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人を殺すシーンなどグロテスクな映像が有害である理由 面白くても批判しよう! [進化心理学、生理学、対人関係学]



人気テレビ番組でマンションの住人などが次々殺されるというものがあって、
リアルな死体や、殺されている場面が詳細に描写されるシーンがあり、
これはやりすぎではないかと感じました。

昔は、ちょっと暴力的な漫画の描写があっただけで、
保護者団体が意見表明などをして
問題だと大騒ぎになったものですが、
高度成長の終わりからバブルにかけての時期あたりから
あまりそういうことをいう人たちがいなくなったのか、
メディアに取り上げられなくなったような気がします。

子どものころ、自分が見ている漫画が
PTAから有害指定されたりすると、
わからずやとか、表現の自由を侵害するとか
よくわからないくせに考えていました。

しかし、いざ親の立場になると、
やはり子どもに見せたくないシーンというものがあるし、
どうしてもっと批判の声が起こらないのだろうと
不思議な気持ちになっています。

いや、本当は「北斗の拳」あたりから、
なんとなくこれは問題ではないかと思うようになってはいたのです。
漫画を見て感情移入ができず、引くようになったということですね。

同じころから、大人たちが物分かりが良すぎるのではないか
ということを時々感じるようになってゆきました。

いじめの問題に取り組むようになってからは、
教師が子どもたちの空気を読んでしまって
言うべきことを言わないようになっているのではないかという疑問が
大きくなってきていました。

さて、なぜ残虐なシーンが有害なのかですが、
ひとことで言うと、
人間は被害者に共鳴してしまうからです。
そしてそれが記憶に残るからです。

共鳴、共感というのは、
バーチャル体験をしていることです。
つまり、自分は実際には殺されるような暴行を受けていないけれど、
あたかも暴行を受けている状況にあるかのように
脳等の神経や体が反応してしまっているということなのです。
思わず手に力が入っていたり、
無意識に体をよけようとしていたり、
あるいは、血圧が上がったり脈拍が増えたり
こういう防衛反応をしてしまっていることが
共鳴です。

もちろん作り事だということは頭の中ではわかるのですが、
体は勝手に反応をしているわけです。

たまらなく不快な気持ちになるのも、
自分が逃げ場を失って絶望することの
追体験をしているからです。

そしてそれは記憶されます。
記憶の機能というのは、
危険を知って、危険のパターンを覚えて
危険に近づかなくする、危険から脱却する
ということがもともとの機能ですし、目的です。

恐怖体験は記憶され、
それを克服するために、記憶は反芻されます。

嫌な画像というものは記憶に残りやすい
ということはこういうことです。

これ自体が大変不快なことなのですが、
有害であることはそれにとどまりません。

人間は危険の記憶を維持し続けることに耐えることができず、
危険が去ったと思わないと生きていけないからです。
そのための、防衛の仕組みがあります。
絶望の共鳴から無意識に逃れようとするわけです。
そのためには、心の中で、
「これは危険ではない。大したことではない。」
という意識を持とうとしてしまうということです。

残虐シーンを何度も見ていると
徐々にこういう気持になっていきます。
外科手術のシーンを初めて見た場合は
とても怖い感じがしますが、
何度も見ているうちに感覚がマヒしてくる
ということがあります。
もっともお医者さんや医療スタッフはそうではないでしょうけれど。

ドラマの中だとしても、
人がどんどん殺されていくことを目撃していれば、
いちいちたまらなく嫌な気持ちにならないために、
「それは危険ではない、大したことではない」
という気持になってゆきます。

徐々に人の命を奪うことの抵抗が小さくなってゆくのです。

しかも、殺されていくシーン、被害者が絶望するシーンを
リアルに描けば描くほど、
心は自己防衛をしようとするので、
それは危険ではない、大したことではない
という気持になってゆきます。

この行き着く先は、人間の苦しみや恐怖を
笑って観れるようになってゆくというように
気持ちが馴れてゆくことです。

それはすなわち、
人間の命なんてそれほど価値のあるものではない、
人間なんてそれほど価値のあるものではない
という意識が育ってゆくことだと思います。

そうしないと、心が耐えられないから
無意識に心の防衛反応がおきているのです。

ちょうどギターの弦を抑えるとか
何かの作業をしていて、
指の皮が厚くなるという現象があります。
指を守るために指の皮膚が厚く固くなるわけです。
作業から指を守るためには有利ですが、
温感や被服感覚が鈍感になってゆくという不利も生まれます。

心をきたえるということは、指のように
びくびくしないように皮を厚くしてゆくことであって
心をきたえると、くよくよしなくなるかもしれませんが
センサーが鈍感になってしまいます。

「人間なんて価値がないから
守ってやる必要はない。
誰かが苦しんでいたり困っていたりしても
こちらも気に病む必要はない。」
これを、頭で考えるようになるのではなく、
体にしみこんでいくようになるということなのです。
無意識の感覚の変化なので、
自分の心がすさんで言っていることに気が付きません。

もし意図的に残虐な行為が流されていて
それを観ない自由を奪われているとしたら、
人間の心なんて自分が意識しないうちに
どんどん荒んでゆく可能性があるということなのです。

さて、そうやって、
他人の苦しみが分からなくなるということは、
大きな話をすれば
海外で戦争があって、人が殺されたり
子どもたちが苦しんでいる姿を見ても
あまり気にしなくなるということにつながります。

もっと身近な話をすれば
会社で人格を否定するようなパワハラを受けて続けている人を見ても
「あいつだから仕方がない」
「あいつがへまをしたのだから自分は関係ない」
「彼女が挑発的なふくそうしているから悪い」
という分厚い皮を心にかぶせてゆくのです。

学校ではいじめがあっても
共鳴、共感できなくなっていますから、
それこそテレビ画面でぼんやりと
見たくもないドラマを見せられているという感覚になります。

心配するとか、支えるとか、声をかけるとか
ましてやそれはやめろよというようなことを
言おうとする発想もなくなってゆくのです。

実は、それだけならまだ良いのです。
害悪はまだ続きます。

それは、人間が共感する動物だという特徴があることに関係します。

他者を、一段低く見て、
「あいつがいじめられるのは仕方がないとか、」
「あいつが悪いから、自分はもっとうまくやればよい」
とか、そういうところで止まらないということです。

あいつも自分も同じ人間なので、
自分以外の人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
と思う心は、
自分を含めた人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
という心になることを防ぐことが難しいのです。
無意識に起きていることだからです。

そうしていくうちに
自分をふくめて、人間の命なんてそれほど大したものではない
ということにつながっていってしまう危険があります。

究極的には自死への抵抗が低くなっていくわけですが、
それ以前に、自分を大切にしない薬物や自傷行為等が表れやすくなります。
また、人間のほこりが無くなりますから
ばれなければ良いやという形で犯罪なども起こりやすくなります。

自分はきちんとやっている、うまくやっているから大丈夫
と思っている人は、
うまくやっていることから外れてしまうと
自分はこちら側の人間ではなく
あちら側の、大切にされなくても仕方がない側の人間に
なってしまったという意識が強く起こりやすくなります。
色々な社会病理に手を出しやすくなってしまいます。
たまたま、交通事故を起こしたり、
たまたま、困難な事案に巻き込まれただけで、
自分が作っていた壁の向こう側に行ってしまうのです。

現代社会ではただでさえ、
自分の価値を低く見てしまう事情がたくさんありすぎると思います。

せめてテレビだけでも
人間の価値を低めるようなシーンは見たくないし見せたくない
そう思います。

人の命が失われる場面をウリにしている番組は
大いに批判されるべきだと思います。

昔の大人たちは、このような神経学的な話は分からなかったはずですが、
直感的に、あるいは良識的に、
ダメなものはダメだということを感じたのでしょう。
本来はそれでよかったものが、
現代では見えなくなっているのか、
言えなくなっているのか
頭で考えなければわからなくなっているのかもしれません。



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