SSブログ

思春期前のいじめによって人生を棒に振る極めて深刻な被害が生まれる理由、PTSDという言葉にたよらないで説明してみる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

小学校での事件だそうです。
粗暴な子どもに対して、
どうしても注意する子どもがいて
粗暴な子どもから反撃されるわけです。

先生は、粗暴な子どもを刺激しないということを第一にするという方針だったので、
事実上粗暴行為を放置していたようです。
だから、粗暴を先生にいいつけても
逆に先生からなんで言いつけるのだと注意されるという
理不尽な扱いをされたそうです。

それを見ていたほかの子どもたちも
粗暴な子どもを刺激しないことが一番だということで、
粗暴な子どもが、注意した子どもにしばしば乱暴しても
取り囲んでみていただけの状態だったようです。

こんなことがしばらく続いたようです。
子どもは、PTSDと同じ症状となり
登校できなくなり、家に引きこもり
学校にいけないままで高校生の年齢となり
両親が裁判での損害賠償を請求したそうです。

1審は、粗暴な子どもの乱暴を数回認め損害賠償を命じたそうですが、
教師、学校の責任を認めなかったそうです。
そのうえ、PTSD自体を認めないため
賠償額はとても低いものになったようです。

症状があるのに、それを認めないということはどういうことでしょうか。

一つの可能性として
PTSDという診断名に理由がある可能性があります。

PTSDは、
症状の原因となる危険が過ぎ去った後においても
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえってしまう
③ 危険には解決方法がなく、危険が現実する恐怖から逃れる手段がないと感じる
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

これがいじめから数年を経てもなお持続しているのだから
後遺障害が発症しているとして損害額が高額になるとも考えられるわけです。

裁判所は何を否定したのか。
まず、PTSDを否定した可能性があります。
それというのも、PTSDは、
「命の安全が脅かされるような出来事
(戦争、天災、事故、犯罪等)のようなものがある場合に
に限定されて認められるという立場が有力「だった」からです。

新しい基準(ICD-11)では命の差し迫った危険がなくても
反復性のある危険にさらされた場合も認められるようになった
という情報がありますが、まだ私は確認できていません。

この裁判のいじめの場合は
そういう物理的な意味での生命の危険が発生していたわけではないので、
少なくとも基準には適合していないのでPTSDはありえない
したがって、症状もあり得ない
という理屈になってしまう危険があるのです。

私はPTSDというのは、
生命、身体の危険でも起こりうるが、
その本質は、
絶対的な孤立、自己統制の不能感と回復不能の絶望から起き、
どちらからというと、自分が属している精神的生活の基盤の人間関係から
自分が将来にわたり追放されて復帰できないという
対人関係的危険を強く感じている場合に起きると主張しているのですが、
私の説は影響力がないから裁判で言っても仕方がないと思います。

このため、裁判では、
子どもたちに取り囲まれた状態で粗暴な子から暴行を受けていることが
死の危険も感じることだと主張された可能性があるようです。

対人関係的危険を基にする理論であれば
物理的な死の危険を持ち出さなくても説明がつくわけですが
伝統的なPTSD概念を前提とした場合には
無理がある主張だという結論になってしまうでしょう。

では、いじめでPTSDと同じ症状が出ることはないのでしょうか。

現実にはこういう症状はよく起きています。
14,5歳の子どもたちが、家の中で暴れて手が付けられなくなり、
親ともコミュニケーションが取れず
本人も家族も危険な状態だということで、
精神科の閉鎖病棟に入院することが良く起きています。

症状によって、あるいは診断者によって
それぞれ様々な診断名が付きますが、
背景にいじめがあることがほとんどです。

小学校や中学校時代にいじめにあった被害者は、
このように深刻な症状となり、
入退院を繰り返し、社会に出られないまま
子どもとは呼べない年齢に達しているのです。

そこまで極端ないじめでなかったとしても、
理不尽な扱いを受けた子どもは
何かの兆候を見つけて
またあの時と同じようにいじめられるのではないかと
些細なことにびくびくしたり、
悪夢を見たり、理由もわからないけれど学校に行けなくなったり、
自分に自信がなくなったりする
という残遺症状が残る場合が多いように感じます。

しかし、現時点においてはPTSDを持ち出すと分が悪そうです。

無理をしない理論があるように思います。
私の一人説でもない理論です。

それは子どもという時期に着目する方法です。

人間とは何か、人間が集団で生きるとはどういうことか
ということを考えなくてはなりません。

自然災害を除けば寿命前に人間が死ぬのは
人間によって殺されるときでしょう。
他人という生物は安全な生き物ではないわけです。
人間も動物として他人を警戒するのが自然かもしれません。

そうならないのはまず、両親に育てられる中で
自分以外の人間も自分を攻撃しないということを学んでいきます。

逆に両親から引き離されたり、両親に虐待されていたりすれば
理由なく他人を警戒するようになります。
愛着障害という病気で、
他人を信用しなくなり、人間的なつながりが持てなくなる場合と
逆になれなれしくまとわりつくようになる場合という
両極端な症状が現れます。

ボクシングをイメージすればわかりやすいのですが、
殴られないために逃げ回るか
逆にクリンチすることで防戦しようとしているようです。
おそらく、両方とも人間を信頼しないことからくる行動が
身についてしまったことなのでしょう。

その乳幼児期を無事に過ごすことができれば
両親から広がって少しずつ人間関係を構築していくことにより
だんだん「馴れ」が生まれてきて
人間は警戒しすぎなくてもよいのだなということが
身についてくることになるわけです。

その後、15歳くらいといわれていますが、
自我が確立していくわけです。

この時、自分と他人が違うということを
きちんと腹に落としていくことで、
他人ではない自分という観念が確立していきます。

自我が確立していくことは
自分を尊重し、他人も尊重することができるようになることで、
こうやって、他者の中で、協調して生きていけるようになるわけです。

このあたりより前の時期は、
まだ、他人と自分の区別がはっきりとはつかないで、
自分と他人が違う考えや感じ方をすることに戸惑いが残っています。

ところでただ歳を取れば自然と自我が確立して協調性が身につくのではありません。
家庭の中で身に着けた共同生活のルールを、
幼稚園や学校という友達との関係で修正したり、
共通の核のようなもの(社会的な行動様式)を見つけ出して、
どういうときにどう行動すると穏やかに過ごせるか
逆にどう行動してしまうと、けんかになったり嫌われたりするか
ということを一つ一つ学習して身に着けてゆきます。

例えば正義や道徳に反する行動をすることは
みんなから受け入れられなくなるということを
自分の体験者や友達の体験を通じで身に着けていくわけです。

正義や道徳が行動規範になっていくという言い方をします。

事件のお子さんは、
そうやって、行動規範に従って
級友とも接してきたのでしょう。

ところが、自分が当たり前だ、やるべきだという行動をしたことによって
逆に、反撃され、暴力を受けたのです。
これだけでも混乱することです。

しかし、この粗暴な子が例外的な存在で
社会の中にはこのようなイレギュラーな存在もいるので、
そういう子を避けて過ごせば安全だ
という柔軟な考えを身に着けられれば
正確な人間観をえられるのです。

そのためには、周囲から粗暴の子のほうが間違っている
という強烈なメッセージが必要なのです。
ところが、教室の最終権威である担任も
自分が暴行を受けていることを放置し、
ほかの子どもたちも自分を助けようとしなかったらどうなるでしょう。

その子の価値観は混乱したままになってしまいます。

他人の存在に安心するためには、
自分が何か困ったことがあったら助けてもらったり、
具合が悪ければ心配されたり
痛かったり苦しかったりするといたわれたりすることが必要です。

このお子さんは全く逆に
暴力を受けていました。
そしてその暴力をだれも止めないという状態が起きていました。

小学生くらいだと
自分はどうしたらよいかわからなくなります。
また、自分は、世間全体から嫌われている
という気持ちになるわけです。
これから先の将来も嫌われ続けるという気持ちになってしまいます。
だんだんと何か自分が悪いのではないかという気持ちにもなるでしょう。

「もっとうまくやれ」ということは大人に対するアドバイスです。
子どもはかばわなくてはならないと私は思います。

傍観者の子どもたちはそれを是認していたわけではないでしょうが、
いじめられている子どもからすれば
誰も助けてくれないのですから意味がありません。
対人関係的危険感からすれば
自分の社会的存在を「否定」されたということに等しいということになります。

助けてくれないでただ見ている旧友(級友)は、
のっぺらぼうの恐ろしい存在に見えたでしょう。
こちらを心配そうに見ている人間は偽善者に見えたでしょう。

被害者のお子さんが感じていたことは
絶対的孤立感であり、自分が仲間として認められていないという疎外感ですし、
誰も味方してくれない、どうすることもできないという回復不能感です。

きわめて恐ろしい感覚を受けていたはずです。

私も似たようなことがあったのですが、
自分は絶対に間違っていない
間違っているのは自分以外だという独善性があったために
最悪の事態にならないで済みました。
体が大きく、体力的にも強かったということも救いでした。
こういう常識が外れた人間でなければ
耐えられるわけはないのです。

子どもですから、こういうことが例外的な出来事だという認識は持てません。
人間社会というものは、自分の味方になってくれない
ということを学習してしまうのです。
しかも、いつどうして自分が攻撃されるかわかっていませんから
ある日突然自分が攻撃されるという予測不能なことが起きる
ということを学習してしまっています。

これからの長く続く未来も同じように
いつどこか油断をしてしまうと悪いことが起きてしまう
という学習をしてしまいます。

人間が安心できなくなり人間が信用できなくなり、
人間が怖くなるのは当たり前だと私は思います。
安心できるのは家族だけになります。

ちなみに、粗暴な子のほうですが、
通常だと暴力をふるうとみんなから否定されてきたのに
その子に対しての暴力は誰からも否定されません。
その子に暴力をふるってもよいのだということを
学習してしまうのです。

放置ということは被害を大きくするだけでなく、
加害も大きく、より激しくするのです。
大人がする放置は大変悪質です。

家の中に引きこもる子どもも
元気に学校に行っている子どものことを想像することもあるでしょう
みんな普通に学校に行き、進学している
自分だけが取り残されているという
どうしようもない焦りが生まれてきて
さらに苦しくなるということも簡単にイメージできると思います。

先ほど家族には安心するといいましたが、
家族も人間ですから
自分の子どもが学校に行けず家から出れないというと
焦りが生まれてしまいます。

子どもはそんな家族の表情を読み取って
重い負担を感じるようになります。
子どもの願いは
学校行けなくても家から出られなくても
家族には何事もなかったように接してほしいということです。
それはなかなか難しいことです。

子どもはどうしてこうなったかもわからず、
また、自分がどうしたいのかもわからず
不満、苦しさだけが膨れ上がっていきます。
言葉にできない苦しさ、焦りが積み重なっていくのだから
爆発することのほうが当たり前だと私は思います。
徐々に家族も自分を助けてくれないという意識になっていくわけです。

成長発展段階におけるいじめは、
人間の成長に照らして
このような深刻な影響を与えるのです。

それは、加害児童の責任というよりも
放置した学校の責任こそ重大だというのが私の理論的帰結です。

暴力がお子さんの精神に悪影響を与えたことよりも
それが制裁など修正されなかったことこそ
精神的に悪影響を与えたのだと私は思います。

このようなお子さんは、投薬の適応があまりありません。
感情的になったときに鎮静剤を与えたり
抑うつ的になったときに抗うつ薬を処方して
症状は緩和させることができるかもしれませんが、
原因が放置されていれば症状は継続してしまいます。

もうこうなってしまうと
最初の両親の段階から育ちなおすしかありません。
つまり、
繰り返し、繰り返し人間は安心できる、信頼できる存在だということを
刷り込んでいくしかないのです。
遠回りかもしれませんが
自分の安心できる居場所を作り
安心できる人間関係を作っていくしかないと私は思います。

できるだけ多くの人たちから
それぞれのいたわりと助けを得ていきながら
人間と付き合う自信を作っていくということです。

そうしない限り、
投薬だけをしていただけでは、
なかなか回復は難しいようです。

それだけ、小学生や中学生の時期のいじめというのは深刻で、
そのお子さんの一生を台無しにするということです。
そういうお子さんをたくさん見てきました。

もし私が述べる通りの被害があるなら
今度は裁判所が被害を放置してはならないはずです。
その子だけでなく、その子の家族だけでなく、
加害をした元児童、傍観していた元児童にも
そして何よりも放置をした学校にも
あの時の行動が間違っていたという価値判断を示さなくてはならないはずです。

技術的なことで決してはならないと思います。
そして学校関係者に対しては
いじめの重大さを理解してもらいたいと
心から願う次第です。

また、精神医療関係者の方にも読んでいただきたいと思います。
いじめを受けた子どもの奇行は自然な行動であると私が思うのですが、
統合失調症やパーソナリティ障害などの診断名がつけられて、
精神科病棟の中でますます重症化していくことがあるようです。

どうか、事例を集積し、
回復に向けた治療方法を確立していただきたいと
願ってやみません。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。