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過労死から自分を守るための現実的な手段 社会人になる前に伝えるべきこと [労災事件]




法で、過労死防止月間と定められた11月が終わりました。
各地で中学、高校、大学、専門学校など
厚生労働省の過労死防止啓発授業が開催されたことと思います。
私も東北中を駆け巡ってお話しをしてきました。
本当を言うと、もう一校今週あります。

この授業は、これから就職をするという生徒さん方に
就職をする前から過労死予防を行うということで
とても有意義なことだと思います。

講師によって話す内容は違いますし、
開催学校によって、1時間だったり2時間だったり
時間も違います。

比較的熱心に
最後まで話を聴いていただいており、
話しているこちらが充実する時間を過ごさせています。

さて、何をお話しするか。

色々な考え方があるでしょう。
過労死にまつわる法律の内容
働き方に関する法律の内容を
お話しすることがもしかしたらオーソドックスかもしれません。

問題は、その内容をお話ししたことで
実際に職場に出て上司や同僚に囲まれて生活する
その人たちの過労死予防につながらなくてはならない
ということです。

そもそもどれだけ法律の知識を持てばよいのでしょうか。
法律の知識を増やせば過労死は防ぐことができるのでしょうか。
法律の知識があって、雇い主に対して
「これは法律違反です」と抗議をすることは
実際に可能なのでしょうか。

一つに、そういうことを言って職場が改善されるのかということと
肝心なことは、そんなことを上司や経営者に向かって
いうことができるのかということです。
自分がパワハラを受けているということにさえ
なかなか気が付かないことが実態なのです。

さらには、法律の範囲ないの業務命令ならば
どんな酷い命令もあきらめて従わなければならないのか
ということもあります。
裁判で負けるなら、会社に従わなければならないのか
ということですね。

この考えは、私の独特な思考の結果というのではなく、
実は、「権利とは何か」という理解の問題が関わっています。
法哲学的というか、労働法制史的な理解の違いにあるわけです。

このあたりのことは、長くなるのでざっくり説明します。

元々労働者の権利というものはなかった。
現在権利として保障される行為のほとんどが犯罪だった。
失業することすら犯罪だった
労働組合を作ってストライキをするなんて重罪で
死刑も用意されていた国もある。
しかし、労働者は、自分たちの要求が、組合を作って戦うことが
人間として正当な要求、正当な行為だと信じていた
(正当性の意識、規範意識)
長年の労働者と使用者、国家との衝突を繰り返し
その長年の苦労の結果
国家から権利として保障されるにいたった
ということです。

だから、労働者に限らず、
権利とは、
人間として当然の扱いを受けるということであり、
法律に書かれていなくたって
自分たちにとってそれが人間としての扱いだという
その正当性の意識に根源を持つということなのです。
この人間観というか、正当性の意識が後退すれば
法律がどう規定していようと法律は守られません。
また、法律自体が後退していくこともあるわけです。

大事なことは法的知識ではなく
権利意識、もっと具体的に言えば人間観です。
ひらったくいうと自分を大切にする心、習慣でしょうか。


もちろん法律の話を全くしないわけではなく、
長時間労働とは何かということを
視覚的にプレゼンするわけです。

そして、長時間労働によって過労死する仕組みを
時間に合わせて説明するのですが、
そのポイントは、
「長時間労働をすると、睡眠時間が少なくなる
 睡眠時間が少なくなると、脳や心臓の血管が詰まったり、破裂したりする
 あるいは、睡眠時間が少なくなると精神的に不健康になる」
ということが最大のキモです。
仮にそれまで寝ている人がいても
ここだけは、起こしてでも聞いてもらいます。
(前半なので、寝ている人はいませんけれど)
そして、睡眠時間は細切れにとっても有効ではない
ということをレム睡眠のグラフを見せながら説明するわけです。

長時間労働と絡めて
過労死という言葉が生まれる以前の過労死について説明します。
過労死は戦前からあったわけです。
ただ、くも膜下出血とか心筋梗塞という名前ではなく
結核とか栄養失調による衰弱とかいう病名でした。

これらの病気と長時間労働とのかかわりについては国は意識していました。
当時、現在の厚生労働省の官僚として労働基準法の条文を作った
松岡三郎先生(後に明治大学教授、私の大学にも教えに来ていただいていて、
直接講義を受けたし、もちろん教科書も買いました。)
の教科書にも、一日8時間労働と定めたのは
(当時は週48時間労働)
「労働者が早死にをしないため」と明記されています。

さて、それでは法的知識以上に大切なことはなにでしょうか。
それは過労死の特徴からも導かれます。

過労死は、くも膜下出血にしても脳梗塞にしても
心筋梗塞にしても大動脈解離にしても
うつ病などの精神症状にしても
悪くなるまで自覚症状がないというところに特徴があります。
悪くなって初めて
ああ、そういう病気だったんだと気が付くのですが、
気が付いた時には遅いということが特徴です。

だから、過重労働をしない、長時間労働をしないということで
予防するしかないのです。
ところが、漫然と働いていると
自分が何時間労働しているかすらわからない。
家族とも、長時間労働で顔を会わせないから
家族が異変に気づくこともだいぶ遅れるという仕組みがあります。

ではどうするか

同僚との人間的なつながりがあることだと思います。
同僚ならば、誰がどのくらいきつい仕事をしているかわかります。
同僚ならば、顔色がおかしくなってきたことに気が付きます。
同僚と話すことができれば
パワハラを受けていることを指摘してもらえますから
自分がなぜ苦しいか気が付くことができます。

しかし、現在の職場では
同僚と、なかなかそういう人間的なつながりを作りにくいようです。
あからさまなパワハラを受けていても
関わりたくないという人間が多いために
パワハラを受けた労働者が、
上司の言うとおり自分が悪いのだろうか
という気持になってしまうのです。

私の担当した事件を振り返って、
せめて、パワハラを受けた人に
同僚が、「あれはひどいよね」と
こっそりでいいから言ってあげられれば
もっと救えた命があったのではないかと
ついそう思ってしまうのです。

会社の中で人間的なつながりを作る
ということが一番大切なことです。
これが後半のヤマです。

ここらからが対人関係学の見せ所ということになります。

人間的なつながりは会社に入ってから作ることは難しい
同期でもなければ、自分から作ることも難しいし、
同僚を出し抜かなければ評価されない成果主義の労務管理の中では
さらに難しいということになります。

だから、学校にいる今のうちに仲間づくりを勉強するということを
お話しするわけです。

人は一人で幸せになることはできない。
大切な人間関係の中で尊重されていることが必要だ。
尊重されるということは、
いつまでも仲間としていることができるという安心感であり、
それを一番感じる事情として
失敗や、不十分なところ等人間として当然持っているところを
責めない、笑わない、批判しない
助けられ、補われ
一緒に成長するものだと扱われることでしょう。

そういう環境に自分を置くためには、
自分が意識して仲間にそういう態度で接するということです。
それを生徒さん同士で
部活でも、卒業記念政策でも
あるいは受験勉強でも何でもよいですから
一緒にそういうチームを作ってみる。
そういう訓練をするということですね。

残り少ない学生生活の仲間を
そうやって扱ってみるということですかね。

そうやって、人と人とが分断されやすい現代社会の中で
意識的に人と人とのつながりを作っていく。

仲間がいれば多少法的知識がなくても
これはおかしいと思えるし、言葉に出すことができる。
誰かと知恵を出し合うことができる。
一人だと何もできないけれど、
労働基準監督署に行ってみようとか
過労死弁護団や労働弁護団に電話をしてみよう
(無料だから)
ということでもできるようになるわけです。

どうやら、人間としての誇りとか
正当性の意識というのは
一人ではなかなか生まれも育ちもしない場合があるようです。
同じ環境にいる仲間を守るという意識が
権利意識を持つためにはとても有効なのだと思うのです。
一人だとやはり人間は幸せになれない
ということは真実なのだろうと思います。

誰が何と言おうと自分は大切な存在なんだということ
自分を大切にするということは
仲間を大切にする中で実現するということ
こういうことをお話ししてくるということになります。

(ちょっと考え込んでいたことがありましたが
 書いていて吹っ切れました。
 そうか、対人関係学のルーツとして
 野村平爾先生の規範意識論があったのだということに
 気が付いたことを自己満足的に付け加えます。)

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