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いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない

そんなの法律の目的ではないよと言われてしまえば
そうなんですか、それでは新たな法律が必要ですね
というしかないのですが、

いじめ防止対策推進法を読んでいると
二つの不十分点があることを痛感します。

一つは、児童生徒が、生き生きとした充実した学校生活を送ることが目的とされていないこと
もう一つは、いじめを受けた子どもたちへの対応が構築されていないことです。

いじめ防止対策推進法の目的は、いじめ防止なのでしょうが、
何のためにいじめを防止するかと言えば、
確かに一つには法律の言うとおり子どもの尊厳を守るため
だということができると思います。

しかし、この法律が作られた背景を考えると
いじめによって児童生徒の自死を防ぐ
という目的があるのが当然だと思うのですが、
法律を見ても通達やガイドラインを見ても
具体的な方法が提示されていないようなのです。

たまたまそういう仕事をしているのでわかっているのですが、
いじめを受けて重大な被害を受けた子どもたちは
いじめが終わったり、加害者が処分を受ければ
それで終わりというわけにはいきません。

不登校が解消されず、実力に応じた進学ができないだけでなく、
家から出られなくなり、
親等には暴力的対応をして収拾がつかなくなり、
精神科病棟への意に反する入院をさせられたり、
(統合失調症や行動障害の診断名があっても、
 いじめがあったこと自体は確認できる)
社会に復帰することができなくなる子どもたちが
確実にいるのです。

子どもどうしの何気ない人間関係によって
一生を他者と交わることなく過ごすという
極めて重大な事態になっていることが
少なくなくあります。

そんな子どもたちにとって
加害者がどんな指導を受けたなんてことは
あまり意味のないことかもしれません。

いじめがなくなっても
法律の目的とする尊厳の回復にはなっていないのです。
いじめが終わればそれでよいというものではないのです。

本当の被害者である子ども目線の法律になっていない
と感じる理由です。

子どもの救済については、何も定められていません。

また、自傷行為や自死企図等が起きた場合は
調査を行うということですが、
調査には時間がかかりますし、
重大事態等のハードルが高く、
(実際は、国の通達が守られればそれほど高くはないのですが、
 仙台市の事例のように国の通達に真っ向から反する解釈に
 固執する教育委員会もあるようです。)

特に被害児童の救済が放置されたまま
時間ばかりが過ぎてしまうことにもなりかねません。

子どもの尊厳を守る目的であれば
いじめをやめさせて終わりではなく、
最後まで、子どもの尊厳を取り戻すところまで
対策を構築しなければならないはずです。

加害者処罰が大声で求められているようですが、
もっと肝心の被害児童の救済の対策こそ立てるべきです。

どうやら、現代の日本の学校現場では、
自死リスクが高まった児童生徒に対するノウハウの構築と普及が
放置されたままになっているようです。

激しいリストカットをしている子どもがいても
リストカットでは死なないと思っているのか、
放置されているようです。

自傷行為は、その時死ななくても
その後確実に死に接近していく行為です。

これらの子どもたちに対しては、
正式な指導は、「専門家につなぐ」
ということしかないようです。

その学校がつなぐべき専門家は、
どのような職業で、具体的には誰なのか
どこにまず電話をするのか。
家庭との連携をどうするか
メリットデメリットをどう説明して判断してもらうか
専門家につなぐ前に応急措置をする必要があるのかないのか
現場では全くわからないようです。

現実に自死の危険のある生徒に対して
何もできないし、しないということに結果としてなってしまっています。

これらの自死リスクの高い子どもに対して
学校が何らかの手当てをする必要がなく、
家庭の問題だ
という考え方もあるかもしれません。

病院への対応などが必要ですから
家庭の意向を無視して行うことも難しいでしょう。
結論としては、それも間違っていないのかもしれません。

また、学校の先生方はいろいろやることがあって忙しく、
子どもの異変に気が付かなければならないというのは
精神的な負担でありストレスが大きいとてもできない
ということも実際にはあるのかもしれません。

ただ、それでよいのでしょうか。

子どもを育てる時に各ご家庭で自死リスクを勉強する
学校は無関係だと割り切ることが
教育現場としてあってもよいのでしょうか。

教育とは人格の向上を目的としたものであって、
知識を習得させる学習塾とは異なります。
命の危険がある子どもを放置して
心配にもならない人たちが
子どもたちの人格の向上に寄与できるのでしょうか。
それこそ絵空事のような気がします。

ただ現状を放置して
やれという結果を命じるだけであれば
それは確かに教師に負担をかけるだけです。
効果も上がらないことでしょう。

そもそも自死対策は、
本来しなくてもよい、無駄 をちゅうちょなく行うものかもしれません。
本当は死ぬ気がないリストカットでも
徐々に死に近づいていると考えれば
今のうちに解決しなければならないでしょう。

心配しているというメッセージだけでも
その子どもの生活に潤いが生まれるかもしれません。
みんなが自分を心配しているということですね。

そうやって心配して声掛けしている中で
誰にも言えなかったけれど、切実に悩んでいた
という事例があるかもしれません。

99%以上は、緊急性が無いことでも
それが一人だけでも命を救ったというのであれば、
やっててよかったと思うし、
やり続けなければならないことのように思うのです。

このようなことを学校現場に言うと
おそらく相手にされないでしょう。
実情と会わないと言われるでしょう。

子どもの命を守るという観点からすると
学校は機能不全に陥っているのではないでしょうか。
まず、できるように環境を変えることが急務かもしれません。

どうやら自死対策は
合理性や効率ということを考えては
出来ないことなのかもしれません。


毎日顔を会わせる大人として、
子どもたちを心配する態度を表すことができないというならば
それをできるようにしなくてはならないということのはずです。

学校で自死リスクについてのノウハウを蓄積し、
家庭と連携を取って自死を予防する
子どもたちの自死予防にはとても効果的であるはずなのです。

日本だけが若者の死亡原因の第1位が自死という事態になっています。
子どもの数が減っているのに自死は増えています。
何とかしなければならないはずです。

子どもたちは日本の将来を背負うのであり、
国にとっては宝として扱うべきでしょう。

いじめか否か、重大事案か否かにかかわらず
みんなで予防をしていく環境を作るべきだと
思うのです。

そして、根本的には、
教育という人格向上の一環として、
子どもたちが活き活きと学校生活を送ることを目標にするべきであり
それによって効果が上がることだと思います。
ゼロの先のプラスを目指すべきであり、
いじめゼロとか自死ゼロばかり目指し
ゼロになればよいという発想では
なかなか解決することが難しいのだと思います。


私たちは、国民として
学校を非難するより先に
学校に何を求めるのか
意思表示をするべきなのでしょう。

私は、学校は、若者の自死予防のベース基地になるべきだと思います。

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