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ゼンメルワイスの失敗、正義、真理が握りつぶされる理由  [家事]


イグナツ・ゼンメルワイス(1816~1865)医師

19世紀のウィーンのある病院の1科では
出産に伴う妊婦の死亡が異常に多かった。
死亡原因は産褥熱
つまり、お産の時に妊婦に細菌感染が起こり
細菌が血流にのって全身に回り
毒素による熱が出て敗血症で死亡したのである。

ゼンメルワイスは、この原因を突き止めた。
同科の出産の介助をしていたのが医学生で、
その医学生が遺体解剖をした後に手を洗わないで
出産介助をしていたため、
遺体の毒が医学生の手を汚し
その手で介助したために
出産の際に毒が妊婦に移ったと主張した。

彼は、出産の介助の前に
塩素系での手洗いを励行した。
その結果、産褥熱の発生を激減させた。

その後「徐々に」手洗いがヨーロッパに広まっていったとのことである。

しかし、ゼンメルワイスは、
英雄になるどころか
医学界から追放され、郷里のブタペストに戻り、
精神科に入院させられ、47歳で病死した。

この話を最初に読んだのは、
津田敏秀著「医学的根拠とは何か」(岩波新書)である。

真実は報われないということで衝撃を受けた。

先日、ジェニファー・アッカーマン著
「かぜの科学」(ハヤカワ文庫)を読んだら
やはりゼンメルワイスのことが記載されていた。
少し、別の角度からの説明もなされていた。

当時の産科医たちは、
ゼンメルワイスの主張を取り上げなかったばかりか
ゼンメルワイスの取り組みを妨害さえしたそうだ。
そしてそれはどうやら
ゼンメルワイスの性格に起因していたというのである。

ゼンメルワイスは、自分の考えに異を唱えた人たちを
「大量虐殺の共犯」、「医学界のネロ」、「殺人犯」
等と呼んだらしい。
医師たちは、このようなゼンメルワイスを容認できず、
主張を取り上げるどころか
ゼンメルワイスを狂人として扱ったようだ。

「医学的根拠とは何か」の該当部分を読み直してみると、
ゼンメルワイスは、
「医師が産褥熱で人を殺す」というビラを撒き、これが
精神科に入院させられたきっかけだと記載してあった。

まだ、細菌という概念も生まれていなかった時代のことである。
パスツールが「生命の自然発生」を否定し、
養蚕業の救済を始めたばかりのころで、
コッホが炭疽菌を培養するのも
ゼンメルワイスの死後10年経ってからである。

もしかしたら当時の医学界には
徒弟制度のような感覚があり
先輩である親方が絶対的存在だから
先輩を否定したり、批判するということが
ありえないことだったのかもしれない。

伝統と権威を否定するゼンメルワイスについては
怒りの対象ではなくて
どちらかというと奇行を行う危険な狂人だと
そのような扱われ方だったのかもしれない。

ゼンメルワイスの語る真実は
文字通り葬り去られたことになる。

一方ゼンメルワイスが当時の医学界を
強烈に罵ったことはよく理解できる。

子どもを授かるというしあわせの絶頂の時に、
何も悪いことをしていない妊婦が
人を助けるべき医師や医学生によって
命を奪われる様子を彼は見てきた。

夫をはじめとする家族が
妊婦が死ぬことで嘆き悲しむ姿を
目の当たりにしていた。

しかも、単に手を洗えばよいと
口を酸っぱくして言っているにもかかわらず
それを無視して危険な作業を続けていた、
あるいは敢えて手を洗わせないで作業をさせて
案の定妊婦の命を落とさせているのだから
「殺人者」、「虐殺者」ということは
ゼンメルワイスにすると文字通りの評価
正しい表現だったと確信していてもおかしくない。

しかし、ゼンメルワイスは
医学界から抹殺された。

さて、もし仮にタイムマシーンで
ゼンメルワイスの時代に行けたら
何をすることが正解だろうか。

答えは、ゼンメルワイスに対して
「暴言を慎め」ということで間違いないと思う。

確かにゼンメルワイスの手洗いは
徐々にヨーロッパに浸透していった。
長い歴史を考えると多くの母親たちを救ったことになる。

しかし、
彼が追放され精神病院に行っている間
なお手洗いをしないで出産介助が行われ
産褥熱で死んでいった母親が大勢いたことになる。

一人でも多くの命を救うためには、
けんか腰の正攻法?という手段をやめて
うまく立ち回らなければならなかったはずだ。

妨害を極力小さくすること
結果論だが、それがゼンメルワイスがやるべきことだった。

しかし、おそらく、
ゼンメルワイスは、自分では罵詈雑言を止められなかっただろう。
なぜならば、
当時のギルドを色濃く残していた医学界で
先輩たちに対して悪態をつくことができるほど
伝統と権威を意に介さない性格でなければ
産褥熱の原因が
医学的手法にあるかもしれないという
否定の発想に立てなかったかもしれないと思うからだ。

科学的発見と彼の性格はセットだったかもしれないのだ。


現代でも
正しいことが受け入れられないことが
山のように多く、
無力感や屈辱感にさいなまれ、
人生を棒に振る人たちが多くいる。

不条理に反撃をするために
相手に対して攻撃的な言動をする人たちも多い。
しかし、
彼らが受けた不条理に見合う「正確な」評価、表現は
相手方からすれば
悪態や罵詈雑言に受け止められている。
ゼンメルワイスのころと同じ構造は現代でも起きている。

さらに厄介なことは
不条理を行った相手方だけでなく、
中立的な人間や自分の仲間でさえも
罵詈雑言等攻撃的言辞に辟易して
関わりを遠慮され、
ゼンメルワイスのように孤立を招いているのである。

真実は、それだけでは力にならない。
その人が孤立するだけならまだ良いが
その人が守ろうとする人たちを
結果として見殺しにしている事態にもなりかねない。

あたかもゼンメルワイスが
守らなくてはいけない妊婦を
みすみす見殺しにしなければならない事態と
全く同じ事態が今も起きている。

では、現代のゼンメルワイスたちは
どうすればよいのか。

少なくとも行うべきことは
仲間を作り孤立しない事だ。

ただ、現代のゼンメルワイスは
仲間を作ると益々怒りがエスカレートするようだ。
仲間ごと孤立していくか
仲間同士の内部分裂が繰り返される。

仲間を選ばなければならない。

怒りをあおる人間には警戒しなければならない。
不条理を受けている場合
怒りを共有することはとても気持ちが良い。
救われた気持ちになる。
しかしそれは大変危険だ。
それから前に進めなくなる。
不条理を拡大再生産する危険がある。

心地よい響きを聞き続けると
修正提案に対しては拒否反応が出やすくなるらしい。
心地よいことを言う人が味方で
耳が痛いことを言う人が敵になって行くようだ。
人間の意識決定の大部分はこのようになされているようだ。
これでは「内部固め」で手いっぱいになってしまい、
それすらできなくなり、分裂に向かうことは必定だろう。

仲間には、怒りに物足りない人間を必ず加えるべきだ。
他人に対して働きかける場合
中立的な人間や反対者に対して働きかける場合は、
怒りに縛られていない人間が行わなければならない。
共感を実感できない仲間、
むしろ他人に共感できない性質をもつ仲間は貴重である。

真実や正確な表現に甘えてはいけないのだ。
主張することで自分のストレスを発散させることを優先するならば、
それはとりもなおさず結果を出すことをあきらめる
という選択と同じ意味なのだということに気が付かなければならない。

ゼンメルワイスの名誉は
死後30年してパスツールによって回復された。
現在では、ゼンメルワイスは母親たちの救世主と称えられている。

ゼンメルワイスは、その発見を通して妊婦を救済した
そして、ゼンメルワイスは、その失敗を通して
運動の普遍的な方法論を教えてくれた。

現実にはパスツールはなかなか現れない。


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