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「楽しむ工夫を行う」という考え方 むしろ「それどころではない]人のために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

私も人間ができていないというか、
いろいろなことで行き詰まり、
いろいろな人間関係で不愉快になったり
苦しんだりするわけです。

「心とは、対人関係の状態を反映した反応だ」
とか言って、それを承認ばかりしてしまう
自分の苦しみを放置してしまうという
過ちを犯しそうになることもあります。

過ちですね。

同級生でフェイスブックを始めた人がいて、
その人の記事で「自分をご機嫌にさせる」
というアイデアが突然目に飛び込んできました。

うつうつとしていた事情があったときだったので、
最初は、「おや?」と感じ、共感を覚えただけでしたが、
どうもずうっと引っかかっていて
やがて衝撃になっていきました。

ちょっと理屈っぽく説明しますね。

人間を含めて動物のテーマは、
「危険をいかに回避するか」ということにあると思います。
交感神経のシステムも、群れを作ることもみんな
そのために備わった特質だということができるでしょう。

要するに人間も他の動物と同じで、危険には敏感で
放っておいても危険、ネガティブなことは気づく
意識していなくても気づき、
ネガティブな気持ちになるようにできているわけです。

何か、偶然誰かが親切にしてくれたりという
そういうことが無い限り、
概ね不安を感じ易くなっている状態で、
不安を感じないときに無感情になるのが関の山なわけです。

私は、自分自身が、
まだ自分の理論を習得していないということがわかりました。

過労死も、いじめも、自死も
それを無くせばよいってものじゃない。
0を目指すのではなく、0の先のプラスを目指す
ということを震災以来他人には言ってきました。

自分自身の生き方にそれを当てはめていなかったのです。

これまでは、苦しさ、辛さなどの
ネガティブな感情を無くしたいと考えていましたが、
それはしょせん0を目指すという発想です。

その先のプラスを目指さなければ
0にだってならないということでした。
大事なことはプラスの感情を作るということだったのです。

同級生のようにご機嫌まではいかなくてもよいかな
と思うのですが、
「なんとなく楽しいな」
と感じる状態を増やすことはできるかな
と思えてきました。

こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
待っていても、楽しくはなりません。
人間は動物として危険に対して敏感ですから
放っておくと不安の種ばかりが生まれてしまう。

だから、
楽しもうとして工夫をすることが必要だったのです。

「人間は環境に働きかけて環境を変える動物だ」
ということでした。

楽しみは、もう何でもよいと思います。
今は仙台は桜が満開です。
好きな人は楽しめばよい。

歩くのが好きな人、自転車が好きな人
本を読むのが好きな人
仕事だってよいのかもしれません。

ただ、本当に苦しい時は、
そんなこともする気にはなりません。

愛する人を失った場合
家族と離別した場合、
そんなことをする気持ちにはなりません。

家族のように、その人にとって基盤となる群れは、
その構成員が一人でも欠けてしまえば
別の群れになってしまいます。
「その人と一緒にいる群れ」は無くなってしまうのですから、
自分自身を失うことになるわけです。
何もする気が無くなって当たり前です。

苦しいとき、悲しい時は
苦しむしかないでしょうし、
悲しむことが大切なのでしょう。

でも、
悲しみは抱えたままでも
何とかしたいと思うようになったら、
苦しさから抜け出したいと思ったら、
楽しむ工夫をしなければなりません。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
悲しみを無くそうとすることは間違いなのでしょう。

むしろ悲しみを抱えたまま、
愉しいと思うことをする工夫をするということなのでしょう。

もしあなたに小さな子供がいるならば、
クリスマスや誕生祝や
動物園や遊園地に行くというアイデアを持つ必要がありそうです。

子どもの笑顔を見て、
今回の記事の様に、
「子どもを楽しませることを忘れていた」
と言ってくださった方からの手紙をいただいたこともありました。
自分のこととして理解していなかったということになります。

その人は、愛する人を失って、
子どもと自分に障害があって
一人で子どもを育ててという
壮絶な生き方をしている人でした。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
対人関係の中で癒されることが特効薬だ
ということも理の必然でしょう

誰かのために行動をする
自分より弱い者のために行動をする。
これが正解だということになりそうです。

中原中也は
「春日狂想」という詩の中で
愛する者が死んだ時には
(私たち普通の人間は、
私から言わせてもらえば当たり前の人間は、)
「奉仕の気持ちになること」だと言っています。
これは、詩人独特の洞察力における真実を語っていると思います。

愉しくはしゃいだ気持ちになるということは、
特に私のような中年男性には難しいことですが、
「なんとなくいい感じ」を感じることはできますし
それで十分楽しい気持ちになれます。

それは意識しないとできません。
工夫しなければできないことかもしれません。
でもできるのです。

こつは、全面的に楽しくなることではなく、
「楽しい気持ちになる時間もあってもよい」ということです。
むしろ悲しみを捨てようとしないことが
大切なのかもしれません。

怒りは怒りのままでよい。
ただ、誰かに優しくなる時間もあってもよい。
誰かに感謝する時間があってもよい。
そういうことなのかもしれません。



special thank Ukkey
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