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日本の自殺対策は道半ば うつ病対策から環境改善総合政策への移行と対人関係学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



日本の自死対策のトップとも言うべき方の
お話を聞く機会がありました。
印象的なことは、
これまでの自死対策は、うつ病対策だったが、
現在の対策は、環境改善に移行してきた
というお話でした。

私は、弁護士の立場から
業務や付随活動で自死を扱ってきた経験から
あるべき自死対策は環境改善だと
言い続けてきました
これがようやく受け入れられたと感じ感激した次第です。

しかし、実際の自治体や国などの自死対策の現状を見ると、
うつ病対策から環境改善への移行は
道半ばであると思います。
自分自身についても、
多かれ少なかれそういう発想に立ち切れていない
ということを折に触れて痛感します。

ここで誤解を避けるための説明が必要でしょう。
うつ病対策を止めるべきだと言っているわけではないことです。
うつ病が改善されれば自死に至らないということもあることです。

問題なのは、これまでは、うつ病対策に重点を置きすぎてきた
ということです。
これには理由があります。

うつ病が自死を招く可能性があるということは
医学的に承認されてきたことです。
うつ病以外の要因については、曖昧模糊としていました。
このために自死対策が医学的に承認されたうつ病対策になっていた
という側面があると思います。

また諸外国の自死対策において
うつ病対策がとられていたという事情もあります。

しかし、うつ病対策に偏重している国よりも
環境改善政策を織り交ぜた北欧などの国の方が
自死者の数、率の減少がみられた
という事情もでてきました。

また、内因性のうつ病以外でも
多重債務による自死、過重労働による自死、いじめ自死
等によって、
外部的事情と自死という因果関係も
社会的に認知をされ始めました。

WHOも自死は防ぐことのできる死であるとし、
社会的要因も強調するようになった。
国も自死は、追いつめられた末の死だとの認識を示すに至りました。

このような背景事情からもうつ病対策偏重から
環境改善を含んだ総合政策に移行してきたわけです。

さらに
うつ病対策偏重には
重大な限界があったことも指摘しなければなりません。

うつ病対策が、うつ病者に対して、
治療を充実させ、社会復帰の諸施策を講じていく、
その結果、生きる意欲を取り戻すという一連の政策ならば、
極めて重要であり、現代においても必要な政策です。

しかし、従来の自死対策は、これとは異なっています。
うつ病者を「気づき」(発見し)、精神科医療につなぐ
そのためのゲートキーパー養成事業に
という図式化された政策を行ってきていました。

ところが、うつ病者を見つけることは
実際には困難なことです。
北海道大学名誉教授の山下格先生の
精神医学ハンドブックでは、
重症うつ病者を除くうつ病者の圧倒的多数は
うつ病を隠すと指摘されていますし、

実際に私が接しているうつ状態の人たちも
よくお話してくれているところです。

相手に心配をかけたくないという気持ちが
自分のうつを隠すということを
自然に起こしてしまうようです。

このため、医者も気が付かず、
順調に治療をしていたつもりが
突然の自死を招いてしまうことがあると
山下先生は注意喚起をされています。

実際は自死のサインなどなく、
あったとしても事前に把握できるものではありません。
それにもかかわらず、
うつ病を見逃した、自死のサインを見逃したと
そういう発想になりやすく
自死者を防ぐ役には立たないにもかかわらず、
自死者の周囲に自責の念を植え付けるだけの
理論になってしまっていたのが実情でした。

また、精神科につなぐのは良いとしても
つないだ後の対策もなく
医師任せになっていたという問題点も指摘しなければなりません。

主訴ごとに(不安だ、眠れない、焦ってしまう等々)
重大な副作用を持つ薬の種類が増えていくという
多剤処方の問題の改善や
居場所のない、引きこもるしかない社会の状況の改善についても
必要性すら浸透されていないのが現場でしょう。

ひとたびうつ病になると
風邪のように短期間で治癒することは多いわけではなく、
長期間社会復帰できない状態が続くことも少なくありません。

うつ病対策に偏重していたにもかかわらず、
うつ病対策自体が結果として十分なものではなかったのです。

そうして、
多重債務や過重労働、いじめなど
うつ状態に陥らせ、判断力を奪う要因をそのままにして
うつ状態になってから対策を立てるということに
批判が起きていたことは自然のことでした。

国は、このことに気がついて、
現在各自治体に
「事業の棚卸し」というユニークな名称の指示を出しています。

これまでうつ病対策とは思われなかった事業に
自死対策の効果があるということを指摘し、
各自治体に事業の自死対策との関連付けという
再評価を求めました。

しかし、各自治体では、
従来の自殺対策=うつ病対策
という図式が浸透しすぎていて、
国がサンプルとしてあげた事業だけが、
その理由も理解されないまま
自死対策関連事業とされているという側面も否めません。

これもうつ病対策偏重の弊害でしょう。


うつ病対策から環境改善を含む総合政策にかわるということは
自死の理解に対する変化も必要となります。

それは、一言で言えば
「自死をする人は、自死になじむ特別な個性のある人
ではなくて、
誰でも同じ環境に立たされれば、
自死をする危険がある。」
という人間観にたつことです。

こういう考えになかなか立つことは難しいようです。
原因として、
臨床医学にしても、臨床心理学にしても
「個別のクライアントの治療」という観点の学問であり、
「当人の症状をどのように改善するか」
という発想になりがちである。
原因をクライアントの中に探す宿命を負っているように感じます。

端的に言えば、ある医学雑誌で、
会社に適応できないのは
労働者側に精神的成熟が足りないからだ
という決めつけで、論を進めている記事がありました。

それは、会社という社会制度は適切に運用されていて、
その場になじめないのは
なじめない側に原因がある
という発想のように感じました。

うつ病偏重の政策の根本的由来もここにあると思うべきです。
だから症状が出現することを待って
症状の改善という政策に疑問を抱かなかったと考えられるでしょう。

臨床医学から公衆衛生的発想に
切り替えが必要なのだと思います。

人間の普遍性にもっともっと着目するべきなのです。
そのような人間観に立った研究が
特に日本では遅れていると感じます。

環境によって、病気ではない人が病気になり
あるいは極端な視野狭窄や自由意思を奪われ
自死に追い込まれています。
この事態を防止する実務的研究が必要です。

どうしても、「こころ」の問題が絡みますから、
話が哲学的隘路にはまり込んでしまう傾向があります。
そうではなく、
自死防止、視野狭窄防止の範囲で
人間を理解すればよいのです。
それ以上の複雑な部分も認めつつ、
快適に、幸せに暮らすことができればよい範囲で
研究すればよいという実務的な学問です。

その範囲では、人間はそれほど大差がない
そう思います。

私は対人関係学という考えを提唱してきました。

簡単にいうと、

人間は、群れの中で尊重されて生活したい
という本能的要求がある。(所属の根源的要求)

群れの中で尊重されない事情があると
生命身体の危機感と同様の生理的変化をともう
危機感を感じる(対人関係的危険)

危険を感じると危険を解消したい要求が出現する
これに基づいて、
恐怖を伴う逃走
怒りを伴う闘争(攻撃)
という危険解消行動を行う。

対人関係的危険についても群れにとどまる志向をしてしまう。

しかし、群れの中で尊重される方法がないと認識すると
危険解消要求は極限まで高まってしまう。

現在人間は複数の群れ(家族、職場、学校他)に所属しますが
すべての群れでこのような反応を無意識にしてしまいます。
だから、例えば家庭に問題がなくても
学校でいじめを受けていれば、
危険解消要求が極限まで高まってしまうことも
よく観られることです。

危険解消要求が昂じると
複雑な思考ができにくくなり、
将来的因果関係、他人の気持ちという思考能力が低下し、
折衷的な志向ができなくなる二者択一的な思考に陥り

生存要求よりも危機解消要求が強まってしまう、
現在の危機感を解消することが何よりも最優先事項となり、
自死、離婚、退学、犯罪、いじめ、虐待などの
行動に出ることを制御できなくなる

従って、最も重要なことは
対人関係的危険を起こさないようにすること
適切に解消すること、
ということになります。

ただ、現在の段階では、
何が対人関係的危険を感じさせることなのか
ということを
共通認識にしていくことこそが
求められているように思われます。

知らず知らずのうちに
対人関係的危険を起こさせていることが
余りにも多いようです。

もし、この対人関係学の概念が正しいとすればということになるでしょうが、
どうやって、このことを多くの人に理解していただけるようになるのでしょう。
とりあえず、
あきらめないで頑張っていこうと思います。

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