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「かわいそうだからやめる」ということがなぜできないのかの研究メモ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



最近、お話に行くときの肝で使うフレーズです。
パワハラでも、長時間労働でも、いじめでも、夫婦問題や虐待でも
結局
自分がしていることで、相手が苦しんでいる状態にあると気づいて
ああ、かわいそうだから、これ以上はやめようとか
これから自分がすることが相手を苦しめることなので、
やっぱりやめておこう
ということができない現象なのだと
そういうことを言っています。

かわいそうだからやめるということは
本来、人間のが自然と行う行動原理のはずです。
(本来というのは200万年くらい前のことです)
ところが、人間が所属する群れが複雑になってきたので、
この「本来」が通用しなくなってきたと
つまり環境の変化に適応できないために
こういう現象が起きているのだと考えています。

だから、かわいそうだからやめるようにしようという「人権教育」は、
もともとある人間の志向を際立たせるということなので、
案外理性的に効果を上げるだろうと
のんびり考えているわけです。

ところで、「かわいそうだからやめる」ということは
分析的に考える必要がありそうです。
つまり、言葉ではそれだけですけれど
意味を考えると、いくつかの言葉が省略されているということです。

だから、本当は、
「相手が苦しんでいることがわかりました。
 それは自分の行為によって相手を苦しめているようです。
 相手が苦しんでいると自分も苦しくなります。
 自分の苦しさを止める意味でも
 相手が苦しむ自分の行為をやめます。」
ということになるはずなのです。

これを要素に分けますと、
①相手の苦しみの認識(客観的評価)
②自分が相手を苦しめている(因果関係の把握)
③苦しんでいる相手がかわいそう
④自分も苦しくなる
⑤相手を苦しめている行為をやめる(行動)

という段階です。
これがどうしてできないのかについて考えてみます。

①の相手の苦しみを認識できない事情とは何か
通常は、相手の表情などを見て把握できるのですが、
メールやラインなどのインターネットの場合は
文字情報しか相手の情報がなく、顔も見えませんので
脅えていたり、泣いていたりという
実際の相手の表情が見えません。
インターネットの場合、そもそも①が把握できないということになり、
かわいそうだからやめるということができなくなる理由がありそうです。

この他に、似たようなケースですが、
相手がどこにいるかわからないけれど何らかの攻撃をする場合も
同様に「かわいそうだからやめる」という思考にはなりません。

相手が店員さんとかサービス業の人とか、
下請の業者の人とか、立場が弱くて
不愉快な表情をできない人に対しても
①が成立しなくなる可能性があります。

関連すると、相手は、苦しんでいないはずだ
という思い込みがある場合も、
①が成立しません。

他者を使って攻撃する場合も、
「攻撃するように」と命じるだけで
相手との矢面に立たない場合
上司だったり、親分だったり、いじめの首謀者だったり、
①が成立しません。

いじめの被害者は、いじめられるときに感情を隠蔽しますので、
①が成立しにくくなる傾向にあるようです。

ちょっとレベルが違う話ですが、
とにかく相手を見ない、見ないようにする場合も
①が成立しません。

ちょっとコメントすると
相手の感情を見ないから相手が苦しんでいるとわからなかった
というのはダメなんでしょうね。
「こういうことをすれば、相手は苦しむはずだ
 だからやめよう」
という発想が必要で、
学校のいじめや職場のパワハラ、セクハラでは
そういう論理で行かないと防止できないし、
ネット被害なんかもそうなのだろうと思います。

②自分の行為が相手を苦しめている
ということが分からない場合

よく言うことは、自分を守っている、仲間を守っている
という場合です。
相手が攻撃してきているのだから自分を守る
という無意識の行動をしている場合は、
相手が苦しんでいることも気が付きにくいですが、
相手が苦しんでいることに気がついても
相手が自分のしたことで苦しんでいると考えやすいようです。

自分自身が相手を苦しめている
という発想にならないようです。

防衛行為と似たような行為としては
正当行為、必要な行為だという意識がある場合、
簡単な例を出せば、勉強しない子どもを叱る場合、
親が「勉強しろ」とやかましく言うから子どもが苦しんでいると思わないで、
子どもが勉強しないで自分勝手に苦しんでいる
と思うようです。

パワハラの場合も
自分が過剰叱責をするから苦しんでいるのではなく、
親の育て方が悪い、性格が悪いから
会社でうまくやって行けずに苦しんでいる
と解釈してしまうようです。

相手が了解していることだと考える場合も②が成立しないようです。

また、自分の行為が相手に与える影響を正当に評価できない場合も
自分の行為のために苦しんでいるとはわからないでしょう。
多少苦しむかもしれないけれど
実は重い苦しみを与えているというケースはありそうです。

感じ方が人によって異なる
ということはわきまえておく必要がありそうです。

③と④
相手がかわいそうだと思って自分が苦しくなる
これは実は一つのことです。
共感とは、相手方の感情の追体験です。
苦しみの追体験なわけです。

相手が、例えば親が死んで悲しんでいる時に
自分も一緒に泣くということは、
自分の親が死んだような感情を持ってしまう
つまり悲しいということが共感の理論です。

相手が戦場にいて、命の危険があるという映画を見た場合も
自分も命の危険があるかのように
からだは生理的な反応をするようです。

もっとも、本人ではない場合は
その反応の強さにはずいぶん違いがあるので
プチ追体験みたいなものですね。

この共感が豊かに起きることこそ、人間を人間たらしめている事情です。
これができたので、逃げることも闘うことも劣る人間が
今まで生き延びてきたのだと思います。

この追体験ができない事情があると思います。
要するに人間性を喪失する事情です。

一番切ないのは、
自分が同様の苦しみを味わいつくしたので、
自分が同じことをされたとしても、
もはや苦しいとは思わない
という場合です。

また、自分の置かれている環境が厳しすぎて、
他者の苦しさに追体験する余裕がないという事情もあります。

相手と敵対している時に、相手に共感できない
ということも興味深い現象です。
同じ人間であっても、あるいは人間だからこそ、
一番の敵が人間だったという歴史があるようです。

基本的に人間は、人間を見ると味方だと思うようです。
しかし、相手から攻撃されてしまうと、
相手は、人間ではなく、クマやオオカミと同じように
「敵」ということになり、
仲間という感覚が生まれなくなります。
そうだとすると共感が起こらないようです。

但し、後に冷静になると、
記憶の中では人間という仲間を攻撃してしまった
ということになるようです。

問題は、というか、今考えていることは
人間は、敵だという意識がなくても
「共感を任意に拒絶できるのだろうか」
ということなのですが、この問題はここでは割愛しましょう。

最後⑤ 行動を停止することができない場合です。

相手に共感して、自分も苦しいけれど
戦争とか、上司のパワハラとか、
自分が行為をやめることによって、
今度は自分がもっと苦しい立場に立たされる
という場合も行動を停止できない場合なのでしょうね。



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