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いじめを傍観する子どもと大人の心理学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成31年4月19日4月19日(金曜日)
18時45分~20時 アエル28階研修室で
テーマ「学校問題について語り合う」
~いじめ・不登校・教育~
のお話会があるとのことです。
参加費無料、事前予約不要ということなので、
勉強しに行ってこようと思います。

メインスピーカーはスクールカウンセラーもされていて、
直接子どもたちと接している方とのことです。
これは、多業種自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークが主催です。

さて、今回は、おとなしくお話を聞いて
自分の見聞を広めるということが目的です。
しかし、良い機会なので、
いじめの問題について、
傍観者の心理についてまとめてみようと思いました。

この記事は
最後にほのぼのすることが書かれているわけではありません。
最後まで不快な思いをするかもしれません。
冒頭申し上げておきます。


1 いじめの傍観者は、秩序と協調性を重んじるタイプの人間

いじめを傍観する人間について、
いじめの加害者と同じように、
冷酷で、自己本位の人間ではないかと
考えている人もいるかもしれません。

例えていうならば、
ナチスドイツのユダヤ人大量殺人を実行した
アイヒマンもそのように考えられていました。

ところが1963年、ハンナ・アーレントの
「イェルサレムのアイヒマン」では、
アイヒマンは机に座って自分の仕事をこなすだけの
凡庸な人間だと研究結果を発表しています。

この主張に対しては、かなり多くの批判が集中しましたが、
スタンレー・ミルグラムは
いわゆるアイヒマン実験(服従実験)によって、
人間が、他者を傷つけることができることを証明しました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

この実験結果を私なりに大雑把にまとめると以下のとおりになると思います。

1)人間は、自分の属する人間関係において、
  秩序を保ち、秩序に協調しようとする。
2)その過程で、自分の行為によって他者が苦しんでいても
  秩序の形成主体の意向に従い、
  他者を苦しめることを止めない。
3)但し、その場合、他者を苦しめることに葛藤を抱くが、
  種々の合理化をして行為を継続する。
4)但し、自分の行為によって他者が苦しんでいることが
  生々しく感じ取れる場合には、
  秩序に反発することもある。

私は、この観点からいじめの傍観者の心理を
考えてみることにします。

もう少し、上記の結果を現実に即してかみ砕きます。

A いじめる側の権威に服従してしまう。

本当は、不合理な理由でのいじめであるとか、
多数派が一人などを孤立させていて
やってはいけないことが客観的に起きているのに、
そのような評価をしないようにします。

つまり、いじめではなく、当事者間のトラブルだ
と無意識に事態を再構成してしまいます。
そして、トラブル、ケンカは秩序を乱すものであるから、
自分はなるべく関わらないようにしようという意識を作る
ということではないかと思うのです。

いじめる側といじめられる側は、
当然いじめる側が多数派となりますから、
傍観者たちは、
いじめる側を擁護する心理を作り出します。
擁護までしなくても、
批判したり、否定しにくくなります。
いじめる側が秩序を形成しているからです。

B いじめられる側への共感に蓋をする

人間は、苦しんでいる人を見ると自分も苦しんでしまいます。
2歳くらいからこのような共感の能力を発揮してしまうようです。
いくら、対等のけんかが起きているだけだとごまかしても、
実際に苦しんでいたり、無表情になったりしている
いじめられている側の心情を感じないわけはありません。

自分の苦しみを解消したいという要求は
生きていくための要求ですからここでも発動されます。

いじめられる側への共感を止める方法を
無意識に発動して自分を守るわけです。

一つは、いじめられている人間は、
自分の仲間ではなく異質な存在だという合理化です。
いじめられる人の何らかの特徴は、合理化の道具にされます。
それに全く合理性はありません。
自分に言い聞かせるためのおまじないみたいなものでしょう。

それが進んでいくと、
いじめられる側の落ち度、欠点、不十分点を探し始めます。
いじめが正当化されていくわけです。
正義の行動をしているということを自分に思いこませていくわけです。
だいたいの「正義」という言葉はこのように使われます。

「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

ひとたび正義という言葉が表に出ると
いじめは過酷になって行く傾向があるようです。

このようにいじめられる子に対する共感発動を
必死で思いとどめます。
保身という意味合いもあるのでしょうが、
予防の観点からは、
それは人間の権威に対する迎合の本能だと
把握しておく必要があると思います。

いじめられている子が
苦しむ表情をみせたり、泣いたりすると
さらにいじめが激しくなるのも
共感を止めるためのメカニズムです。

C 変わり者を排除する学校

このようないじめに対する傍観が
最近増えているとしたら、
それは、変わり者の否定や
学級委員制度の廃止と教師の無色化が
原因だと思います。

ここでいう変わり者とは、
秩序を重んずることなく、
協調性に価値をおかない者です。

子どもたちを管理する観点からは
教師の言うことを聞かず、勝手なことをして
教室の秩序を乱す者なのですが
それだけに、
秩序を形成する権威に迎合せず、
自分がおかしいと感じたことをおかしいと主張したわけです。

おかしいと言われると、
確かにおかしいと目が覚めるわけですから、
いじめを阻止する行動が多数派になって行きます。
少なくともいじめに協力する人間は減るわけです。

これが、人類史における変わり者の役割でした。
ところが、現代社会、学校教育は
この変わり者を抹殺しようとしています。
障害だ、病気だと決めつけて、
投薬したり隔離してまで、変わり者を排除しようとしている
そんなふうに感じることがあります。

秩序と協調性をヒステリックに重んじる風潮ができるわけです。

学級委員という係がなくなったということも驚きです。
学級委員は役目柄、
「それはやめろよ」というのですから、
秩序や協調性を気にする必要はないし、
級友もそういう役目をしているということで尊重しますし、
級友が迎合する的の権威になりうるわけです。

こうやって、子どもたちが人間関係秩序を学んでいったのですが、
なぜか無くなっています。

このため、迎合する対象を喪失して子どもたちは
本来教師に迎合の対象をもって行くことが
予定されていたのでしょう。
しかし、教師も、
自ら権威を否定したり、
権威を発揮することを放棄している状況が
あちこちで見られるようです。

結局、秩序と協調性を重んじる児童生徒は、
少し突出した行動をとる子ども
感情が豊かな子ども
体力的に優位な子どもに
権威を求めて協調しようとしてしまうのではないでしょうか。
そうだとしたら、これもいじめを傍観する原因になります。

D いじめられる子の心理

いじめられている被害者は、
当然自分をかばってくれるはずだ
不合理や残酷な仕打ちを是正してくれるはずだと思っていますから、
加害者と平等に扱われることは
絶望を感じてしまいます。

自分がいじめられることで、自分が悪いわけではないのに
傍観者から、不快な思いを与えた張本人は自分だと
言われているような感覚になります。

こうやっていじめの被害者は孤立していきます。
その孤立こそが、被害者のメンタリティーを
決定的に傷つけてゆくわけです。


2 単純接触効果、プライマリー効果

さらに、人間は、これまで付き合いが長く強い者が
味方であるという感覚を持ってしまう動物のようです。
私は、この原因の一つとして、
長く付き合ったり、強い結びつきがある相手は
その心情が理解しやすいため
共感を抱きやすいということがあると思っています。

いじめている側との付き合いが長かったり
一緒に行動して喜怒哀楽を共にしていれば、
なんとなくそちらに味方をしたくなるものです。

ひっそりと目立たない子であったり、
内気で感情を表に出せない子が
いじめられる対象になることには原因があるわけです。
それから、友達と深くかかわることが苦手な子も
同じ原因で、共感を持たれにくいということがあります。

元々長く付き合っていた子が
誰かをいじめていても、
それはトラブルに過ぎず、
対等なケンカなのだろうと思いこみを持ちやすくなります。

いじめられる子の恐怖や屈辱よりも
いじめている方のいら立ちや怒りに
つい共感してしまうということが起こりやすくなるのでしょう。

3 少しだけ解決の展望

私は、正義や秩序の過度の強調をやめ、
可愛そうだからやめる
という行動原理を子どもたちに
優先するべき選択肢として与えることが必要だと思います。

また、クラスならクラスを一つの群れとして行動する
そういう習慣づけをする指導を行うことも有効だと思います。
仲間を守るということの体験を意図的にさせる指導も必要でしょう。


4 組織の論理、大人のいじめ

さて、ここまでお読みになって、
正義感の強い方の中には、
こんなまだるっこしい検討に何の意味があるのだ
傍観するなんて卑怯者であり、加害者と同等だと
そう感じている方もいらっしゃるかもしれません。
自分たちの時代ではそのような傍観はしなかった
という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、大人の世界でもいじめがあり、
それは、主義主張にかかわらず、
相手を異質のものとして排斥していることで
起きることが多くあります。

大人の世界でもいじめがあって
コツコツと努力していた人たちが
些細なことで全面否定され、
それまでの生き方を変えざるを得ないことがありました。

つい最近もいくつかそのような事例を目にしてしまいました。

加害者は自分なりの大義名分をもって攻撃し
周囲の人たちも、それを注意したりやめさせたりしません。
加害者も周囲の人たちも、
日頃立派なご主張をされている方々です。

と書き出すと、
多くの人たちは、通常不快になります。
子どもの話だと、あまりリアルに苦しみを感じなくても、
(共感しずらい)
大人の話だと、リアルすぎて苦しくなるわけです。
(苦しみを想像しやすい)

当たり前の話ですが
巻き込まれなくてよい争いに巻き込まれたくないのです。
これが権威に迎合する最大の理由なのでしょう。

ちなみに先の大人の例を続けますと、
排除の論理は、
その人と主義主張が違うからではなく、
その人が自分の人間関係の仲間ではないからということでした。

同じ仲間ではないということで
異質性を際立たせて、
苦しみや絶望への共感に蓋をしているのでしょう。

自分の同じグループの人たちの感情や権威に迎合し、
攻撃の理屈を無理やり肯定しているのかもしれません。
この組織の論理がさらに強くなると、
組織外の人間の感情への共感を
自然と遮断できるようになるのかもしれません。

特に目的を持った組織は、
目的遂行が大義名分となり、
人間に対する共感がおろそかになる危険があります。

それは特に注意しないとそうなってしまう
いじめの傍観者の問題を考えながら、
これは、いじめは子どもの問題ではなく
大人たちの生き方の問題が子どもに反映しているのだと
考える必要があるということを改めて感じました。

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