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対人関係学の概要 ~弁護士が考える人間関係の紛争の原理~ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

事務所のホームページをリニューアルしているところで、
ちょうどよい機会なので、
対人関係学についてのアウトライン
というか基礎概念というかを
まとめることにしました。
http://www.doihouritu.com/


ちょくちょく断りもなくこのブログでも述べているので、
気になっていた方(いないでしょうが)にはお勧めです。
文字列が折り返しているところは飛ばして読んでもらって構いません。

ではでは

対人関係学とは、
紛争、いさかい、ケンカ、
あるいは、社会病理
(自死、いじめ、パワハラ、DV、虐待、犯罪、多重債務等々)
という人間の行動の原因を探究し、
原因を除去する等して
これらの負の活動を解決し、防止し、
逆に人間が生まれてきてよかったと
より多く実感できる人間関係を構築するための
研究です。

対人関係学の基本概念について、以下述べます。

<対人関係的危険>
人間は2種類の危険を感じると構成します。
1つは、生命身体、健康に害が及ぶことの危険です。   
2つ目は、対人関係的危険です。

 前提として、人間は、単独で生きようとする動物ではなく、人間のつながりの中に自分をおこうとする根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合を生じるという理論があります。「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)
人間は、現在の人間関係を維持しようとするため、この人間関係の中で安定して継続的にとどまることが拒絶されることを不安に感じ、拒絶につながる出来事を覚知すると、生命身体と同様の反応を起こす。この、拒絶につながる出来事が対人関係的危険である。自分が人間関係の正当な構成員として尊重されていない、尊重されないことにつながる行動をした、あるいは他の構成員からの評価、待遇についての生の情報と、その情報に対する経験、学習等後天的な情報による評価を加えて危険性を無意識に判断している。危険だと判断した後の生理的変化は、生命身体の危険とほとんど同じである。

ここでいう人間関係とは、家族、学校、職場、地域、サークルという具体的な人間関係だけではなく、社会や国家というものも含まれる。その危機感の強さ及び反応の強さは、人間関係の種類、個性、危険の程度などで変化する。

<危険反応の脳機能への影響>

これまで、生理的に交感神経の活性化に着目されていました
           W・B・キャノン「からだの知恵」(講談社学術文庫)
           HPA軸
しかし、人間関係の不具合を見ていると、
共通の思考パターンがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。

これもいわゆる「逃げるか戦うか」という
危険に対する防御反応ということで理解が出来ます。

要するに一心不乱で逃げる(相手を叩き潰す)ことが、
動物の逃げる目的をよりよく達成できるからです。
「自分が安全な領域に逃げ切ったか否か」
という二者択一的思考があれば逃げるには十分です。
できるだけ悲観的に、まだ危険があると考えた方が
より確実に逃げ切ることができるでしょう。

逃げている時はなりふり構わずに逃げるべきで
他人からどう見られるか等ということを気にしていたのでは
逃げる効果が失われていくでしょう。

逃げきってから考えればよいことを
今考えることは逃げるための行為の邪魔になるでしょう。

このような思考状態にするために
脳の一部の機能が停止ないし低下します。
それがアントニオ・ダマシオが指摘した
前頭前野腹内側部
ということになるのだと思うのです。
「デカルトの誤り」岩波文庫

ダマシオの言う二次の情動と
対人関係的危険とは強い関連性があると思っています。

<危険解消要求>

ところで、脳科学あるいは生理学では、
危険に対する反応は、
感覚器官による情報の覚知、
→ 大脳での情報処理、
→ 視床下部での評価
→ 危険に対する反応
という流れをとります。

さらに大雑把に言うと
危険の覚知 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
という流れになるわけです。

脳科学的ないし生理学的にはこれでよいのでしょうけれど
便宜上
危険の覚知 → 危険解消要求 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
と危険解消要求という概念がはいると
様々なことが説明しやすくなります。

通常生命身体の危険は、危険の覚知から危険解消行動
その後の危険解消ないし実現という結果までが
極めて短期間で終了することが多いのです。
(例外的にはがんの告知など)
このため、危険解消要求などという概念は不要でした。

ところが、対人関係的危険は
実際には、人間関係からの追放という結果は
なかなか起きることがなく、
その危険だけが継続していきます。

例えばいじめがあっても
学校から追放されるわけではなく、
自分が尊重されていないという危険意識だけが
日々継続されてしまっているのです。

何とか正常な人間関係の仲間として尊重されたいという
危険解消要求が継続するわけですが、
危険解消行動に出ることもできません。
方法も見つかりません。

そうすると危険解消要求だけがどんどん肥大化していき、
最大の要求になって行ってしまいます。

本来生きるための危険に対する反応システムなのですが、
危険解消要求が充足されるなら
死んでも良いという考えるようになり自死が起きる

また、交感神経の活性化の慢性持続により、
脳機能の停止ないし低下が進み、
二者択一的思考パターン、悲観的思考パターンが
支配的になってしまい
危険解消要求に逆らえなくなると考えます。

危険解消要求の肥大は、
思いついてしまった不適切な危険解消行動を
自己制御することができなくするわけです。

様々な可変要素により
自死、犯罪、離婚、多重債務、虐待等
社会病理の原因を説明することが可能となります。

ここから先が対人関係学の実務編です。


<本来の人間は、共感のシステムにより仲間と協調する動物>
対人関係学の人間観は、
人間の心(対人関係の状態に対する反応)は、
約200万年前に形成されたという
認知心理学のコンセンサスに賛同しています。

当時生まれてから死ぬまで同じ群れに暮らしており、
群れが強く、大きくなることが
自分の利益と完全に一致するし、
誰かが弱って頭数が減れば
自分の命の危険が現実化するので、
弱い者を必死に守っただろうと考えられるのです。

ほとんど自分と仲間の区別がつかなかった
のではないかと思います。

この時代に、
一番弱い者を守ろうとする性質のあるもの、
仲間と争わないで、助ける者
仲間をいたわり合う者
その基礎として、仲間の苦しみや悲しみ
喜びを含めた感情を
自分も追体験するという共感の能力によって
共有する動物となったということです。

こういう性質をもつヒトだけが
厳しい自然環境に適応して
子孫を残せたのだと思います。
われわれは、その協調性の遺伝子を持った
末裔なのです。
人間の根本的価値観はここにあります。

但し、人間も動物ですから
自分が攻撃されれば反撃するわけです。
群れの仲間の特殊な性格の人間で
教育で矯正できなかった者というものも観念できますが、

主として他のヒトでしょう
仲間ではないヒトが飢えなどの理由で
他の群れを攻撃する
これに対する反撃はあったと思います。
ヒトがヒトを攻撃する場面はあったのでしょう。

しかし、それ以外は、他者(群れの)に協調する生き物
ということが本質です。

<時代と心のミスマッチは複数の群れの同時併存による>
では、なぜ現代社会において
他の群れの人間とばかりではなく、
家族、職場、学校という同じ人間関係の中で
紛争を起こすのかということが
問題になるわけです。

そのヒントは、
ダニエル・リーバーマンの
「人体」(ハヤカワノンフィクション文庫)にあります。

進化において獲得した性質は、
当時の環境に適合する性質であり、
環境が変化すると適合しなくなるというミスマッチにより、
虫歯や生活習慣病などの現代病が起きるというのです。

こころが獲得した進化の適応とは
原則として死ぬまで一つの群れで生活していたという
人間関係の条件の中で形成されたものです。
実はこの単一対人関係の時代は、
例えば日本の農村部では
ごく最近まで少しずつ変化をしながら継続していました。

ところが、現代では、
家庭、学校、職場、地域、サークルなど
かなり多くの群れに同時に所属しています。
どれも、相対的な群れであり、
それなくしては生きることがままならない
という群れは一つもありません。

だから、学校という一つの群れの中に
全く異なる群れに所属しているものが共存しているため、
共鳴する力、弱い者を守ろうとする力
という人間らしい力が発揮しずらくなっていると考えます。

同じ群れの中にいても
峻烈な利害対立が生じていて、
仲間の中の敵が存在する状態となっています。

このような対人関係の環境が、
他の人間を攻撃するということの抵抗を下げてしまい、
その結果、人間は、
様々なところで慢性的な対人関係的危険を
感じるようになっています。

危険に敏感になりすぎているように感じます。
そのため、本当は利害が一致している仲間に対しても
自分のみを守ることに過敏になり
攻撃されていると感じやすくなります。
これに対する防衛意識が起きやすくなり、
反撃行動に出やすくなるのではないでしょうか。

こころと環境のミスマッチが
社会病理の根本原因であるという結論となるわけです。

<対人関係の改善の主張>

対人関係学の主張は、
一つに、犯罪を含めた社会病理について
個人を非難することによっては解決ができないということです。

それぞれの社会病理がどのようにして起きたのか分析し、
対人関係の在り方を修正することによって
そのエラーの部分を取り除くことができると考えますし、
エラーが起こりにくくするような人間関係を構築し
予防に活かすということになります。

その中で、防衛行為というところ、
危険解消要求の肥大という視点により
分析を進めるということになります。

どんな社会になっても、
自分が大事にする対人関係を強化することによって、
こころの安定を図ることができるはずだと考えます。

そしてそれは、
他の人間と共感し、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ、
他者を守ろう、助けよう、一緒に楽しもうという性質があり、
一番弱い者を一番に守ろうという
人間の本質に寄り添った行動を取り戻すだけのことだから
決して不可能ではないと考えています。

人間の幸せは、
自分が大切にする人間関係において
自分が尊重されていると実感することだ
と対人関係学は考えます。

人間が生きようとすること
人間らしく生きようとすること
これを無条件に肯定することが
すべての前提に置かれています。

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