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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

空也上人の歌が出典だという説が有力であるようです。
宮本武蔵の歌にも出てくるという話もあります。
君が代と同じで、
その心を永きにわたって日本人が共有してきた言葉だと思います。

この部分だけを文字通りに読めば
「溺れてしまった場合、
いたずらにもがいてしまうと
呼吸もできないし浮力も活かせない
益々苦しくなるだけだ
むしろ溺れることを恐れないで体を投げ出せば
浮力で体が浮かび上がり
呼吸もできるし
休むことだってできる」
という意味になります。

一般的な言葉の意味としては
窮地に陥ったときには
死ぬ覚悟があって、
初めて窮地を乗り切る活路が生まれる
というものだとされています。
この解釈は
どうやら宮本武蔵の歌(武芸の極意)が
影響を与えているようです。

本来この言葉は、
窮地に陥った場合に限定されたものではなく、
日常の人間の生き方にこそ当てはまるものだと思います。
特に自分が大事にしたい人間関係では
時々は意識する必要のある事柄を示しています。

対人関係学の観点からは、
全く正しい、とても的を射た言葉だということになります。

では、なぜ、身を捨てることが必要なのでしょうか。
身を棄てるということはどう言うことでしょうか。

この言葉には人間関係の紛争、いさかいに対する
深い洞察があります。

人間関係で紛争が起きるのは、
大抵は、自分を危険から守ろうとする気持ちが勝っているからです。
自分を守ると言っても、日常生活においては、
命の危険があるわけではありません。
ではどんな危険がから自分を守ろうとするのでしょうか。

それが対人関係的危険です。

対人関係的危険とは、例えば
「仲間からの評価が下がる」ということです。
評価が下がると
「立場がなくなる」とか、「顔がつぶれる」
ということになり、
さらには、
「仲間から外される」
という一番大きな危険につながっていきます。

人間は、群れを作り始めたころから
つまり今から何百年も前から
仲間から外されるということを
恐れている人生を送ってきました。

仲間から外されないように
行動を工夫して生きてきたわけです。

中には仲間から外されること恐れない個体もいたでしょう。
そういう個体は仲間から外れ行きますから、
飢えたり、
肉食獣に捕食されたりして
死滅していきます。
このため、仲間から外されることを恐れるものだけが
群れを形成し協力して生き延びてきたわけです。

だから、我々現在の人間は
遺伝子レベルで、
仲間から外されることを恐れるようにできています。
仲間から外されることにつながる
仲間の評価が下がるということにも
同じような危険意識を持つわけです。
これが対人関係的危険です。

対人関係的危険の意識は何百万年も受け継がれています。
あまり危険にさらされ続けると
心身が壊れてしまいますから、
人類は、色々な工夫をして
安心して共同生活をする工夫をして
危険にさらされ続けることを避けてきたわけです。

その工夫とは、例えば
人を必要以上に追い込んではいけないとか
理由もなく人を攻撃してはいけないとか
人を馬鹿にしてはいけないとか
他人のものを奪ってはいけないとか言うのも
そういう観点から意味付けをすることが可能でしょう。

ところが現代社会は
必要以上に人は追い込まれています。
せっかく祖先が作り上げた
様々の共同で生きていく仕組みが
現代社会では壊されたり機能しなくなったりしているようです。

例えば、
職場では、無理なノルマが課され、
無理をしなければ、
従業員として失格だというような評価がされ、
また常にノルマや仕事態度を自己点検させ、
評価を気にして仕事をしなければならず
ふいに理不尽に会社の都合で退職しなければならなくなる。
安心して職場にいることはできず、
同僚と世間話をする時間もありません。

就職に当たっても、
一度就職したら安心して人生を全うすることはできず
働きながら次の職場の心配をしなければならない人も多くなりました。
老後の補償もなく、それを考えないで
今生きることで精一杯の職場もあります。

安定した人生を送るためにといって
危険意識に過敏な思春期の時期にもかかわらず、
少しでも良い進学を目指して
他人よりも良い成績を目指しているわけです。

家庭でも
給料が低いと言われないかびくびくし、
成績が悪いと尊重されないということでテストを隠したり
片付けができない、料理が下手だということで
評価が下がる、低評価を口に出されてしまうのではないか
ということが怖い
毎日が脅えて暮らす日々
ということはどこにでも見られる日本に
なっているようです。

現代の日本人は
自分が誰かから低評価されるのではないかという
危険意識を抱いている
という傾向が強いと思います。

そういう風に育ってきていますし、
大人になってもどこかで低評価が行われるわけです。
実際に低評価され排除されたのが自分ではなくても
少しでも気を緩めると
今度は自分だということで強い不安が生まれます。

いわば、対人関係的危険の
傷口が開いている状態なのです。

傷口が開いているので過剰に敏感になっています。
通常ならば、膝に何かが当たっても
難にも気にしない人でも
膝がけがをしていてかさぶたもできていない状態だから
ちょっと触っただけで痛くなり、
足をひっこめるとか、悲鳴をあげるとか反応してしまいます。

だから、例えば夫と妻で役割分担をして、
妻が食事を作り夫が食器を洗うということにした場合、
傷口が開いているので、
夫から見て食事が手抜きだとか量が少ないとか
自分が馬鹿にされると思ってしまいます。
大事にされていないという気持ちになってしまいます。
自分を守ろうと無意識に感情や行動が起きてしまいます。
それは怒りになり、自分を守るために、
相手を攻撃して、自分が尊重されないことを否定したいのです。

妻は、夫の食器洗いが下手で納得行かないと
もしかしたら過去において食器洗いでこっぴどく叱られた記憶から
その時の傷口が又開き、
その時自分が言われたことを夫に言い、
わざと夫の目の前で食器を二度洗いをするかもしれません。
自分を守ろうとしている行動です。

数え上げるときりがないのですが、
悪意のない相手の行動にもかかわらず
傷口が開いていると
自分を低評価していると勝手に思うように
なってしまいます。

不満ならば自分で食事を作るとか、総菜を買ってくれば良いのですが、
それをしてしまうと、
自分の調理を低評価されたと
今度は妻が落ち込むということもあるので
けっこうデリケートな問題です。


本来は、そんなことで
改めて低評価をするということはありませんし、
例えば食事の作り方が雑だからといって
離婚したくなるわけではありません。

むしろ、疑心暗鬼になって自分を守ろうとするあまり
怒りを相手に向かわせることこそ
2人の関係を悪化させる原因なのです。

弁護士から見た場合の夫婦関係の不具合は
ほとんどがこの過剰反応から始まっています。
常に相手が悪いのであって自分は悪くない
と感じている事案なのです。

その人の状況はなかなか修正することができません。
多くの危険意識は無意識に生まれるため
傷口が開いていることも意識できません。

怒りが向かう相手は
どうして相手が怒っているかわかりません。
怒っている相手も、自分が怒っているという自覚があまりありません。
無意識の自己防衛に集中しています。

働いている人は職場で傷口が開き
家に帰って過敏のために怒りが生まれることがあります。
体調や病気が原因で
何も理由がなくても傷口が開いている人も多くいます。

対人関係の紛争は、
このような自己防衛感情、自己防衛行動の
ぶつかり合いから生じることが殆どです。
そしてこれは自分で自覚することができません。
意識の上では、先ず相手方の攻撃があったというところから
ことは始まっていると錯覚しています。

自分の大切な人間関係で
このようなもめごとや相手の傷口を広げない方法は
果たしてあるのでしょうか。

それが自分を棄てることなのです。
これはなかなか難しいことです。
なぜならば人間の本能、遺伝子に反することだからです。

もちろん自分のすべてを捨てきれることはできません。
また常にそのような生き方をすることも不可能でしょう。

でも、せめて2回に一回くらい、
大切な人といさかいを始めた時
大切な人の行動にカチンときたとき
「自分を棄てる」というアイデアを
頭のどこかで起動させることができれば、
大抵のいさかいは大きくなりません。

合理性、正義、理不尽、平等、正義
そのような価値観は
例えば家庭の中では棄てましょう。
だってそれは、
自分を守るための言い訳です。
怒りの感情を盛り上げるための燃料です。

せめて、自分の怒りに相手が傷ついているのを見た時、
相手をかわいそうに思い、
どうしたら良いかということで
思い出してください。

そう考えることが現代社会における
大人の愛なのだと思います。


例えば封建社会は様々な問題があり
克服されるべき制度であることは
間違いありません。

しかし、その否定のされ方が
全て一緒くたに否定された側面もあり、
本来否定しなくてもよい事柄も
否定されてしまったのではないかと
そう思えてなりません。

封建社会は、
現代社会よりも生きやすかっただろうなと
思うことがあります。

決められたことをやっていれば
それなりに尊重されたのではないかなあと思います。
現代とは違って。

現代とは違って
自分の領分という言葉があって、
そこには仲の良い人間も立ち入れない
そういうルールがあったからです。

このあたりの歴史は、
日本の近代化の過程で
黒く塗られてしまい
大いなる誤解を与えられているようです。

日本において古来は、
そもそも共同体意識が強く、
共同体の中で、自分を棄てることが
現代よりも多くできたのだと思います。
そうすることによって
共同体の仲間としての地位が
きちんと約束されていたのだと思います。

やるべきことをやれば
誰からも文句を言われないから、
多少の感情的な攻撃があっても
やることをやっているという意識があるため
防衛感情を起こす必要がなかったのだと思います。
理由もなく生まれてくる感情を
聞き流すことができたのだと思います。

近代化は
「個人」を単位とするということが
無条件でもてはやされてしまい
あるいはそのように追い込まれてしまい、
自分を棄てるという発想を奪われているのかもしれません。

あるいは戦争などの近代化を進めた歴史の中で
自分を棄てるという美徳が
国や産業など、大きすぎてヒトの感情が追い付かない
集団の一方的な利益のために利用されてしまったことから
封建制度が否定されたように一緒くたに否定されてしまい、
無条件で個人が尊重されなければならないと
思いこまされてしまうようになったのかもしれません。
しかし、それは、現代社会の病理を見ていると
個人の分断による、初期設定された傷口となっているように
感じられてなりません。


自分を棄てるということは
あくまでも自分を守るためであり、
自分が大切にしている仲間の幸せのためだということと
そのことによる個人が幸せになることと
切り離せないことなのだということを
そういう考えを
はじめから考えさせないという
悲劇の側面が強く表れている、

現在日本の人と人の紛争を見ていて
そう思えて仕方ないのです。


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