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「利己的遺伝子」論批判 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 「利己的な遺伝子」が生まれた経緯

利己的遺伝子論は、ドーキンス博士の衝撃的理論である。
比ゆ的に言えば、進化とはDNAの永続性のための営み
ということになる。

人間も他の動植物もDNAを存続させる乗り物に過ぎない
ということを発表し、
認知学者を中心に衝撃を与えた。

あたかも、フロイトが、無意識を発見した時の
ヨーロッパ知識層が抱いたような衝撃なのだろうと思う。
少しずつ、人間の行動、命の営みが解明されていく
人間の真否性のベールが明かされつつあるその途上の大きな出来事である。

ドーキンス博士は、どうして「利己的な遺伝子」を著したのか。
本文に明示してある限り、二つのことが目的とされている。
群淘汰説の論理的な否定と
人間が時折見せる利他的行動の理由を解き明かすことだ。

群淘汰説とは
進化における環境への適応をする主体を
個体ではなく群だとする。
群、即ち種や集団の利益のために
個体が奉仕することが行われ、
そのような構造の集団は強いため
世の中は自己犠牲をする個体集団の群れが多数となる
というような結論になってしまう。

このような「群淘汰説」は、正面切って正当性を主張されることはないが
形を変えて、素朴に主張されることがいまだにあり、
人々の素朴な正義感に合致するので
見過ごされることがある旨ドーキンス先生は指摘している。

しかし、群淘汰説を否定すると、
個体が群れのために自己犠牲の行動をする理由について
遺伝子レベルでは説明がつかなくなるので、
そのような「利他行為」の説明方法が必要となる。
これが、血縁者の利益、近似遺伝子の利益を図る説や
相互互恵説(将来的なギブアンドテイクの期待)を
生み出す要因となっている。

2 考察の前の確認

私は、利他行為、利己行為という二者択一的な考え方に疑問があるが、
どちらかと言われれば、
利己的行為をすることが生物の基本であると考えている。
比ゆ的に見れば、
利己的行動をすることこそ遺伝子の普遍的法則だと言ってもよいと思う。
それでよいと思う。

ただ、利己的、即ち個体が自分の利益のために行動をすることの意味を
もう少し複雑に把握するべきだろうと考えている。
利己行為と関連付けない利他行為がある
と単純に切り離して考える考え方が、
議論を錯綜させていると思っている。

その説明をする前に、くどいくらいおさらいをする必要性がある。
遺伝子は意志を持たないということだ。
遺伝子を共有する種自体が、環境不適合によって滅亡しているのだから、
遺伝子自体が滅亡しているという現象はありふれて起きてきた。
遺伝子は必ずしも万能の間違いのない行動をするわけでもない。

「利己的遺伝子」と遺伝子に意志があるような比喩を使うのは、
長期間かけて生き残ってきた遺伝子の
法則性に対する比喩である。

しかし、人類が子孫を遺してきたのは
あくまでもこれまでの環境に適応してきたという結果であり、
例えば将来を約束するものではない。
むしろ、人類に関して言えば
自らが作り上げた環境によって、
種が滅びる可能性を高めている状態である。
また、環境への適応という一連の現象は
何万年、何百万年と言いう長い営みの中で生まれるのであるから、
その意味では、現在、我々が生き延びているのは、
現在進行形ではなく
過去の適応の結果を著しているに過ぎない可能性もある。
あたかも光り輝いて見える恒星の映像を
地上で観察しているに過ぎないことと同じである。
実態は既に爆発して亡くなっている可能性すらあるのである。

これをくどくどと確認しないと
比喩が比喩であることを忘れてしまう。

さて、では、人間の利他的行動をどのように説明するか
働きアリや働きバチの自己犠牲の行動をどのように説明するか
人間が生きるということはどう言うことなのか。
われわれの疑問は、実はこういう問題であろう。

3 哺乳類における母親の子に対する利他行動

先ず、典型的な利他行動であるところの
親の子に対する犠牲的な行動については
少し独特の視点から説明することが必要だろう。

ここでは群れを作らない動物の、例えば熊の
利他行動を説明する。
熊は、母熊だけが子育てをする。
父親や祖父母、兄、姉は子育てに参加しない。

母熊は子熊を守るために、無謀な闘いに挑むこともある。
子熊を逃がすために、自己犠牲的な行動に出ることもある。

しかし、これは実は利他行動ではない
立派な利己行動である。

母熊にとって子熊は自分の体の一部であり
自分と子熊の区別がつかない。
懐胎期間中は実際に子熊は母熊の体内に存在し、
有機的に母熊とつながり母親の体の一部を構成していた。
自分の体内から生まれてきた子熊だから
自分の一部であると感じることに何ら不思議はない。

だから、自分とは違う個体に愛情を注いでいるというよりは、
自分の体の弱い部分をいたわっている
という感覚が近いと思われる。
私はそれを愛情と呼んで何ら差し支えがないと思っている。

そのため、子どもが自分とは別異の意思主体であると
種々の事情で認識するに至るや
それまで愛情深く育てていた子どもを
自分の元から遠ざけようとするわけである。
これが「子離れ」である。

これは、誰かが意図してこういう行動や仕組みを作ったわけではない
たまたま、そのような行動をしてきた結果
庇護が必要な時期の子どもが母熊に守られて
遺伝子を継承していくことができたという結果に過ぎない。

この仕組みは、おそらく
哺乳類には、ある程度不変な行動であると推測している。

もちろん群れで生活する人間も
このような遺伝子的行動が見られる。
母親がともすれば、自分の子どもを独立した人格だと認識しきれず、
自分の思い通りに行動をすることを強く求めることがある。
父親の子どもの支配とはまた別な
母親の子どもの支配があるように感じられている。

4 ハチの「利他行動」

ハチやアリの利他行動は、まぎれもない利他行動であるように見える。
ミツバチが、巣を守るために、敵に針を刺し、
針を刺すことによって自分の体を崩壊させて死に至る。
これほどの自己犠牲はないように思われる。

しかし、ハチは、巣を守るために自分を犠牲にしようという
目的をもって行動しているのだろうか。

疑問を言葉にすると
1)ハチは、本当に「巣」を守ろうとしているのか。
自分がいる場所、安住しようとしている場所に、
妨害物が近づいたので、
反射的に攻撃しているだけではないのか。
つまり、匂いや光、風などの
変化に反応しているのではないかということである。
巣を守るための攻撃だと限定してしまうと、
巣の近く以外の場所では、
ハチは刺さないということにもなってしまうが、
これは違うだろう。
さらには、自分が生まれた巣ではなくても、
移された巣になじめば、巣を守るかのような行動をするだろう。
2)次に、ハチは、相手に針を刺すことで自分が死ぬ
という因果関係を把握しているのかということである。
因果関係が把握されてこそ犠牲という評価が成り立つだろう。
もちろん動物の個体であるから、
自らの命を長らえようとする性向があることは当然だと思う。
しかし、ハチは死のうとして行動をしているのではなく、
単に針を刺すという行為だけを決定している
のではないかということである。
それによって、自己という個体が死ぬという結果
までは想定していないと考えられないだろうか。
ハチの因果関係把握の能力も低いと思われるが、
それ以上に、攻撃行動に出るというシステムが
強く働くような仕組みがあるということである。

人間で言えば怒りである。
人間でさえ、怒りで我を忘れて、危険な行動に出ることがある。
 これらの疑問を解消する結論は、
ハチにはもともと自分を生き永らえさせようとする遺伝子があり、
巣のようなものに近寄るものがいた場合に、
自分を守るための攻撃が発動しやすくなるシステムが
遺伝子上組み込まれているという結論である。
たまたまそういう習性をもっていたから、
巣を中心としたコロニーを形成し、
子孫を有効に増やすことができて、
その結果として種が生き永らえてきた
というように考えるべきではないだろうか。
 
ハチは、遺伝子に基づいた行為をする。
基本的には、自分が生き永らえようと努力するモジュールが
遺伝子に組み込まれている。
しかし、外敵が現れた時に反応しやすいモジュールも
同時に組み込まれているため、
自己保身モジュールと外敵反応モジュールが競合する場合は、
後者が優先されてしまうということになるだけの話である。
そのようなモジュールが組み合わされていたので、
現代まで種が存続したということである。

ハチは、巣を守ろうとしているのではなく、
たまたま自分を守る個体の大きな巣の近くで挑発すると
多数のハチが怒りに任せて攻撃してくる
ということである。

ハチは利他的だという前提をおいて、
「ハチはどうして利他的行動をするのだろう」
という問題提起をすること自体に疑問を感じる。
血縁や近似関係等という議論は
特に何らかの有益な効果をもたらすものではないだろう。
血縁や近似関係等は、
そもそも個体の行動原理としてはフィクションである。
遺伝子は意志を持っていない。

5 人間の「利他行為」を導いた環境

 認知心理学者たちは、極めて重要なコンセンサスを持っている。
それは、人間の心はおよそ200万年前に形成されたというものである。
私は、200万年前という年代の特定はできなかったものの、
人間が群れを形成し、
群れの中で一生を終わる時期に形成された心が
現代でも受け継がれているということを主張してきた。
だから認知心理学のコンセンサスには大いに勇気づけられた。
 
なぜそのような心が形成されたかについて、
もっと議論するべきではないかと考えている。
つまり、どのような心が形成されて、
種が存続するためにどのように有利だったのかということである。

 その頃の人間を取り巻く環境は、
氷期でジャングルが減少したことにより競争が激しくなり、
森の木の上の生存競争に敗れて地上に降りて生活をしていた。
肉食獣が多くいたので、
命を長らえるためには肉食獣に対抗する方法が必要だった。
しかし、人間には、馬のように逃げるための脚力はない。
鳥の翼もない。敏捷性も小型動物ほどはない。
闘うための牙もなく、顎の力も弱い。
なんとも生存競争には適さない動物だった。

 このような環境に適応するためには、
群れを作るしかなかった。
比較的大型の動物である人間が集団でいることによって、
リスクを回避する動物である肉食獣は、
もう少し安全な対象を狩ることを志向したはずであるから、
人間は襲われにくい。
立って移動することも実際よりも大きな動物であると
肉食獣に誤解を指せるメリットもあったのではないかと思われるが、

さらに、誰かが肉食獣の攻撃を受ける時に
集団で反撃をしたということがあれば、
肉食獣は一つの個体に攻撃中という
無防備な状態を反撃されてしまうと、
リスクを避けて逃亡したと思われる。

人間を襲うと集団反撃のリスクがある。
「集団でいる時は人間は襲えない」
という記憶が肉食獣の中で形成されていくことによって、
人間が肉食獣によって絶滅しなかったとは考えられないであろうか
(袋叩き反撃仮説)。

 さらに、木の下に降りた段階で、
人間は小動物の狩りをするようになったと考えられている。
当初はハイエナのように死肉をあさっていたが、
集団で小動物の個体を追いつめて
弱ったところを狩ったのだろうと言われている。
この狩りの手法からしても
人間が群れを作ることのメリットが大きかった。

 人間が選択したことは、利他行為をする傾向ではなく、
群れを作るということであった。
あくまでも、群れを作るためのモジュールとして
利他行為と見える行動をしているのであった。
当時の群れを作るための方法は、言葉や道徳ではない。
複雑な言葉が生まれる前から群れを作っていたのである。
だから、群れを作るということは
遺伝子の要請を受けて行っていた
本能的行動であると考えなければならない。
私が考える群れを作るモジュールを説明する。

6 人間が群れを作るために遺伝子に組み込んだモジュール

1) 最も基本的なモジュールは、単独行動をせずに集団の中にいようとするという志向である。誰かの近くにいようとすることだ。この裏返しの表現は、単独になること、仲間外れになることを恐れることである。自分が隣にいる人間から嫌われそうになる、つまり外に追いやられそうになると感じた場合、自分の行動を修正し、関係の修復を図る。自分が追放されそうになった原因を記憶し、繰り返さないということができるようになるだろう。その記憶は、「自分の追放」という危険の認識を伴い、同様の行動をしそうになると、不安感が生まれ、行動を抑制したはずだ。これも、誰かと一緒にいようとする傾向から生まれた行動パターンだと思う。
2) 群れの中にとどまるように行動を修正するために必要なモジュールとして、共感というシステムがある。他者の感情を、自分も追体験して、同じ生理的変化を起こすシステムである。これによって、群れの誰かが危険を感じた場合に、共感によって自然に交感神経が活性化され、逃走や闘争に移行しやすい体の状態が作られる。このシステムがないと、自分の行為によって相手が嫌がっていることに気づくことができない。また、気づいたとしても、嫌がっているからやめようという行為に出ることもできない。共感のシステムによって、相手が嫌がっている ⇒ 相手が苦しがっている ⇒ 自分も嫌な気持ちになるし、苦しい ⇒ 自分が行為をやめることによって相手の苦しみがなくなるので ⇒ 自分も苦しくなくなる ⇒ だからやめようということになる。
   相手が喜んでいれば自分もうれしい。群れに早く帰ろうということにもつながる。
   この共感モジュールによって、袋叩き反撃が可能になるのであす。
3) 自分の近くにいるものを仲間だと感じることも群れを作るためのモジュールである。認知心理学における「単純接触効果」である。わかりやすく言えば200万年前、生まれてから死ぬまで基本的には同じ仲間と暮らしていた。例外として繁殖に伴うグループ間移動という可能性もあると思われるが、その可能性についてはここでは割愛する。群れのメンバーは近くにいるのであるから、仲間という認識を持ちやすい。群れの仲間を仲間だと認識することは合理的である。近くにいれば、その者の喜怒哀楽や感情の程度、因果関係も分かりやすい。共感をしやすくなる。つまり感情の共有ができやすい。さらに仲間だという意識が強くなる。共感が強くなれば、仲間の一体性が生まれる。つまり、自分が仲間と別の人間だということにあまり意味をおかなくなる。徐々に群れを守ることと自分を守ることが区別がつかなくなりにくくなる。
   単純接触効果は、単純なことだが力強い理論だと思う。自分の遺伝子を守ろうとするという法則は、個体レベルでは全く当てはまらない。遺伝子が近いものを守ろうとすることさえ、個体レベルでは何が自分に近い遺伝子化はわからない。遺伝子レベルの話をすれば、人間という種の遺伝子が存続すれば満足するのであって、人間の種類には興味関心を示す証拠はない。逆に人間は他の哺乳類と比べても嗅覚が格段に弱い。この時点で、遺伝子は血縁を維持しようとする志向を止めていると言わなければならないはずである。これに対して、近くにいる者は、見ればわかる。近くにいる者に仲間として共鳴できれば群れを作ることができる。単純なものほど強いと感じる次第である。
   この点区別が必要なのだが、本体的には近くにいるものが仲間なのだけれど、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ一緒にいることから、「人間は仲間だ」という感情が生まれやすくなる。喜怒哀楽が共通であれば、つい感情を共有してしまうことになる。これは単純接触効果よりはだいぶ弱い効果であるが、このような付随的な効果が生まれていることには注意が必要である。
4) 弱い者を守ろうとする志向も群れを作るための必須のモジュールである。群れを維持するためには、一番弱い赤ん坊を守らなければならない。そうでなければ、やがて一人一人、死を向かえていき、群れは消滅する。群れを維持させよう、子孫を遺そうとすることは遺伝子の普遍的な特徴である。群れを存続させるためには、一番弱く、現時点では何の役にも立たない赤ん坊を守る志向が必要である。
   この点、当初は母親を中心に子どもを守っていたということは疑いがない。他の動物と一緒である。母親は出産とともに、共感のアンテナを赤ん坊に張りめぐらす。赤ん坊の空腹、不快、その他感情を共有しやすくする。これは赤ん坊の生存に極めて有効なシステムである。
ところが、人間は、母親だけが子育てをするわけではないという際立った特徴を有している。子どもも母親以外の個体の真似をする。母親以外の個体と感情を共有しているのである。
他の動物はそれほど大事にしない赤ん坊を大切にするためにはどのようなシステムが遺伝子に組み込まれているか。それは弱い者を守ろうとするシステム、弱さを理由とする不安や恐怖に対して追体験をしやすいシステムがあるということが合理的であろう。日本語の「かわいい」という言葉は、弱い者、小さいものをいつくしみ守ろうとする言葉である。
赤ん坊だけでなく、傷ついたもの、老いた者、弱い者を守ろうとし、弱い者を守ることを善とする心のシステムはこうして生まれた。袋叩き反撃仮説においても、肉食獣に襲われている絶対的恐怖感を追体験し、わが身の危険を顧みずに反撃に参加するのである。
    だから、空腹の他者に食料を分け与えること、傷ついた他者をかばうこと、弱い他者を助けることは、純然たる利他行為ではなく、弱い者に対する共感によって、自分が苦しんでしまい、この苦しみを解消するための行為なのである。   
 5) 仲間のために役に立とうという志向。共鳴共感が蔓延すれば、自分と他人の区別がつかなくなり、群れと自分の関係も一体的なものと感じる傾向が生まれてしまう。動物の個体の生存を維持しようという志向は、群れの維持の志向と区別がつきにくくなる。
    また、仲間が喜ぶことは、自分もうれしい。その結果、その人間関係を仲間と感じることによって、仲間のための行為をしようとする傾向が高まる。これもモジュールと言えばモジュールだろう。ただ、基本的には、人間が他者の近くにいたい、他者に対する共感をする力があるということから派生したモジュールということもできるかもしれない。
 6) 仲間のための群れを作るモジュールとフリーライダー論
    この点、他者のための行動をする個体が多い中で、他者からの恩恵を受けるが、他者に対する恩恵を与えない個体が増殖するのではないかという、いわゆるフリーライダー論が主張されることがある。
    この理論が、理論上のものだと思う私の立場は、群れを作るモジュールの成り立ちからすれば理解されると思われる。確かに、個体の突然変異などがあり、フリーライダーが得をするという事態は個別の事態としては起きるだろう。しかし、人間が群れを作った経緯からすると、フリーライダーは、そもそも生まれにくい。不労所得を得るためのフリーライダーの志向が生まれるためには、共感による行動習性ができない個体ということを前提にしなければならない。
    このような個体は、幼体から成体になる過程で矯正されたであろうし、強制されない場合は駆逐されただろう。およそ200万年前、人間が生き延びるために必死であった時代は、生き延びることに支障が生じる原因を排除してきたと考えられるからである。それができなかった群れは消滅した。それだけの話である。
 7) 仲間のための群れを作るモジュールと相互互恵主義
    人間の利他行動を相互互恵的行動だと理解する理論がある。これについても私のモジュール論からすれば無駄な議論だということになる。
    そもそも、誰かに親切にするとき、親切にすることが気持ちよいから親切にするのか、後で見返りがあるから親切にするか、現実的にはどうだろうか。見ず知らずの人に親切にしたからと言って、後でその人から親切にしてもらおうということを想定していることの方が少ないと思う。明らかなフィクションである。理論上のものに過ぎない。
    ただ、群れを作るモジュールは、人間の個体に概ね備わっていると考えれば、他者の利益になる行動を共感によって行うことは、利他行動をした個体にとっても他者から利益行為をしてもらえる可能性が高くなる。その意味で結果として相互互恵の関係が生まれるということは言えるかもしれない。このあたりが、遺伝子が意思を持つような表現をした上で議論を進めることの弊害なのであろう。個体としての行動原理と、種としての行動傾向をはっきり区別して論じていないから混乱が起きるのではないかと考える次第である。相互互恵主義の理論が、個体が将来的な見返りないしその可能性を求めて利他行為をするというのであれば、間違いである。遺伝子が、結果として、相互互恵が起こりやすい状況を作ったというのであれば、それは間違いではないだろう。この説明の違いは、モラルとは何か、なぜ人はモラルに従うのかについての説明で意味を持ってくる。
8) 必死さときれいごと
    人間が群れを作るためのモジュールを概観した。現代ではそれはきれいごとであり、絵空事であると思われる人も多いだろう。しかし、200万年前の弱弱しい人間は、こうしなければ生き延びることはできなかった。生きるためのギリギリの傾向だったはずだ。環境に適合した奇跡的な志向を持った人間のグループが、たまたま存在したのだろう。その軌跡がなければ人間は既に滅んでいただろう。このモジュールは、きれいごとというような趣味の世界の話ではなく、環境に適合するための奇跡のモジュールだったのだ。命がけで遺伝子の指示を実践していたのである。
    ところが、現代の人間社会では、大方きれいごとという評価が起こるだろう。どうして、群れを作るモジュールが現代社会では機能しないのかということを説明する必要があるだろう。
    群れを作るモジュール論の最大の問題は、他説ではなく現実である。

7 群れを作るモジュールが機能しない環境
かくして人類は、約200万年前ころ、
人間としての心を獲得していた。
   その特徴として、近くにいる者を仲間だと思い、
仲間が悲しんでいたら一緒に悲しみ、
仲間が苦しんでいたら一緒に苦しみ、
仲間の空腹を満たすためなら自分の食料を提供し、
仲間のためならばわが身を投げ捨て闘う、
仲間の中でも一番弱い者を助けようとする。こういう心である。
   
私は、基本的には、
現代人にもこれらの心のシステムは受け継がれていると思っている。
現代人が「善」だとか「正しい」とか、「道徳的だ」という場合は、
この遺伝子に組み込まれた心のシステムで実感している。

また、逆に、自分がこのように扱われていない場合には、
精神状態を圧迫して、極端な場合、精神破綻や自死に至るのである。
   しかし、現代社会においては、
フリーライダー論が幅を利かせているように、
このような心が人間の本性だということは、
きれいごとだと一笑に付されることの方が多いかも知れない。
  
 それでは、最大の問題の所在である現実、
他者に対して過酷な行為をする現実、
他者への共感を峻拒するような現実、
戦争からいじめ虐待まで、
本来人間の心からは起こりえないと思われる現象が
なぜ起きる現実を説明しなければならない。
  
 一言で言えば、環境の変化である。

同じことは私たちの体にありふれたものとして起きている。
  200万年前頃、糖は、手に入りにくいものであった。
私たちの体は、その頃の環境に合わせてデザインされている。
糖が口に入ればおいしいと感じ、糖をなるべく多く摂取しようとする。
また、エネルギー源として使うため、
安易に排出せず、体内で蓄積しようとする。
ところが現代では、安価で糖を窃取できるため、
このような糖欠乏に備えたシステムがあだとなり、
糖尿病などの生活習慣病を起こす原因となっている。

虫歯にしても、炭水化物もとらず、
口の中で時間をかけて咀嚼しなければならない物を
食べていた時代は唾液で分解されるために
虫歯にはなりにくかったとされている。
このような環境の変化に対しての不適合はありふれて起きている。
  
 心の問題も環境に対する不適合で説明するべきであると考えている。
  
心の問題に対して影響を与えた環境の変化とは、
人間の群れの形態の変化である。
これは、人間自身が自分たちの環境を変化させたことになる。
現代は200万年前と異なり、
一人の人間が複数の群れの中で生活している。
家族、学校、会社、地域、趣味のサークル、SNSの仲間と
継続的な人間関係に所属している。
または、国家、社会という広い人間関係の中にも存在している。
病院や弁護士、小売店など、
短期的限定的な人間関係を形成することもある。
さらには、学校や会社にも派閥みたいな内部集団を形成する場合もある。

   200万年前は、一つの集団で一生を終えたため、
   仲間を気遣うことで問題は解決していた。
   しかし、今は複数の仲間がいること
   どちらかの仲間の利益を追求すると
   別の仲間を不幸にしてしまうということが起きてしまった。

   同じ場所にいるのに、
   利害対立するような関係になることがある。
   
   徐々に仲間を大切にするということが
   非常に複雑なものになり、
   すべての仲間を大切にすることが不可能なことになる。
   こうして、一緒にいる人間が
   必ずしも仲間ではなくなり、
   一緒にいる人を大切にしないということが始まった
   ということになる。

   仲間を超えた普遍的な正義や道徳は、
   時として仲間を許さない理由として
   使われることになる。

   群れが代替可能なことから
他者といても安心できない心が生まれ、
   疑心暗鬼を蔓延させる
   自分を防御する意識は
   時折先制攻撃を引き起こす。

   これが原理である。

   あとは、この原理に乗って、
   人間の社会的病理を各論として説明できるはずだ
   ある程度は、この観点から
   社会病理を説明しても来た。

8 人類という大きな群れを形成する可能性について

人類はこれからも
同じ人間を傷つけては殺し、
益々人間関係が希薄、かつ殺伐とさせて、
自己の利益のために地球を滅ぼすのだろうか。

私の考察は、
社会や国家という人間関係や
国家間の関係を論じたものではない。

一人一人の人間の行動を取り上げたものである。

しかし、
人間が、遺伝子から独立した思考をすることができるとすれば、
その幸せを追求するために
異なった群れ相互の間にも
人間として利益が一致することに気が付くはずである。

IT革命や交通手段の発達は、
また、環境問題や移民問題は、
世界を一つの群れとして扱う可能性を強めている。
群れ相互の共存の方法を見つけ出すことができれば、
無駄な争いは減少していくだろう。

克服するべき課題は多くても
人間にはその可能性があるものだと
理論上は導き出されている。

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