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「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論

DVサイクルという言葉は、現代日本が作った造語です。
DVサイクルを発見したとされるレノア・ウォーカーは、
DVという言葉を使っていません。
レノア・ウォーカーは、「バタードウーマン」という本を出しています。
バタードとは、虐待された人間であり、
虐待者はバタラーと表現します。
本書では、「暴力のサイクル理論」という訳語になっています。

ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」
とされています。

「DV」という言葉は、とらえどころがなく曖昧で、
かなり広い意味で使われています。
レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論は
このような広い意味でのDVに当てはまるものではなく
上記のかなり限定された事案に対する分析です。

バタラーとバタードウーマンの関係は
時期的に3つの相に分けられ、
それが繰り返し起きている、
これが暴力のサイクル理論です。

第1の相は、緊張の高まりの時期です。
この時期も些細なものながら暴力事件が起きています。
女性の関心事は、正しさや人権ではなく
暴力をエスカレートされないことだけです。
このため、進んで自分が悪いとアッピールしたり、
怒りや痛みがあるにもかかわらず無いと思い込むようになります。

しかし、このような緊張の持続に耐えられなくなり、
不用意な刺激的言動を行なってしまい
緊張が高まっていくとしています。

第2の相は、激しい虐待です。
虐待者はコントロールが全く効かなくなります。
第2の相に移るきっかけは女性にはなく
男性の体験した外的な出来事や内面的状態の変化です。
虐待者はコントロールが効かなくなり
女性がひどいけがをしても暴力を止めることができなくなります。
だから虐待者の方が
虐待の内容を詳細に記憶していないこれが特徴のようです。
逆に虐待を受けた方はこれを詳細に記憶している。
レノア・ウォーカーは、このように報告しています。

ここが現代日本の現実に保護されている女性とその夫と正反対のところです。

日本においてもレノア・ウォーカーのいうような夫婦間虐待はあるので、
そういう場合は筆者の言う通りなのかもしれません。
確かに、そのような場合、虐待の事実について、
虐待者は事実を否認しますが、その言い分で考えると
つじつまの合わないことで相手がけがをしている
ということになってしまうのでわかります。

女性側のいわゆるヒステリーの場合も
(男性に対する虐待とは言えない場合が多いかもしれませんが)
自分ではあまり詳細には覚えてはいないようです。
攻撃者の方が覚えていないということは
興味深い指摘だと思います。

要するに怒りに我を忘れているということなのでしょうが、
どちらかというと、後で述べる
自己防衛意識が強烈になりすぎて
解離や短期記憶障害が起きているような感じなのでしょう。

女性は、救急車の出動を要請するような怪我をしない限り
手当てを受けないそうです。
第1相の否認の心理が働いているわけです。
実際の私が担当した事件でもそうでした。
「なんで診断書取らなかったの」と
後で悔しがることが多いのです。

かすり傷や転んだだけで、他覚症状のない診断書をとる
という場合とは事情が違うことがはっきりわかります。

第2相では被害を受けているはずの女性側も
男性に対して怒りを放出しているような記述があるのですが、
第2相は複雑で、
虐待者が怒り続けていても
虐待を受けた女性は第1相と同様な精神状態になる
という記載もあり、少しわかりづらいです。

バタードウーマンは、大方の予想に反して
結構夫に対して反撃しているようです。
やられっぱなしではないという記述があちこちにあります。
手が出る数も負けてはいないようで、
前回お話ししたように、夫を殺すのも女性の方が多いとされています。

確かに筆者はバタードウーマンには、
強さがあるということも指摘していました(42)。
気弱でボロボロの服を着て髪の毛はぼさぼさで
というイメージの修正を繰り返し求めています。

第2相は1番時間的には短く、
第3相、第1相の順に長くなるようです。

第3相は、やさしさと悔恨、そして愛情の時間です。
虐待者は、自分の虐待を恥じて償いをして
二度と同じことはしないと誓約し、許しを請うようです。
虐待を受けた女性は、この時期の男性が
真実の男性の姿だと思うそうです。

この第3相の時期があることが重要で、
サイクル論の根幹になっているだけでなく
配偶者加害の理論の根幹になっています。

つまり、どうしてこれだけ虐待されるにもかかわらず
虐待を受けた女性は、
虐待者の元から去らないのかということです。

この第3相の時期が幸せで
いずれ、この時期だけになるのではないかという
幻想を抱くのだというのが、
その問いの回答になるからです。

なお、虐待された女性が家を出て行った場合、
約10%の男性が自死をすると書いてありました。
家を出ることは大変危険のある行為であることは
レノア・ウォーカーによって示されていることになります。

また、虐待を受けた女性が虐待者を殺すのは
第3相から第1相に移行した時だとしています。


2 虐待行為の理由、虐待者の心理(私見)

レノア・ウォーカーは、何度も何度も
自分は虐待者とはめったに話さないと注意しています。
情報源を明確にしていることは極めて良心的な学者だと思います。

だから、虐待者の心理というものを分析はしていません。
虐待の背景としては
女性は自分の所有物であるから教育のために暴力を使う
という差別感、大家族主義を述べるくらいです。

しかし、本書で上げている具体例のほとんどが
私の分析を指示する事情を述べています。
おそらく筆者がそれに気が付かないということはあり得ない
そう感じるのですが、
筆者はそれを明示していません。

私が夫婦間虐待の事例などを分析した結果は、
「虐待者は、自分の立場を守ろうとして
女性に対して虐待をしている。」
というものです。

根本は防衛意識です。
但し正当防衛ではないので、
正当化できない防衛意識と明示しておきましょう。

何を守るのかということについては
時代により変遷が見られるようです。

確かに過去、例えば昭和の年代においては、
妻に対して夫の優位さを確保することが念頭に置かれており、
優位さが失われそうなときに
暴力が出るということがあったようです。

しかし、現代に時間が進むにつれて
優位さではなく、
虐待者の方が関係性を失う危険を感じたときに
暴力衝動が起きるという表現が適切になったようです。

この原理は男性も、女性もある程度共通のようです。

「関係性を失う」というのは、
例えば自分の立場がなくなると感じる時、
自分に対する相手の評価が低いと感じる出来事があった時、
自分が侮辱された、尊重されていないと感じたとき
等の対人関係的危険を感じたときということになります。

究極には、関係性からの排除を予感させる場合です。

昭和の時代に優位さを失うときに危険を感じた理由は
当時においては、男性は女性に対して
優位でなければ関係性を失うものだ
という社会的な固定観念があったからでしょう。

現在はなかなか優位性を保つという意識は持ちにくいので、
優位性を基準にすることにはならないようです。
但し、虐待を受けている方から見ると、
結局優位性を保ちたいのだとしか思えない
ということを実感として持つということも真実だと思います。

虐待者自身が、
本当はいつまでも一緒にいたいだけなんだ
ということに気が付かないことが多いように思われます。
いつまでも一緒にいるために、自分が尊重されなければならない
尊重されていなければ自分は見限られるのではないか
という意識に上らない感覚があるように感じられます。

だから何に怒っているか自分でもわからずに
尊重されていないと感じても言葉に出すことはできず、
イライラに気が付いてほしいけれどそれも言えない
何とかしたくて攻撃をしてしまう。
そんな感じなのかもしれません。

虐待を受ける側が、自分の度の行為が相手を激怒させたのか、
虎の尾を踏んだタイミングが分からないことも理由があります。

一つには、関係性が失われるというのは虐待者の主観的な反応であり、
客観的には別に顔がつぶされたと感じる必要はない場合だからです。
少なくとも虐待を受ける方は顔をつぶしたとは思っていません。

また、虐待を受けた女性が同じことを言ったとしても
その時の男性の内的状態が、外的出来事によって変化している
という事情があるからです。
この点の筆者の指摘(63)は正しいと感じます。

例えば会社で上司から理不尽な扱いを受けて
なんとも悔しくて仕方がないまま帰宅した場合とかですね。

但し、女性の発言は一般的に不用意です。
男同士なら絶対言わないということも
平気で言ってしまっていることが多くあります。
そう言えば大学の心理学で習ったことがあります。
女性は男性以上に男性に対して無防備なところがあるというものでした。
でも、だからといって暴力が正当化されるものではありません。

もう暴力のきっかけがひとつわかりにくい理由が
虐待者が女性の発言を勘違いした場合が
多いのではないかと思われることです。

裁判などで、虐待を受けた者の主張と虐待者の主張が違うのですが、
虐待者の主張は勘違いか幻聴がきっかけだと解釈し直すと
ああそうだったのかと納得がゆきます。

そういう意味で言ったのではないのに
つまり単なる事務連絡の発言をしただけなのに
悪くとらえて自分が馬鹿にされていると勘違いをして
怒りだすということが結構多く見られます。

また、どういう場合に自分の顔がつぶれたと感じるかについては
その人それぞれ違うようで、
またその時の精神状態によっても違うので
そういうことからも予想が難しいということがあるようです。

根本的な安心感、信頼感がないのですが
それはもっぱら自分に対する評価の低さ、劣等感によるもののようです。

虐待者は、無駄に自己評価が低いのです。
だから
女性の方が社会的地位の高い職業に就いている
自分が失業した、収入が減った
左遷された
暴漢に襲われて負けてしまった
あらゆることが自分を否定することになってしまいます。

虐待者は、けっこうあちこちにケンカを売っています。
よくあるのが、自動車を運転していて
余裕のない運転者が割り込み等をすると
聞くに堪えない悪態を吐くというものです。

だから、虚勢を張ることは自分を守るために
どうしても必要な行動です。
実力以上に見せようと絶えず表面的に努力しています。

嫉妬深いのもこういうことからきているわけで、
自分に自信がなく、自分と女性との関係性にも自信がないから
女性が自分を見限って
別の男に近寄っていくのではないかと考えるのです。
女性を浮気性とか淫乱とか攻撃しますが、
自信の無さの裏返しにすぎません。

だから、虐待者は女性を嫌っているのではなく
いつまでも自分を見捨てないでいてほしいという気持でいるようです。
虐待者からは離婚を言いださず、
虐待を受けた女性からの離婚の申し出を拒否するのは当然です。

また、第3相も当たり前です。
嫌いでも虐待したいわけでもないわけです。
別れるのは嫌なのです。
自分を大事に扱ってほしいということは
恥ずかしくて言えないために
暴力になるだけです。

この事情も男性も女性もあるようです。
わかってほしいけれど言葉に出すことが恥ずかしいということですね。
親に注意されて反論できなくて
「死ね」という中学生みたいなものです。
(親の方が余計なことを言っていることが多いかもしれません。)

暴力や暴言についても
心から相手に悪いことをしたなあと後悔するのです。
自分を見限るかもしれないと心配になるために
必死にフォローしているわけです。

そのときの二度としないという気持は間違いがありません。

しかし、怒りの情動にとらわれてしまい、
自分の冷静な感情が失われ、
相手を攻撃しきることだけが意識になってしまっているのです。
自分を守るという意識が
自分が相手と関係性を継続したいという意識が
逆に相手を攻撃してしまっているという
お互いにとっての悲劇があるのだと思います。

レノア・ウォーカーは、虐待をやめる方法として
怒らないで主張すること
威圧しない話をすること
という二つの条件を上げていますが
正しいと思います。

それをするためには、
相手がかわいそうだから、相手を守らなければならない
という情動を対立させることが有効だと思いますが、
これも訓練という作業が必要だと思います。

もう一つは、家族との関係では自分を守らない
家族に殺されたら本望だと
そういう気持の訓練でしょうね。

これ、案外、身体生命の危険の場合はできるのです。
我が身を犠牲にしても家族を守るということですね。
ところが、対人関係の危険、家族から追放されるという危険の場合は
家族を守らないで自分を守ってしまうようです。

同じ事を、離婚後の子どもの研究をした
J.S.Wallerstein も述べていました。
身体生命の危険は我が身をなげうっても子どもを守る
しかし、離婚となると子どもよりも自分の感情が優先となると。

3 日本におけるサイクル

レノア・ウォーカーのサイクル理論は、
欧米の社会を前提に話されています。
日本においては事情が違うようです。

ほとんどが第1相で
第2相もほんの一瞬
そして、明白な第3相はない。
こんな感じではないでしょうか。

割とはっきり3相に分かれているのは
結婚前のカップルかもしれません。

なぜならば、日本人は
自分が悪いといってもあやまることはあるでしょうが、
埋め合わせにはっきりとした優しさを示すとか
許しを懇願するとか
二度としないと誓約するという
オーバーアクションは起こしにくいからです。

行政の相談の記録を見ても
こじつけにこじつけを重ねて
DVサイクルを教え込もうとしている様子がうかがえます。
全くマニュアルから抜けられないし、
何でもかんでも保護の対象としようとしているからです。

そもそもDVサイクルで説明をするのは無理があるのです。
また、根本は、レノア・ウォーカーのいう
虐待とまでは言えない場合に無理に当てはめようとするからです。

日本家庭では
家庭内別居をすることが多く、
そうやって衝突を回避しようとしているようです。

そうして何年後かに
ようやく口では自分が悪かった仲よくしようと切り出しても
全く心が動かない状態になっているわけです。

あるいはそうなる前に
元に戻らないと思った方が逆切れして
相手を追い出すとか、自分が子どもを連れて出ていく
ということが起きるようです。

サイクルとしては回っていないようです。

第3相があるから結婚生活を維持するというのは
日本ではあまり説得力がないように感じます。

4 なぜ、虐待があっても自ら去らないのか(私見)

レノア・ウォーカーは、この理由として
一つに学習性無力感ということを指摘し、
もう一つとして暴力のサイクル理論を上げています。
暴力のサイクル理論が理由になるということは、
先に述べた第3相があるため、
希望を持ってしまう。離れられないというものです。

第3相があるから立ち去らないというのは
日本においてはあまり説得力はないのではないか
ということは今述べたとおりです。

学習性無力感というのは、
訳が分かりにくいのですが、
自分がどうして虐待を受けるかという
原因が分からず対策も立てられないと感じることが
何度か繰り返されることによって、
出来事に抵抗をすることができなくなっていくという
反応が起きてしまうという行動学的な説明です。

初めから改善をあきらめてしまうというものでしょうね。

レノア・ウォーカーは、うつ病との近似性についても言及しており
大変興味深く学ばせていただきました。

私見ですが、
ここでも対人関係的危険がキーワードになると思っています。

つまり、人間は本能的に群れを作ろうとする動物だということです。
もう少しだけ具体的に言えば
①群の中に自分を置きたくなる。
②この裏返しで、群から追放される予兆を感じると
身体生命と同様の危機感と生理的反応が生じる(対人関係的危険)。
③無条件に群れの存続維持を図ろうとして
群の秩序を維持しようとする。
④群れの弱い者を守ろうとする。

一つに、どんなに虐待を受けても
家族というユニットを感じていると
自分はそのユニットから離れることによって物事を解決しようとする
選択肢がなくなるということです。

これは、パワハラを受けている労働者も
退職するという選択肢は不思議となく
追い詰められても
「このまま苦しみ続けるか」それとも「死ぬか」
という二者択一的思考になってしまうことが
よく見られています。

群から離脱するという選択肢は
人間の場合持ちにくいようです。

二つ目には、虐待を受けて仲間として扱われない
という扱いをされると、逆に
何とか見放さないでほしい、
自分を承認して、仲間として認めてほしい
という気持を起こさせるようです。
これの極限的な表れが洗脳です。

三つ目は強い者の言動を中心に
秩序を組み立ててしまうようになります。
いじめの場合の傍観者はまさにこの作用が起きていると思われます。

いじめの場合、しばしば被害者までも
いじめ行為に同調しているかのような態度を示すことがあります。
からかいやいじりだということで
恐怖や屈辱を否認しますが、
これはこのように仲間でありたいとか
仲間の秩序を壊したくない
という要求の表れだと考えると理解できますし、
なおさら悲惨な状態なのだと思います。

レノア・ウォーカーは、
暴力のサイクル理論の中で、
第1相において、被害者が
これ以上被害を大きくしないために
自分の非を認めたり、相手の要求に逆らわないということを言いますが、
自分を守ると同時に
家庭を守ろうとしているのかもしれません。

人間が群れを作るのは一人では生きていけなかったからです。
群の外にいると不安になり
群の中に戻ると安心する
こうやって心身のバランスをとってきました。

ところが群れの中にいる方が緊張が高まるということになると
心身のバランスが取れなくなり、
心身の不具合が生じるということは
残念ながら理にかなったことになります。

以上のように、虐待を受けても
家族から離脱するという選択肢を持ちにくい
むしろ虐待している当人に対して
何とか自分を認めてほしいとしがみついてしまう
自分を犠牲にしても群れの秩序を守りたい
という人間の本能から
家庭から去ることをしないというのが実態だと思います。

このことを理解しないと
本当に保護が必要な人ほど保護を拒否する
ということが理解できないでしょう。

5 感想

長距離の出張と役所での缶詰が続いたことを良いことに
古典をじっくり読ませていただきました。
役所のDVサイクルというものに違和感があったのですが、
それは作者レノア・ウォーカーの責任はなかった
というのが感想です。

バタードウーマンという
かなり過酷な体験の中での出来事として書かれたものである
ということを理解できれば
色々な学びがあることが分かりました。

問題なのは、家庭内虐待ということがない事案に
DVサイクルを持ってきていることに
違和感の正体があったということのようです。

DVという言葉はとても便利ですが、
あまりにも広範囲になりすぎて
それにも関わらず対応が一律だというところに
夫婦の悲劇、そして何よりもお子さんの悲劇が生まれる原因がありそうです。

どうして、そんなに無理をしてまで
レノア・ウォーカーの理論や、
虐待対策を機械的に当てはめようとするのか
原典を読んで、ますますわからなくなりました。

是非復刻版の出版をお願いしたいと思いました。

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