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怒りの共感は広がりにくい。日本的政治言論の不可解な未熟さ。 [弁護士会 民主主義 人権]

八方美人の私が言うのも何なんですが、
というか、八方美人だからこそわかるということもあります。

私は、現内閣の法案には賛成したものや
立法過程に協力した法律もあるのですが、
法律家の立場から、
集団的自衛権の法制化には反対しました。
(周辺事態法で十分だというもの)

今回高度プロフェッショナル制度を含む
労働基準法改正にも反対しています。

高度プロフェッショナル制度の問題では、
国民の多数に対して、
自分たちにかかわるということについて
うまく伝わっていないという分析がなされて
ああ、そうなのかもしれないなという想いです。

ただ、昨今の政治の流れを見ていると、
例えば、公文書の問題の政治的責任について
結論ははっきりしているはずなのに
なかなか世論が動かないということが
客観的にはあると思います。

その要因の一つについて
無責任にもご指摘させていただきたいと思います。

結論として、
例えば現政権批判派の言動は、
怒りが強すぎて、
中間派の人たちに共感されないという以上に
中間派の人たちを現政権よりの行動に
駆り立てているということを感じました。

現政権側の言論についても同じです。

少し説明します。
フェイスブックで、よくわからないうちに
グループに入れられて、
豪雨のような記事のお知らせが来て辟易するのですが、
興味もあるし、有益な情報がある場合もあるにはあるので、
閲覧をすることがあります。

(入れられたグループに寄ると 私は、保守であり、
 リベラルであり、革新であるようです??)

特に現政権批判の批判は
「ひく」ものが多いです。
特定の人物写真をデジタル処理して
相手を辱めるものは一般の人は
特に面白くありません。

政治的主張をなぞらえるならまだ表現なのかもしれませんが、
単に人格を貶めるようなものは、いかがなものかと思います。

それからスレッドの主張はまだ良いとしても
コメントがひどすぎる。
死ねとか、言葉にすることもはばかられるような発言となっており
穏当な評価としても、中学生でももう少し気の利いたことを
発言するものも多いだろうと思われます。

そうして、グループ内でそれらの発言を咎める人がごく少数であり、
表現の仕方を批判すると逆に批判されたりします。

私から見ると
ああ、同じような感覚の人たちが
同じような感覚だということを確認しあっている
内部固めのための言論なのだなあと
感じるわけです。

大事なことは、
反対者(職業的な言論人ではなく素朴な現政権支持者)
を説得するどころか
中間層に対しても「うかつには近寄れない」
という雰囲気を充満させているところです。

「おかしいと思うべきだ」
「怒りを持つべきだ」
「反対しないものはおかしい。」
という主張であり、
これでは相手方を説得するという発想がそもそも存在しない
甘えの言論ではないかと思います。

反体制派が
多数になりえない根本的原因があるように思われます。
むしろ多数へのストッパーとしての機能を果たしていないか
純粋に検討するべきではないかと思います。

これに対して、現政権よりというか
もう少し極端な言論があり、
こちらも、なぜそんなにというくらい
怒りを持った主張をしているようです。

例えば、
パチンコの規制を言わないくせに
カジノ法案に反対することは一貫性が無い
というようなものもあります。

これなどは、特定の人に対する批判なのですが、
祖国をどうするかというまじめな議論ではありません。

日本においてこれ以上認可博打を増やすか減らすか
ということが論点なのですから、
誰がどういう背景でものを言っているか
ということについてはどうでもよいことだと思います。

結局、パチンコがあるのだからカジノがあってもよいじゃないか
という無責任な主張になるわけです。

但し、決定的な違いは、
これらの極端な議論は、
自陣に痛手にならないということです。
むしろ、議論自体が、不穏当なやりとりで
相手方の人間性を否定するものだという意識を振りまいて、
一般国民を議論から遠ざける効果があるからです。


議論が嫌なら当代の権力者が指示されるだけの話です。

機動戦から陣地戦に変わったといわれて
そろそろ100年が経過しようとしています。
しかし、日本の言論界は
相も変わらずに機動戦をしているようです。

なぜ、中間層を味方にできないか
まじめに考える必要があると思います。
半数近くの世論を獲得するのが頭打ち
という要因を真剣に検討する必要があると思います。

正しいことを言っているから指示されなければならない
ということは、夫婦喧嘩でよく聞く論理です。
俺が正しく、妻が間違っているのに
どうして妻は俺を恐れるようになったのだ
とかいつまんで言えばそういう事例が
他人事ではなくあふれています。

どうすれば自分が支持されるのか、
経済的利益ということもあるでしょう。
しかし、本当の決め手は
どちらが自分の仲間なのかということが
モチベーションになっていると思うのです。

ほとんど政治に関心がなければ
面白いテレビ番組の影響をただ受けるでしょう。
それすらなくても、
首相の顔と名前はわかるわけです。

野党の党首の顔はわかっても
名前まで正確には言えないという人も多いのです。

そうするとどちらが身近かと考えると
当然、現在の第1党の方が身近に感じることが自然なのです。

そして中間層は、どちらも敵だとは思いません。
どちらが仲間なのかということで投票をするわけです。

現政権に反対する勢力は初めからハンディキャップを持っているし
現政権は初めからアドバンテージを持っているのです。

この時、何も前提もなく怒りを表現し、
怒らない方がおかしい
という主張する者は、
明らかに自分の味方ではありません。
殺伐としている方には近づきたくありません。

人類は、人類の形をしたものに
つい、共鳴、共感をすることがあります。
悲しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという気持ちになったり、
楽しんでいる人と一緒に楽しみたいという行動傾向は
2歳蔵になるとみられるようになります。

しかし、怒っている人
誰かを攻撃している人に対しては
それだけで一緒に怒ろうとすることはあまりありません。

よほど仲間意識の強い人の場合にだけ
怒りの理由を共鳴できる場合にだけ
怒りを共有すると考えるべきです。

逆に怒りを表明されてしまうと
関わり合いになりたくないという人が増えるようです。

怒りを表出したり宣伝するよりも
怒りを抑えて
怒りの理由、原因だけを
静かに表明、拡散するという手法が
指示を拡大するコツだと思います。

怒りは、二者択一的な行動(否定か肯定か)という思考になじみやすくなります。
複雑な思考を排斥するようになります。
一つ一つ積み重ねていく思考はできにくくなります。

党派的な行動をする人たちが、
意見が分かれても不思議がないところで、
類型的に、紛争当事者の一方を悪だと決めつけ
党派的に攻撃していることを目の当たりにすることがあります。

こういう人たちは、事情をよく吟味もせずに
怒りをもって悪と決めつけられた人を攻撃することができるようです。

あまり仲間にはなりたくありません。

冷静な第三者からみると
怒りのあるところには正しさはないという
印象が持たれやすくなります。

どんどんどんどん
内部固めだけをするようになり
内部も小さくなっていくことは自然の成り行きです。

怒りを表明したいだけなのか
国のために何かをしようとしているのか
吟味検討していただく時期になっているのではないでしょうか。

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