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加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅 [進化心理学、生理学、対人関係学]

加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅

PTSDとは、ひらったく言うと
危険によって精神的に強い衝撃を受けて
既にその危険が去ったにもかかわらず、
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる(過覚醒)
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえる(侵入)
③ 危険には解決方法がない、危険が現実することから逃れる手段がないと感じる(解決不能感)
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

ベトナム戦争の帰還米兵の研究によって概念づけられた歴史から
医学的ではなく政治的な概念であり、
独立した診断名は不要で既存の病名で足りる。
という主張が根強くされているようです。
ちなみに、この批判をする方々は
必ずしも政治的立場が共通しているわけではないようです。
また、フロイト学派の一部からの批判もあるようです。
PTSDを否定する立場からは、
うつ、解離、パーソナリティー障害等に別の疾患に当てはまる
という診断をされることがあります。

その中でも大きな論点としては、
「加害者にPTSDが発症することはありうるのか・」
というところにあるようです。

先ず、しっかり加害者という場面設定をすることが大切です。

戦争は、やるかやられるかという状態であり、
ある局面では加害者であっても、その直後の局面で被害者になる
ということがむしろ通常です。
敵に機関銃を浴びせているそのときに
隣で同僚が無残な死に方をすることも当たり前にあるでしょう。
その時同僚ではなく自分が死んでいてもおかしくないのですから
強烈な危険を感じることが通常だと思います。

おそらく、加害者にPTSDが発症することはあり得ない
と主張する論者も、
自分が属する国が加害国だからと言って
個人が被害者の局面があったこと
つまり、自分の死の危険を現実のものとして感じたことまでを
否定することはないと思われます。

問題設定を整理すると、
自分自身がそのような危険を体験せずに
「もっぱら加害者であった場合にPTSDが発症するか」
ということになるでしょう。

もう一つこの問題と関連して
被害者としてPTSDを発症するのは、
危険が存在した時点から精神的外傷が発症して
その後も継続してPTSDになるのに対して、
先の限定でいう加害者がPTSDを発症する場合
直ちに精神的外傷が起こらず
危険が去ってしばらく後であることが多い
という点も問題になっています。

この理由を説明しなければならないという批判は
実にもっともだと思います。

私はPTSDを医学的に論ずる立場にはないのですが、
この点の説明を試みようと思います。
私の立場からは、危険とPTSDの発症のタイムラグがあることが
むしろ加害者のPTSDをうまく説明できるのです。

便宜上次のAとB二つの論理に分けて説明していきます。
分けて説明しますが、同時に起きていることです。
A構成は、どちらかというと、PTSD肯定論者の説明に近いと思います。
B構成は、対人関係学独自の構成になるはずです。

<A構成 共感の遮断と接続>

加害者が、被害者を虐殺する場合に、
どうして虐殺できるのかということを考えます。
通常、人は他人を殺すことができません。
痛み、絶望、絶対的不安、無念さ
様々な被害者の心情に共感してしまい、
他人の命を奪うという残酷なことはできないということになります。

人を殺す人間は、二つの事情等によって
被害者への共感を遮断しているところに共通点があります。

一つ目は、相手を殺さなければ「自分」が死ぬという正当防衛、
あるいは自分ではなく「自分の仲間」、あるいは「自分たち」
を守るという意識を強く持つことによって
相手を攻撃しても良い存在だと無意識の評価を行い
相手への共感が遮断されます。

二つ目は「正義」です。
相手は人類の敵であり悪であると考えれば
相手に対する共感を遮断することができます。
正義は、相手を攻撃するための思考ツールなのです。

これらの概念、感覚、言い訳で武装して
人は人を殺します。
自国に敵が攻め込んでくる場合は、
直感的に敵だと認識し、共感が遮断されやすくなるでしょう。

これに対して、相手国に攻め込んで行って戦争を仕掛ける場合は
当然には正当防衛も正義も感じられませんので、
国民を守る、国を守る、民主主義を守るという
大義が必要であるという理由がここにあります。

ひとたび共感が遮断されてしまうと
相手は人間ではなく、せいぜい何らかの動物としてしか感じません。
人間でないものを人間のように扱うのが擬人化ならば
戦争はその反対の思考パターンが起こされているのでしょう。
敵国国民は、擬人化されたネズミやアヒル以下の存在になるわけです。
共感が遮断されるということはそういうことです。

戦争が終わって帰国しても
国や国民が敵を殺した英雄として扱えば
殺した相手への共感の遮断は維持されることでしょう。

ただ、加害者は被害者が死んでいく様子を見ているわけです。
音でも聞いているし、においも嗅いでいる
五感で残虐な様子を見ています。
意識に上らないとしても記憶が維持されています。

ベトナム戦争のように
戦争自体に大義名分がなかったのではないかと
敵からではなく自国民から言いだされてしまうと
もしかしたら単に平和に暮らしていた外国人を
わざわざ虐殺しに行っただけなのではないか
という考えが侵入することを防ぐことができなくなることも多いでしょう。

この時、
被害者への共感から自分を守っていた壁が崩壊するわけです。

すると被害者の死にざまの記憶が生々しくよみがえってきます。
共感が接続されてしまい
人間が死んでいく記憶に置き換えられていきます。
なすすべなく死んでいく様子であるとか、
恐怖の表情、叫び声、
被害者が自分で自分の運命をどうすることもできない様子
完全に自己消滅しつつある人間の姿を
繰り返し思い出すようになるのかもしれません。

「共感」とは、
他者が感情をあらわにしたその原因となる環境にいる状態を
自分が他者として追体験することです。
程度の差はあると思うのです。
他者が命乞いをしているときのニューロンの動きを
自分の頭の中で再現してしまっているのです。

そうすると、
被害者の精神的外傷が生じる状況を追体験してしまい、
自分の同僚が隣で殺されたときと同じように
絶望を追体験してしまうということになってしまいます。

個人差はあるでしょうが
共感のメカニズムが動き出してしまったら
それを自分の意識(理性)によって抑えることは
不可能に近いと思います。

かくして強烈な恐怖、孤立無援感、自己統制力の喪失、
完全な自己消滅の脅威を追体験して
PTSDが発症するわけです。

被害者が虐殺された時から
PTSD発症までにタイムラグがあるのは、
幸運にも共感が遮断されていた時間ということになります。
タイムラグがあるのは私からすれば不合理ではなくなります。

<B構成 対人関係的危険の概念と対人関係的自己消滅>


対人関係的危険とは、身体生命の危険に対応する概念です。
人間は、けがをするとか病気になるとか身体生命の危険を認知すると
交感神経を活性化させ、心臓の活動を活発化し、
血液を筋肉に通常よりも多く流すなど、
生理的変化を起こします。
口角が上がったり、瞳孔が開くなど体の状態が変化するわけです。
これは、危険から走って逃げるための仕組みです。
(あるいは攻撃して危険をつぶすため)
この生理的反応を「ストレス」と言います。

ところが走って逃げることが何の役にも立たないのに、
自分が所属する人間関係から分離されそうになると
同じようなストレス反応が起きてしまいます。
これが対人関係的危険を感じているということです。

バウマイスターらの論文には、
人間は、誰かとの人間関係に帰属したいという
根源的要求を持っている
これがかなわないと心身に不具合を起こすと主張しています。
「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological Bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)

対人関係学は、この学説に影響を受けていて、
この心身の不具合は、特に
所属している人間関係からの分離を想起させるときに起きる
と主張します。
これが対人関係的危険です。

これは、人間が言葉もない時代に
群を作るために必要な人間の性質でした。
つまり人間の群れを作るためのツールである
・人間はだれかとつながっていたいと思い、分離されそうになると危険を感じ避けようとする。
・分離されそうになるかどうかは、他者に共感する能力によって感じることができる
・群れの一番弱い者を守ろうとする
・仲間と自分の区別がつきにくく、仲間の窮地については、怒りをもって我が身をなげうってでも戦う
というメカニズムが遺伝的に備わっていると主張するのですが、
分離不安はその第1のツールということになります。

もっともここでいう仲間とは数十名から200名くらいの人数(ダンバー数)であり、常時一緒にいる仲間である場合が強く妥当するということです。ヒトという「種」のためとか「国」のためとか「民族」は、ここでいう仲間には含まれません。
 
人間関係からの分離不安が起きてしまうと
それがとても強い不安になり、
その不安が持続すると思考力が低下するなどの弊害が起きてしまいます。

本来、対人関係的危険を強く感じる人間関係とは
自分のアイデンティティーの一部となっている人間関係です。
家族だったり、資格が必要な職業集団だったり
「その人間関係があっての自分だ」という人間関係ですね。
このような人間関係から離脱させられると感じる事情があると
自分自身が消滅するような恐怖すら感じてしまうようです。

離脱させられると感じる事情とは
一言で言えば自分がその人間関係の中で
「仲間として尊重されていないと感じる出来事」です。
差別されたり、発言を封じられたり
仲間の役に立つ努力をしてもねぎらわれないという他者の行為や
あるいは自分が仲間に顔を向けられない失敗をした場合等です。

さて、ベトナム戦争の帰還兵は、
戦地では、命を守り合う自分が所属する軍隊が
一番大切な人間関係です。

その軍隊では敵を虐殺するということで
お互いを守り合っているのですから
虐殺したことに多少の後ろめたさはあっても
同じ仲間の中にいる限りは非難されることもないでしょう。
だから戦地で軍隊に属している場合は
自分の虐殺行為に対して対人関係的な不安を感じることはありません。

ところが人と人が殺し合わない平和な国に帰還して、
やがて結婚して、子どもが生まれて
幸せな家庭をもつようになるわけです。
自分が戦地でどのようなことをしたかについて
妻や子ども達、あるいは孫に
正直に言うことができないという感覚に襲われるのです。

自分が行った残虐な行為を家族に知られることが怖くなります。
本当のことを知られてしまったら
家族が自分を冷たい目で見るかもしれない
あるいは軽蔑されるかもしれない
あるいは恐怖の対象としてみられるかもしれない。
これまでの平和で穏やかで笑顔が絶えない家庭が
自分の過去の真実で凍り付くかもしれない。
これまでの幸せな家族が消滅してしまうかもしれない。
それは家族の中にいる人間関係をも含めた自分
それ自体の崩壊ないし消滅と感じるかもしれません。
これこそが強烈な分離不安であり、対人関係的危険を感じている状態です。


帰還兵は、
家庭の中では孤立無援ですし
自分が他者を虐殺したという過去は
自分では修正できない事実として存在し続けます。
もし事実を知られたら
自分は、最も大切な仲間を失う
その仲間なしで自分は動物として生きているけれども
人間としては消滅してしまう。
こういう恐怖感を持つのだと思います。

こう考えると
加害者や加害国の軍隊であることは
PTSDの発症とはあまり関係がないように思われます。
肝心なことは、戦争時の行為の残虐性の程度の問題だと思います。
個人に病的な精神症状が出現することを
リアルにとらえるべきではないでしょうか。


A構成は共感による追体験としてのPTSDですが、
B構成は、「対人関係的な意味での自己消滅」としてのPTSDです。
二つの構成は光を当てる部分が異なるだけで
一人の人間の中では同時に起きているうえ、
相乗効果が生じている可能性が高いと思います。

B構成の場合、タイムラグがあることは
むしろ自然だということになります。

対人関係的危険と生命身体の危険の違いは、
生命身体の危険が一瞬で結果が出現するのに対して
対人関係的危険は、結果が出現するということがあまりなく、
結果の出現の恐れだけが持続していくことにあります。

この時間の経過は危険意識を増大していくことでしょう。
時間が経過するだけで何も解決することがないならば
それだけ絶望、自己統制不全が確定的になっていき
孤立感も深まっていくからです。

危険意識が増大すれば
危険から解放されたいという欲求も増大し
かつ持続してゆきます。

かくしてあらゆる出来事が
自分が対人関係を失う兆候のように思えてきて
自分は攻撃されているという意識が生まれ、
合理的に物事を考える力が限りなく低下し
不意に恐怖が意識にとって代わる事態となり
何事も破滅に向かっていると感じるようになるのです。
自分がそれに抵抗することができない
羽交い絞めにされて殴り続けられるようなものでしょう。
そして誰も助けてはくれないということを
絶えず自覚し続けるのです。

いじめやパワハラ、支配の意図を持ったDVなど
身体生命の侵害が少ないときには
その損害は軽く扱われることがあります。

しかし、PTSDを対人関係学の観点から理解すると
身体生命の危険を感じさせる暴行や脅迫が
必要不可欠なものではない、
むしろ本質は対人関係的な危険にあるということなので
暴行や身体に対する脅迫がなくても
重大な精神症状が生じる極めて危険なことになります。

医学的問題には言及しないと申し上げましたが
もう一言どうして言いたいことがあります。
それは、このようなもっぱらいじめの被害者の文脈で
精神病院に入院を余儀なくされた子どもたちの事例を
多すぎるほど見てきました。

病名は、統合失調症、解離、境界性パーソナリティー障害、うつ
と様々です。
そして、長く隔離室に入れられ病名と症状に応じた投薬を処方されています。

もちろん孤立や自己統制力の喪失を
さらに与えられているわけです。

現在の操作的診断基準だからこそ、
PTSDという概念を確立していただき、
適切な治療方法を確立していただきたいのです。

精神病院に入院したことによって原因が増大し
表面的な症状に対症療法をされたところで、
本人の人間の精神状態として何ら改善されない
そういう印象をどうしても持ってしまうのです。

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