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いじめの判断は「原則として」被害者を基準とするべきことの理由 「可哀そうだからやめる」ができないことの考察3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由
2 どうして、客観的な判断をしようとするのか
3 被害者が被害を過敏にとらえている場合の対応

1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由

誰かにくすぐられるとくすぐったいのに
自分でくすぐってもくすぐったく感じない
この理由を一言で言うと、
「くすぐったく感じる必要がないから感じない」
ということになるらしいです。

では、なぜ他人が触る時はくすぐったくなる必要があるか。
それは、皮膚感覚が働いて、
異物が自分の体の触れられる場所にあるから
「危険があるのか確認して対策を立てろ」
という、危険回避の必要があるからだということになるでしょう。

これに反して自分が自分をくすぐる場合は。
予め、すなわち実際に触る前から
脳の無意識の部分が、
いつ、どのように触るか予想しています。
当然予想通りの触り方をするのですから、
何らかの対処をとる必要がなく
くすぐったく感じる必要はありません。

D・J・リンデン「脳はいい加減にできている」河出文庫
デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である 」
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いじめやハラスメントの時も同じことが起きているようです

友達同士で喧嘩をして、悪口を言ったとします
発言する方と発言を受ける方は
全く異なった認識をしています。

発言をする方は、どのような発言をするかについて、
発言の全体像を把握しています。
トータルで考えることができるので、
それほど強い調子で言っているつもりはないかも知れません。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
何をどのように発言されるかについて
予測することは不可能です。
警戒感が強い状態で、つまり攻撃に対して敏感になっている状態で
言葉の一つ一つを順番に聞いていくしかありません。
順次反応していくことになるので、
どんどん強い刺激になっていくように受け止める傾向にあります。

言葉一つ一つに反応していくことから
相手が話し終わってから内容を吟味することもできません。

攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強い敵意が
自分に向けられているように感じるものです。

だから、
攻撃者は、攻撃する意図がない場合さえあります。
例えば、極端な話、道理を説いている場合があるのです。
「ブランコに並んでいる時に横入りしてはダメだよ」
という趣旨のことを言っているのだけなのに
言われた方は
楽しくブランコに乗ろうと期待に胸を膨らませていたところ、
(並んでいたけれど、ガラスが落ちていたので、
 みんなのためにちょっと捨てに行っていたかもしれない)
カウンターを浴びせられた形になり
驚いているし、
相手の表情などから自分が攻撃を受けているということを感じ、
言葉一つ一つが鋭く聞こえてしまい
「お前なんかみんなと一緒に遊ぶ資格がない」
と言われたように受け止めていることがありうるのです。

当然これはいじめではない可能性もあるのですが
言われて傷ついている様子があれば、
大人が何らかの対応をする必要があります。

皆の前で言われたことどもをフォローすること、
自分が横入りを注意したことで
思わぬ衝撃を与えてしまった子をフォローすること
これが大人としてやるべきことです。

必要なだけでなく、
いじめを産まない人間関係を形成するチャンスなのです。

ともすれば、
けんか両成敗で、どちらも「悪い」
ということになってしまうことがあるかもしれませんが
良い悪いではなく、
どうすればよかったのか
ということを大人を交えて話し合うことが良いのです。

それぞれの良いところをはっきり共通認識にして、
一緒に成長していく仲間であることを自覚させる
ということが理想です。

これを阻む思考上の最大の敵は
実は、「善悪」であり、「正義」であり、「秩序」です。

子どもたちに悪意がないということを前提として
エラーを修正していく
これが肝要ではないでしょうか。

そのためには、「加害者」、「被害者」という言葉は
使わない方が良いのだと思います。

いずれも、子どもが孤立している、マイナス評価されている場合は
大人が対応をする機会にしなければなりません。

2 どうして、客観的な判断をしようとするのか

それにもかかわらず、
特に学校は、いじめがあったか無かったか
慎重に判断する傾向にあるように感じられます。

慎重に判断する結果
なかなかいじめだと認定しないために、
必要なフォローができない状態になっているかもしれません。

もしかすると「いじめがあった」と認定すれば、
色々と処理するべき手続も多くあるのかもしれません。
報告書などの手続きがあるかもしれません。
その対応を教育委員会なりに評価を受けなければならないのかもしれません。

そうでなくとも、
いじめの記録等をつけなければならず、
加害者とされた児童生徒の記録に加えなければならないのかもしれません。

いじめと認定して、加害者とされた児童生徒に不利益が及ぶというなら
いじめの認定に慎重にならざるを得ず、
それがいじめか否かを客観的に判断しようとしてしまう
動機になってしまいます。

暴力や脅迫などの犯罪行為であれば
警察の問題が出てくるのですが、
そうではない場合は、
いじめを制裁の対象にするという硬直な扱いでは、
適切な対応ができなくなってしまいます。

やるべきことは、通常は、
子どもたちの行動の修正です。
大人もそうなのですから、まして子どもの場合、
自分が言った言葉が相手にどう伝わるかなんてわからないことが多いので、
相手が傷ついている可能性があるのです。

「どういう風にふるまえば、双方が楽しく生活できるか」
ということを目標とするべきなのです。

ところがそういう目標ではなく
「いじめゼロを目指す」
なんてことを目標にすると
こういう弊害がでてくるわけです。

プラスを作っていく、教育していくことを目指すべきなのに
マイナスを無くしていくという発想の貧困さを
指摘しなければならないでしょう。

ひとりの生徒なのに、
「いじめ認定」という烙印を押してしまうと
極悪人として別の人格にかわったように
扱うようになるのかもしれません。

いじめる生徒もいじめられる生徒もどちらも自分の教え子だ
という意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。

3 被害者(の親)が被害を過敏にとらえている場合の対応

被害を受けているという子どもを基準に考えると
不合理な結果が生まれるのではないかという
現場の心配があるようです。

相談事例で増えてきているのは、
自分の子どもがいじめの加害者だと
攻撃されているというものです。

いじめの被害者だと主張する子どもの親から
いじめの加害者だという膨大なメールなどの攻撃を受ける
他人にもいじめがあると言いふらされているようだ
というものです。

実際の被害者の親だと主張する人のメールなどを見ると
脅迫すれすれの内容が記載されていますし、
加害者の子どもの人格を否定するような内容もありました。
復讐心や防衛意識はわかるとしても
明らかに不穏当なものでした。

この事例は小学校低学年の事例で、
それまで仲良しだった子ども同士が
クラス替えで別のクラスになったそうで、
加害者とされた児童は、
新しいクラスのお友達と仲良くなってしまい、
被害者とされた子どもにあまりかまわなくなった
ということが発端のようでした。

ここには、
被害者とされた子どもが加害者とされた子どもへの
依存傾向があるというよりは
被害者とされた子どもの親が、
加害者とされた子どもに、自分の子供の面倒を見てほしい
という依存傾向があったようです。

実際には被害者とされた子どもは、
新しいクラスになじんでおり、
友達もたくさんいて楽しく過ごしているようです。

母親だけが、
加害者とされた子どもを恨んでいたようです。

これをもっていじめだと主張していたわけです。

どうやら母親も、自分が子どもの時
いじめにあった過去があり、
自分の子どもも同じように虐められるのではないかという
強い不安があったようです。

おそらく最初は、クラスも変わって
被害者とされた子どもも心細い気持ちだったと思います。
加害者とされた子どもにかまってほしかったと思います。
それを母親に訴えたということもあることでしょう。

もしかしたら、加害者とされた子どもが
新しいクラスの子と話をしていることに夢中で
被害者とされた子どもに対応ができず、気も回らず、
結果として無視した事実もあったかもしれません。

被害者だと主張する子どもの母親は、
加害者だとされた子どもの母親に相談して、
不安を打ち明けて、
お呼ばれ会をするなり、
共同のイベントのセッティングをするとか
新しいクラスの子との遊びを応援する等して
他人に頼って解決すればよいのですが、
それができなかったようです。

被害者を主張する子どもの母親は
何度も学校に赴いていじめを訴えたようです。
どうやら
事実関係も分からないくせに
被害者を主張する子どもの母親に
同調してしまった人たちも存在したようです。
当然のごとく被害者を主張する母親は
無責任な共感によって
ますます不安を感じるようになって行ったようです。

学校は対応に苦労したようです。

「客観的な意味でのいじめが認定できないので、
いじめとして対応できない」
そういう感覚だったのではないでしょうか。

やがて、被害者主張の母親は、
学校から自分がモンスターペアレント扱いされていると思うようになり、
加害者扱いの子どもとその母親を攻撃するようになりました。

学校は、メールなどのはっきりした証拠が残る攻撃に対しては
きちんと対処をしていたようです。
学校から注意を受けると
加害者主張をした母親の攻撃はしばらく止まりました。

どうやら被害者主張の母親は精神的に問題があったようです。

たびたびの攻撃にさらされて
加害者扱いの子どもの母親の方も精神的な負担に
耐えられなくなってきたようでした。

学校はどうすればよかったのでしょうか。
何か修正するところはあるのでしょうか。

学校からすると、
「あなたは精神的に問題があって
妄想傾向にあるから病院に行った方がよい」
ということはできないでしょう。

手を焼いた状態だったと思います。
出来ればかかわりたくないということが人情ではあるでしょう。

初期対応の際に
いじめかどうかの認定を後回しにするという決断が
必要だったと思います。
先ずは、子どもたちに事実関係を確認するのではなく、
母親の心配事をきちんと掘り下げるということを
第1にされるべきだったのでしょう。

母親が実際に何を心配しているのか
現実に起きていることに対する抗議というより、
この派生問題として将来起きるであろうことを心配しているのであれば、
学校としてできることは
母親を励ますことなのだろうと思います。

子どもがクラスでなじむように
サポートすることを説明することが有効だと思います。
そしてお子さんはきちんとたくましく成長しているということを
事実をもって紹介して不安の材料を極力なくしていき、
安心してもらうことが第1でしょう。

そして、
母親の過剰な行動は
第三者の子どもたちにも伝わっていき
その結果子どもが窮地に陥るというデメリットも
きちんと伝えるべきでしょう。

こういう親の不安の結果、
友達を無くす不幸な子どもがあちこちに増えています。

低学年の子どもにとって
クラス替えというものはこういうものであるし、
少人数の友達だけの付き合いから
クラス全体の交流を作っていく過程で
克服されていくことを説明するべきだし、
そういう人間関係作りをしていく
ということを意識するべきだと思います。

正義感の強い先生の場合、
悪いことをしていない子どもを加害者扱いして
理不尽な要求を通そうとする保護者に対して
強い態度で押し切ろうとすることがあるかもしれませんが、
逆効果になります。

被害者主張している親に精神的な問題があり、
秩序や正義感に問題があるわけではないという場合は
その根本原因を把握して、そこを手当てするしかないようです。

そしてその根本原因は
子どもが孤立したり攻撃を受けたりするという不安です。
ここを一緒に適切に評価していくということが求められるようです。

これは加害者扱いされて苦しむ親に対しても同様です。
きちんと学校が把握している事実関係についての評価を告げて、
子どもを守るということを約束をする必要があります。

いじめの問題が扇情的に報道されてしまうと
自分の子どももいじめを受けるのではないか
いじめによって子どもが自死するのではないかという
不安を抱く親が増えることは当然の成り行きです。

それを踏まえて報道がなされるべきであることは当然です。
裏付けをとらない決めつけ報道は害悪にしかなりません。
こういう主張があったことを報道しているだけだという
ゴシップ週刊誌のような言い訳を新聞が行うことは
情けない限りです。

おそらくこのような「正義」の報道は下火にはならないでしょう。
誰かを攻撃する姿勢によって、別の誰かを苦しめることは続くでしょう。

学校はそういう情けない社会状況を踏まえて、
過敏になっている保護者の対応を考えなければなりません。

学校も逃げないで真正面から対応するだけでなく、
利用できる人間を大いに利用するべきです。
教育委員会も学校現場が、
外部の応援を受ける体制を推進していただきたいと思います。

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