃スタイルということになるようです。

自然発生的にやむということが起きにくい事情があるようです。

ターゲットとされた方も
200万年前の群れの感覚を持ち続けています。

200万年前は、群れは
大きければ大きい方が安心です。
外敵から身を守るため、
寒さから体温を奪われないためには、
ある程度の頭数が必要です。

それから、狩りをするチームと
群れを守り、狩りが失敗した時に備えて
植物を採取するチーム
赤ん坊を育てるチーム
留守を守るチームが
有機的に一体となって運命共同体を形成していたと思われます。

強い者が弱い者を攻撃してしまうと、
あるいは攻撃しないまでも自分だけが大きな利をとると
弱い者から順に死んでいきますので、
群れ全体が小さくなっていき
先細りで絶滅していったでしょう。

あるいはメンバーの弱点、不十分点をせめてたとしても
生まれてから死ぬまで同じメンバーですから、
多くを望んでも仕方がないので
彼のできることをして貢献してもらう
という発想になったでしょう。

群れに害をもたらさない限り
全員が平等に扱われたはずです。
これが人類の特徴なのです。

そういうきれいごとを人間が選んだのではなく、
そうでなければ死滅したので、
仲間を大切にする者の子孫だけが生き残っていったということになります。
こういう平等に扱わなかった群れは
死に絶えていったのです。

さて、人類の群れについては環境が様変わりしているにもかかわらず、
人間は200万年前の記憶から逃れられないようです。
そのような遺伝子を持ってしまっているからです。

自分が同じ仲間から攻撃される、無視される、
仲間よりも一段低い身分として扱われる
ということに、
とてつもない不安を感じます。

相手が自分に攻撃しないならば
この強い不安は、怒りとして表現されます。
しかし、相手にかなわないという意識があれば
恐怖を感じ逃げ出すことが基本です。

しかし、逃げることができない学校にいかなければなりません。
不安だけが持続しているにもかかわらず
怒りも、恐怖も感じることができず、
その不安を受け入れなければなりません。
これは生物にとってかなりきついことで、
徐々に生きる意欲を失っていく、消耗していく
ということになってしまいます。

逃げられる恐怖のほうが、軽いのです。
不安、即ち危険があることを認識しているにもかかわらず、
逃げることも闘うこともできないことは、
恐怖よりも強い絶望を与えることになるわけです。

いじめは
ターゲットとなる被害者が
人間扱いされないことに不安感を感じ続け
その不安を解消できない状態が
どこまでも続く現象ということになります。

攻撃する方は、
ターゲットをルーチンで、本能のままに攻撃し続けますが、
この時、ターゲットである被害者を仲間とみていないどころか
人間としてみていないのです。

いじめられるもの、差別されるものの絶望は
こうやって生まれていきます。

もうこうなると大きなエピソードなんていりません。
ターゲットが、自分が仲間として扱われていない
ということを意識させればよいわけです。

対等の仲間としてふるまうターゲットを
否定すればよいだけです。

この人類進化生物学の成果を踏まえて考えると
いじめの加害者には誰でもなる可能性があるということ
その時にストッパーは自然発生には起きにくいこと、
外部から強制的に止めなければいけないこと
「いじめを止める」ということでは不十分であること
「人間扱いしない」ということを止めなければならなず、
かなりの意識改革と
自分たちがやっていることがいかにひどいことかを
改めて覚醒させなければならないということになります。

このように、一緒にクラスメートを人間扱いしないということは、
クラスという一つの群れという意識を
大人たちが作れないということ、
自分以外はライバルなのだという強烈な意識付けがされていること、
自分を守るために必死にならなければならないという意識付けがなされていること
等があるようです。

「人間扱いしないということやめる」ということは、
何もしないことではありません。
「人間扱いする、仲間として接する」
ということでなければなりません。
そうでない限り、
不安は続きます。

悪さされることの不安ではなく、
不安の本質は、孤立させられるということだからです。

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