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自尊心・自尊感情 対人関係学のホームページより転載 [進化心理学、生理学、対人関係学]

対人関係学のホームページより
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
お時間ある方むけです。すいません。

自尊心・自尊感情

自尊心、自尊感情という言葉が、話題になることが多くあります。ただ、その意味は論者によって違いがあるようです。一般的には、自分を大切な存在だと思う感情ということになるでしょう。
自尊心をもつことは、人格形成や情緒の安定のために重要であると考えらえています。逆に自尊心の欠如は、情緒が不安定となり、アルコールなどの薬物乱用、犯罪やギャンブル、性行動の逸脱、依存症、いじめ、自死等社会病理の原因になると言われています。
それほど大事なものならば、子どもには自尊心を持ってもらいたいと思うのですが、少し漠然としすぎているために、結局何なのか、どうやったら自尊心を持つことができるのか、自尊心を持てない危険性が、あいまいで、頼りなく感じます。今回はそのお話しです。
少し、自尊心を調べていたら、ちょうどよい説明を見つけました。
辻正三先生という方が、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)で書かれている説明です。そこには、「たいていの人は、自分が他人から受け入れられ、また自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが自尊心にほかならない」と説明されています。私が、対人関係学的な自尊心として説明したい定義にぴったりなので、この意味について勝手に解説をするところから始めていきたいと思います。

<辻正三先生の定義を勝手に解説>

1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由

ここから、すでに対人関係学なので、その原理についてはいつも説明している通りです。つまり、人間の心は約200万年前に形成された。その時代は、狩猟採集時代で、一つの群れの中で人間は一生を終わっていた。人間は群れを作らないと飢えや肉食獣の攻撃に耐えられなかった。言葉のない中で群れを作るための感情を持っているものだけが群れを作り子孫を残してきた。ということです。
子の群れを作るための感情の一つが、「群れの中にいたい。群れにとどまりたい。」という感情なのです。群れの中にいると、安全を感じ、安らいだ気持ちになるわけです。このことは、群れからは追放されるのではないかと感じると、とても不安になることを意味します。この不安は、けがをしたり、病気になったりするのではないかという不安と、同じ心持であることが知られています。この。「群れの中にいたい、群れにとどまりたい、群れから追放されると不安や恐怖を感じる」という感情が、現代的には「他人から受け入れられたい」という表現になるわけです。他人から受け入れられるということは群れにいることを許されるということですし、受け入れられないと感じることは、追放されるのではないかと感じることだからです。
私たちは、200万年以上、群れを作って生活をしてきた人間の子孫ですから、人の個性によって程度は違いますが、多かれ少なかれ、他人から受け入れられたいという気持を遺伝子に持っているのです。

2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望

自分の存在価値とはどういうものでしょうか。
これも、今の説明の延長線上にあります。一つは「群れにとどまりたい」という心に由来すると思います。はっきりした流れを意識することは少ないのですが、自分が群れにとって有用であるならば、群れに留まる資格のようなものがあるという感覚を持てるのではないでしょうか。だから、群れにとって自分が役に立つ人間だという感覚は、群れの中で安定した立場を感じさせるのだと思います。自死の研究をしていると、これを裏付ける理論が出てきます。自死の危険を高める要素として「役割感の喪失」というものがあります。働いて家にお金を入れていた人が失業してしまう場合とか、社会的地位の高い人が犯罪をして立場をなくすとか、そういう場合が典型的です。自死は、自尊感情を失った場合に多く起きることから、裏から自尊心の意味を考える道具になると思います。
ただ、今の説明は間違っていないのですが、それだけでは不十分だと思うのです。ズバリ言うと、何か役に立つことができないと、自分の存在価値を感じられないのかということなのです。なるほど、群れにとって役に立つならば、それは価値を感じやすくなるでしょう。しかし、客観的にみれば、群れにとってのその人の存在価値の最も重要なことは、200万年前の時代は頭数に貢献することでした。一人でも多ければ、獲物を追い詰める時に隙が無くなり、獲物を逃がさない確率が増えたでしょう。一人でも多ければ、食べられる植物を見つける確率も高くなります。一人でも多ければ、誰かが襲われた時、野獣を追い払いやすくなるでしょうし、そもそも野獣が群れを恐れて近づきにくくなるということがあると思います。群れにとっては、群れに調和して存在することが、その人の価値だったと思うのです。人並み以上に役に立つということは、必ずしも自分の存在価値を感じることに必要ではないと思うのです。
つまり、自分が群れの役に立つという感覚は、自尊心を高めやすくなるが、それがなければ自尊心を持てないというものではないという関係になるのでしょう。
そうだとすると、自分の存在価値とは、本当は、「群れから受け入れられている」という感覚そのものではないかと私は思います。

<自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか>

説明したように、自尊心は、人間が群れを作る動物であることから、群れから受け入れられていることに満足を感じてしまう性質を言います。群れから受け入れられている状態が、人間の能力を発揮できる状態だということがいえるでしょう。人間本来の気持ちに基づく行動をするようになるわけです。群れの役に立ちたいという気持に基づく行動をするようになります。「群れのために」という気持は、自分を奮い立たせ、困難を克服し、努力を継続させることを可能にします。群れの一番弱い者を守ろうという気持もいかんなく発揮できることになります。本当の自尊心を持つことは、人間社会の協調を実現しますので、自尊心を持つ人たちの群れは、争い自体が起きにくくなるでしょう。その群れのメンバーは、相互に受け入れあうようになり、益々自尊心が高まっていくことでしょう。

<自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか>

自尊心が欠如するという状態は、自分が群れの仲間から受け入れられていないということを感じるところから出発します。通常は、どうして受け容れられないのかを自己点検して、自分の行動を修正し、群れに受け入れられるように努力をしています。子どもの時期は、この習性が活発に行われ、集団生活になじむように、自分のするべき行動、するべきでない行動を学習し、身に着けてゆく時期です。
ところが、どうしても自分が群れの仲間から受け入れられない、自分が群れの仲間から辛く扱われる。尊重されていない、大事にされていない。自分の苦しい感情を放置される。こういう感情が積み重なってゆくと、群れに受け入れられることをあきらめるようになっていきます。無駄な努力だと思うのでしょうね。やる気がなくなることは理解しやすいと思います。
しかし、群れに受け入れられたいという気持は、無意識の気持ちであるし、本能的なものなので、これを捨て去ることはできません。群れに受け入れられていないという状態を感じ続けることは、不安を感じ続けることになってしまいます。不安を感じることは、不安から解放されたいという気持を感じることにつながります。何とかして、自分の今ある不安を無くしたい。しかしその方法が見つからない。本当は群れから受け入れられることによって、人間は癒されるのです。しかし、それが実現しない。そうなると、不安が大きくなるし、不安から解放されたいという気持が大きくなってしまいます。群れから受け入れられる代わりの不安から解放される方法があると、それに飛びついてしまいます。
薬物、アルコール、シンナー、麻薬は、その典型的な方法です。薬理作用で、不安を忘れることができます。しかし、それは一時的なもので、その効果がなくなると不安が襲ってきます。また、神経に耐性ができて薬に反応しにくくなりますから、どんどん過激になっていく傾向にあります。
依存症も、その文脈で説明できる場合が多いでしょう。不安を軽減させる、忘れる、そのための儀式、逃げ場ということになるでしょう。
犯罪など、誰かを攻撃するということも不安解消行動が背景として存在することが多くあります。
不安の継続は、思考力を低下させます。複雑な思考ができにくくなります。一番複雑な思考とは、他人の感情を理解することです。これができなくなります。かわいそうだという気持が持ちにくくなります。それから、簡単な刹那的な考えしかできなくなり、良いか悪いか、損するかしないか、危険か危険ではないかというような二者択一的な思考になってしまいます。また、あきらめが多くなる悲観的な傾向も生まれてしまいます。
元々他者から受け入れられないという感覚が自尊心の欠落ですから、自分を大切にできません。社会的に禁止されていることでも不安を解消するためにはやってしまいます。それも、思考力の低下が大きく影響しているのでしょう。
だから、自尊心の欠落の究極の形態は自死なのです。大変危険な状態であるし、人間誰しも同じような性質を持っています。自尊心は大切なのです。

<自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド>

自尊心という言葉を調べていたら、案外多くにプライドという言葉を当てはめる説明がありました。良い意味のプライドなら自尊心の一部を構成するかもしれません。しかし、プライドの用法として例えば、「あの人はプライドばかり高くて付き合いにくい。」等と言う意味で使われることがあります。
この場合のプライドとは、私たちの言う自尊心とは異なり、自分をこういう風に受け入れてほしいという心の状態を言うのだと思います。むしろ、本当は自分はこれほどすぐれた人物なのに、世間はそのように評価しないという、「受け入れられていない」状態の認識なのですから、自尊心がない状態でさえあるのです。自尊心が持てないために、見当違いなプライドを持っているということになるのでしょう。このプライドを含めて自尊心だという見解ももちろんあります。ただ、その場合の自尊心は、今述べたような、あると素晴らしく、ないと危険だというものでもなく、大切にされるべき自尊心ではないことになります。それは、自尊心ではないと今は言っておこうと思います。

<現代社会と自尊心>

心が形成された200万年前と現代社会の違いは、いろいろあります。いつからを現代社会と呼ぶかという問題も違いの考察には必要です。ここでは、一つだけ指摘しておきます。それは、200万年前は、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には、一つの群れで一生を終えていたということです。子どもを産むのも、育てるのも、学習するのも、狩りや植物採取をするのも、同じ群れでした。ところが現代は、結婚して別の群れに移動し、子どもを産み、学校という群れに所属し、会社という群れに所属する。それらの小さい群れを構成する社会や国という群れにも所属し、自分の趣味や研究をする群れにも所属したりします。子どもの環境によって大人もPTA等の群れを作ります。
人間は、放っておくと、そのすべての群れから、自分が受け入れられているという気持を持ちたいと思ってしまうようです。
逆に言うと、すべての人間のかかわりの中で、自分が受け入れられていないと感じると不安な気持ちになってしまうのです。
道を歩いていても、見ず知らずの人から罵倒されればいやな気持になるし、怖い気持ちにもなるでしょう。自分は普通に運転しているつもりでも、急いでいる人が運転している場合、後ろからクラクションを鳴らされることもあるでしょう。それが身体生命の危険がなくても、不安が生まれてきます。悲しい気持ちになったり、怖い気持ちになったり、逆に怒りが起こったりするわけです。
このように、多くの人とかかわりを持ち、たくさんの群れに所属するようになると、人間関係が薄いものになっていくということも理解しやすいと思います。生まれてから死ぬまで同じ人と過ごすという群れと比べるとわかりやすいでしょう。そうすると、いちいち、道ですれ違った人の役に立ちたいと思うことは、少なくなってしまいます。自分や自分の仲間という狭い群れの利益のために、群れの外にいる人たちが困ることになっても、実行してしまうということが起きやすくもなっています。その結果、不意打ちのように、自尊心が傷つけられることが起こりやすくなっています。
人間の心は200万年前とほとんど変わっていません。そのように薄い人間関係ならば、その人から何を言われても、健康に影響がないならば、気にする必要はないのですが、なかなかそうはなりません。かといってすべての人の幸せを願うということもなかなか貫くことは難しい。そうすると、自分や自分たちの利益のために、他人が不利益を受けるということをやってしまうのですが、やっても平気でいられずに、悩んだりするわけです。ただ私は、それが人間のいとおしい所だと思うのです。
しかし、多すぎるかかわりの中で、人間が大切にされていないことに馴れてしまうと、およそ人間が大切にされなければいけないという感覚は薄れていきます。それは他人に対してだけでなく、多かれ少なかれ自分にも反映されてしまいます。およそ人間は大切にされなくてもよいんだという感覚が起きてしまいます。益々自尊心が確保できない社会構造になっていると思うのです。

<自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>

自尊心を持つためにどうしたらよいかということは難しいのですが、自尊心を傷つけることは簡単です。
「お前はこの群れに不要な人間だ。」「出ていけ。」「群れにとって迷惑だ。」「役にたたない。」
というメッセージを発信すれば、自尊心は傷つけられます。
何か大変なことをやらせるよりも、役割を与えない方が自尊心を傷つけるという学者もいます。そのような露骨な言動をするだけでなく、仲間であれば当然してもらえることをしてもらえないということです。健康を気遣われずに暴力を振るわれる。危険なことをやらされる。一人だけ情報や食料を当てないで差別する。努力を無視して、正当な評価をしない。いじめやパワハラ、虐待が典型的な自尊心を傷つける行為です。暴力がなくても人間は不安を感じ、心を壊し死んでしまう動物なのです。
自尊心を確保するためにはこの逆をするということなのでしょう。
仲間であることを否定する言動をしない。一緒にいることだけで歓迎されるということなのでしょう。最近の家族も、どこまで成績をあげないとうちの子ではないとか、どのくらい給料を持ってこないと夫ではないとか、きちんと片づけが出来なければ妻ではないとか、仲間であることに条件を付けるかのような言動が見られます。条件を付けるということは発奮させるということになるのですが、何十メートルもある谷に渡したロープの上を歩いて行けと命じ、「落ちて死にたくないならば落ちるな」というようなものかもしれません。条件を満たさないと仲間から外すと言っているようなものだからです。これでは、自尊心を確保するどころか傷つけてしまうことになるでしょう。」
むしろ無条件に存在を肯定することから始めるべきです。そうして仲間に能力を発揮してもらう方がよほどよいのです。自尊心が育っていれば、つまり、どんなことがあっても仲間は見捨てないという認識があれば、仲間から弱点を指摘されたとしても自分を守ろうとして嘘をついたり隠したりする必要はなくなります。仲間もそれを攻撃的に言う必要も動機もありません。つまり強い心が育つわけです。だから、褒め育てをするということと、無条件に仲間として存在を肯定するということは全く違うわけです。そして、その能力にふさわしい役割を与えることも自尊心を高めていくという関係にあるわけです。仲間の役に立つことをした場合は、正当に評価し、称賛する。そうやって楽しい群れが作られていくはずですし、その群れの構成メンバーは、能力を発揮しやすくなるわけです。
失敗をしても責めたり非難したりするのではなく、群れとして無条件に存在を認めるのですから、一緒に考えるという行為になるはずです。失敗をすればするだけ成長していくことが可能となります。

<現代社会の罠にどう立ち向かうか>

理屈を言えば、家庭の中では、何とか、子どもだけでなく、親も含めて、自尊心を高める接し方が出来そうです。しかし、条件反射的に怒ったり、自分の心の状態によっては、自分が攻撃されているような感覚を持ってしまって、相手に対して、しなくてもよい反撃をしてしまいそうです。実際は完ぺきな自尊心の高めあいは難しいようです。それでも何とかできるかもしれません。
問題は、子どもが学校に行き、父母が会社や地域の集まりに出て、あるいは街の中を歩いていて、自尊心を傷つけられるような対応をされた場合に、どのように自尊心を確保していくかというところにありそうです。昨今のパワハラの話やいじめの話を聞くと、絶望的な気持ちになりかねません。
先ず自分たちでできることは、家族という基地を強化することです。外で困難な出来事があったときこそ、「家族は絶対に見捨てない」、「誰から何を言われようと、あなたと一緒にご飯を食べることが私の幸せだ」というメッセージを伝えることです。そして、ここが難しいのですが、どんなにつらい思いをしていたとしても、家族は、「いつもと同じように接する」ということが大切なようです。腫れ物に触るように接せられると、自分が家族の重荷になっているという風に感じてしまい、家族に困難を打ち明けることができなくなるということらしいのです。「外でどんなことがあっても、家の中では、当たり前の家族だ。あなたも家の中ではいつものように過ごしてよいのだ」ということが、役割感の喪失みたいな気持ちにならないポイントのようです。これは意識してかからないととてもできることではないように思います。
自尊心が育ったお子さんは、何かあっても、すぐ不安になることがなく、些細なことにびくびくしなくなります。攻撃されているという感覚を持ちにくいので、反撃もする必要がないので、争いになりにくいです。それでも、今のいじめは、変なところでライバル視して、攻撃してくるということも多くあります。自尊心だけでは対抗できません。それでも、本当の意味で自尊心が高く、家族に受け入れられているという自信がある子は、嫌なことも隠さないで家族に打ち明けられやすくなります。家族が学校に働きかけたり、場合によっては転校させるという手段もとれるわけです。こういう意味で家庭が基地になるのではないかと考えています。
では、学校や職場などの人間関係にどのように切り込むか。
先ず、放っておくと、誰かの自尊心を傷つけるのが、学校や職場等現代の人間関係だということを自覚しましょう。その人が存在すること以上の価値を求めるのが現代社会だからです。効率であったり、優秀さであったり、利益であったり、正義であったり、人間関係の希薄さは、人間が存在しているという事実だけでは満足しないし、極端な例を言えば人間の命よりも優先される事情があるようです。
無力な私たちは、その社会の変化に対応して脳を変化させることもできませんから、そういう構造をよく理解するということから出発するしかありません。
そうして、そのような価値観の中に、人間が存在することに絶対的価値があるという価値観を少しずつ意識して滑り込む必要があるでしょう。それでも、価値観の転換は起きないでしょう。しかし、少しでも人間の存在に価値を認めるという価値観を導入することによって、自尊心を傷つける人間関係の出来事が否定的な評価を受けるようになり、関係の改善を考えるようになれば徐々に社会は変わっていくのだと思います。
そして、これは現実的な希望を持てない途方もない夢物語ではないと思います。
それは、人間の心は200万年前のままだからです。できることならば、仲間に受け入れられて過ごしたい。できることなら傷ついて悲しむ仲間を見たくない。できることならば他人を助けたい。できることならば穏やかに安心して暮らしたいという気持があるのではないでしょうか。しかしそれが自分や自分たちの不利益につながるためになかなかできないだけなのではないでしょうか。そういう環境を見るとうれしくなるし、それが実現すれば安心した気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりするならば、人間はやはりそういう動物なのだと思います。人間の本能に逆行することを言っているわけではないのです。本能をいかんなく発揮するために、環境を整えるだけだとは言えないでしょうか。
壮大な話はともかくとしても、とりあえず家族を守るということを意識することから始めてみてはいかがでしょうか。


不要な記載
この記事は、おそらく、加筆をしたり修正したりしていくと思います。場合によっては全面的に書き換えになったりもするかもしれません。その都度修正して末尾に修正日と修正内容を記録していくことにしてひとまず公開しようと思います。
自尊心、自己肯定感について色々な話がネットなどであふれています。とても大切なことなのですが、疑問が生まれてしまう内容も少なくありません。そんな中で辻正三先生の解説に接して、「これだ」という思いが生まれてしまい、勝手に解説をすることが、話が分かりやすくなるなと図々しく思った次第です。辻先生の解説が、あまりにも対人関係学の主張と一緒だと驚き、また、対人関係学の結論は、突拍子もないことではないのだなと勇気づけられました。
自尊心、自己肯定感については、バウマイスターという心理学者が第1人者なのだそうです。実は、このバウマイスターの「The need to belong」という論文が、対人関係学の父と言うべき論文なのです。母は、心的外傷と回復(J ハーマン)なのですが。自尊心、人間のモチベーションというバウマイスターの領域が、対人関係の領域とかぶることはむしろ当然で、本当はもっともっと研究したいところなのですが、こちらはむしろ実務系の学問であると自負しているので、修正しながら理論の成長を目指したいと思います。
2019年6月28日 初稿

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