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表現の不自由展の中止にみるこの国のリベラル文化人の弱点 [弁護士会 民主主義 人権]

愛知のトリエンナーレにおいて
開演三日目で少女像が撤去されたとのことである。

中止に追い込んだのは無数の抗議活動だった。

中には、京都アニメ事件を擬した脅迫行為もあったとのことだ。
これには、厳しい対応が必要であり、
今回の一連の問題で、もっとも非難されるべき行為である。

名古屋市長の抗議も議論の的になっている。

ただ、そのような犯罪にわたらない
あるいは有名人のパフォーマンスではない
その他の一般人の抗議活動があったために
表現の自由を守ろうという流れにはならず、
1日で中止が決まったということだと受け止めている。

現に文春オンラインのアンケート調査の結果では
74パーセントが少女像の設置に反対しているというのである。

ところが
このアンケートに見える我々一般国民の気分感情を捨象して
表現の自由の侵害だとか
芸術に対する干渉だとか
大雑把な議論ばかりが先行している。
中には検閲に該当する憲法違反だという
間違いだらけの憲法論も官僚経験者や法律家からでているようだ。
この点の解説は法学部学生で足りるので、割愛する。

一つだけ言うとしたら、
憲法がこう定めているからこうしなくてはならないというのは
国家権力や自治体に対する議論であって
一般国民に対してこの言いまわしを使うことは
上から目線で語られているという不快感を与えるだけでなく
国家権力と権利の関係を正しく理解していないということを示すものだ。

一連の言論活動にリベラル文化人と呼ばれる人たちの
弱点が象徴的に表れている。

一言で言えば、思い込みDV事案の一類型の
正しい夫の妻に対する心理的圧迫と同じことをしているのである。

つまり相手の感情を自己の行動原理に反映せず、
「こうするべきだ」
「こうすることが決まっている」
「こうしないのは常識に反する」という議論で
相手を心理的に圧迫するだけの行動になっているのだ。
意見の異なる人の意見を変えようということは
初めから考えていない無謀な結論の押し付けだ。

その中で、多数の国民はその他大勢という扱いをされて
取り残されてしまっている。

もしかすると、彼らの周り、彼らが大切にする友人には
同調者しか存在しないために、
多数の国民に心理的圧迫をかけていることには気が付いていない
ということもあるのかもしれない。

我々のような多数の一般国民から遊離しているために、
・表現活動が中止になったこと
・暴力的強迫もあったこと
・市長という自治体の首長の中止要請があったこと
だけを批判の対象として権力に対する攻撃に終始している。

21世紀になっても、令和になっても機動戦だ。

このような幼稚な議論を続けていたら
表現の自由は、国民の多数をもって
国によって制約される方向が支持されてゆきかねない。
韓国との民族的な交流による平和の推進も
どんどん後景に押しやられていくだろう。

この少女像は、
製作者の意図以上に、政治的に活用されてきた。
それだけ、この作品に力があったということだが、
この作品の活用の仕方によって、多数の日本国民は、
「現在の日本人」に対しての韓国人の怒りを表現したもの
という具合に受け止めている。

具体的な今生きている自分たち日本人を
国際社会の中で孤立させようとしているものと
受け止めているのである。

不快という生易しいものではなく
強い心理的圧迫を受けている。

名古屋市長らの言うような
過去の先祖に対する冒涜ではなく、
現代の私たちに対する攻撃意図を感じているのだ。

もっとも、これは、過去の日本が
隣国を併合したという暴挙に起因するものである。
この点を忘れるわけではない。

ただ、まじめな多数の国民と異なり、
要領の良いリベラル文化人は、
日本国に対する非難は、日本政府に対する問題であり、
自分たちも日本政府の被害者だと頭の中で翻訳して
それ程心理的圧迫を感じることがないのかもしれない。

ところがまじめな多数の日本国民は
日本国に対する非難は、それが政権の時々の政策に対する非難だとしても、
まさに自分に対する非難であり、自分が攻撃されている
と受け止めるものである。

つまり、
アメリカに少女像が置かれることは
自分や自分の家族が、いまだに他国の女性を性的な奴隷にしていると思われ
国際的に自分たちが孤立させられていくという不安になるし、

韓国の日本大使館の前に少女像が設置されると
韓国国民全体が、日本という国に対して
未来永劫攻撃を続けるだろうという圧迫感を感じるのである。

また、日本のマスコミも
そのような、攻撃意思をクローズアップして報道しているのではないか
という疑念も大きくなっている。

私は、本来少女像は、日本においても、
もっと尊重され、感情が共有されるべき作品であると考えている。
もともとは、日本攻撃だけの意図ではなく、
韓国政府や韓国社会に対する批判も重要な政策意図として
作品に込められているという。
(『朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任 Q&Aあなたの疑問に答えます』(御茶の水書房刊、135~139頁)より)

私は、この少女像は、
戦争が、単に武器によって人を殺すだけでなく、
公娼制度など人間の心と一生に深刻な影響を与えるもので、
特に力の弱い子どもや女性に犠牲を与えるということ、
戦争が終わってもその苦しみは続く
ということを象徴した作品であると受け止めている。

少女像という作品の使い方によって
批判を浴びさせて
排斥や攻撃の対象としてはいけないものだと思っている。
但し私の考えは製作者の考えとは異なるかもしれない。

これまでのこの作品の使われ方によって
あるいは使われ方の報道によって
冷静な受け止め方ができない状態になっている。

また、この作品に込められた一つの争点もある。
朝鮮民族の女性が
日本軍ないし日本政府によって強制的に従軍慰安婦にされたのか
という争点である。
少女像の作者もこれは強制的であったと主張している。

私は、日本国民として、現時点では政府見解を支持している。
つまり
「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとした
という河野談話や政府見解である。

この点については、客観的には一つの事実だとしても
立場によって受け止め方は異なるということを考えている。

連れて行った側と、連れて行かれた側
連れていかれて帰国して社会に受け入れられなかった側
ということで違いがあることが当然である。

双方の意見を排斥せずに尊重しあって
将来に向けた行動を一致するということにはならないかと考えるのは
加害国国民の勝手な論理なのだろうか。

もし、
国を消滅させられたという元被害国が、
元加害国の現在の動きが
かつての蛮行が繰り返される前夜と共通のものがあると感じて
その政策や主導者を批判する
ということならば理解は容易である。

一部でそのような主張があることも承知している。

しかし、どうやら、
日本と韓国の民族が融和することが
気に入らない人たちがいることも間違いないようである。
両民族は本来共通の利益が多いのに、
それを意図的に分断している動きを感じる。

この分断の手法は、
理解可能であるはずの主張だったものがいつの間にか
国民対国民の対立構造にすり替えられているのである。

我々一般国民の感情は
その都度律義にも揺れ動いている。

そのような状況を知っていながら、
敢えて大雑把な議論をすることによって
「すべて日本人が悪い論」によって
多数の国民の
韓国に対する不安感をあおっている結果になっている。
そう感じる。

多数国民と遊離したところで
多数国民の素朴な感情が捨象されて主張されることによって
多数国民の韓国に対する負の感情をあおっている
そういう結果が生じていると感じている。

現在、多くの日本人が
韓流ブームの中で韓国文化への理解を進めている。
単なる芸能人の追っかけだけでなく、
ハングンを学んでいる若い人たちが多い。
彼らは純粋に韓国国民に対して親近感と尊敬を抱いている。

仲間内擁護や権力批判に夢中になって
攻撃的な言動をすることによって、
多数の日本国民が韓国とかかわらうことをためらうようにさせ、
せっかく生まれつつある国民相互の
信頼関係や友好関係が、つまり平和の可能性が
後退させられていると感じている。

敢えて物議をかもすために少女像を設置したという発言は
とても残念でならない。

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