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セクハラは群れを作る人間の本能によって握りつぶされるされる。伊藤詩織氏とH議員の被害者との扱いの違いに学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

伊藤詩織氏がジャーナリストから性暴行を受けたと主張し
損害賠償を請求した裁判で
東京地裁は、伊藤氏の主張を認めた判決を出した。

伊藤氏に関しては
顔と名前を出して性被害を訴えたということで、
一方では称賛と励ましの声が上がったが、
もう一方では、
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪いという
性犯罪につきものの被害者の落ち度論が
第三者から挙げられていた。

極端な挑発がなければ
落ち度があったところで同意なき行為は道義上許されない。
それなのに被害者が責められてしまうと
被害者にとってみれば
自分こそが道義に反する行動をしていたと言われているようなもので、
精神的に大きな打撃を受けることは簡単に想像できることである。

もちろん、このような被害者の落ち度という論調に対しては
女性の権利の立場から大いに批判が上がった。

奇妙なことは、
今回伊藤氏を擁護、支援したのがリベラル系で、
伊藤氏を中傷したのが自称保守系という傾向がみられたことだ。
加害者のジャーナリストが、首相寄りで
首相礼賛の新書を出版するような
傾向を持った人物であることが関係しているのかもしれない。

伊藤氏を非難した人たちは
ジャーナリストや首相を擁護しようという
心情にもとづいて非難したのかもしれない。

お身内はともかく、男女関係については
首相は定評のある方なので、
このジャーナリストの事件に関連付けられることは迷惑だろう。
ここでもなにがしかの忖度が働いて
その結果首相の足を引っ張る皮肉が生まれていたのかもしれない。

さて、数年前に
野党第1党のベテラン議員H氏が
タクシーという密室で性犯罪を行ったということで
伊藤氏の判決の直後に
書類送検をされるという事態になり
そのH議員が離党したというニュースが飛び込んだ。

この問題は数年前に明らかになりニュースにもなった
しかし、当時は、
離党や辞職の話は出ず、
党内の役職を解かれただけで終わっていた。
当時の党首は女性である。

被害の重大さに違いがあるのかもしれないが
伊藤氏の場合は一介の民間人が加害者であるのに対して、
H議員は国会議員という公的な立場の人間である。

もしこの政党が女性の権利を擁護することも
政策の一つに入れているならば
微罪としての処分をすることは理解に苦しむところである。

さらに不可解なことは、
この政党の党員たちが
微罪処分に対して批判をしなかったのかということだ。

この政党からは
女性の権利の政策を極端とも思われるほど重点課題に掲げて
立候補し、有権者に宣言していた人たちもいて
何人かは国会議員になっている。

この女性の権利の活動家は
微罪処分に対して反対を表明しなかったのだから
身内の性犯罪に対して著しく寛容だった
と言わざるを得ない。

今回の書類送検を受けても
その政党からは、H氏に対して
離党処分や辞職勧告の動きの情報はない。

H議員の性犯罪を不問に付した人たちのほとんどは
伊藤詩織氏を擁護、支援していたはずだ。
なぜ、伊藤氏を被害者として擁護、支援するのに
同じ性的暴行の被害を受けた
H議員の行為の被害者に寄り添って
性暴行をただそうとする
女性の権利の活動家がいなかったのか
そこが問題なのである。

政党外の女性の権利の活動家も
なぜ、H議員やこの政党の
女性の権利侵害の軽視を批判しなかったのか
そこが問題なのである。

私は、影響力は少ないながら
女性の権利の観点から批判をし続けてきて
同調者が現れないということから
よく記憶しているし、
現在の状況も変わりがない。

そしてもしかすると
伊藤氏を擁護した人たちの中には、
H議員の被害者は
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪い
タクシーに乗った方が悪い
性犯罪につきものの被害者の落ち度論によって
精神的バランスをとっている人も
いるのではないかという疑念がある。
そうでないと批判がないことが整合できない。

特に政治的な問題から
権力に仕掛けられた等と考えている人もいるかもしれない。

いずれにしても被害者女性の心情を思いやるという感覚は
初めから排除しているのではないかと疑りたくなる。
そうだとすると、結局、伊藤氏を中傷した人たちと
同じ発想だということになる。

ここで、誤解を受けないように説明をしておく。

私は政治的議論をしたいのではなく、
左翼やリベラルを批判したいのでもない。

あくまでも、性暴力加害者をかばい
女性の権利侵害が無視される現象が起きる
そのメカニズムを検討したいだけである。

人間は、仲間をかばうという本能がある
ということをいいたいのだ。

認知心理学では
単純接触効果
プライマリー効果(これは二つの意味があるので注意)
等として説明されているようだ。

対人関係学では、
人間は本能として仲間を無条件に守ろうとする
そういう性質のある個体だけが群れを形成して
生き延びてきたのだというし
単純明快な主張をする。

この観点から見ると、
ジャーナリストを擁護した人たちは
・元々知り合いだった
・政治的な立場が共通で仲間だと意識しやすかった
・あるいは単純に政治的理由
等という理由で
ジャーナリストをかばおうという気持になりやすかった。

もうひとつ注意していただきたいことがある。

対人関係の対立が起きている場合は
一方の味方をするということが
同時に他方を敵として攻撃することを意味する
ということになりがちだということだ。

加害者のジャーナリストを仲間として守るための行動として
伊藤氏を非難していたのである。

これは、仲間という一つの秩序を維持しようという形の意思である。
仲間だと認識した以上
仲間を守り、自分たちの群れの秩序を守ろうとしてしまう。
このために、客観的真実がどこにあるか
という探索ははそれほど重要でははなくなる。
客観的真実、一般的な価値観よりもよりも
仲間の利益が優先事項となるのである。

そうであるから、
例えば会社内で性犯罪があったとしても
会社の大部分の人間にとって
加害者の方がより仲間だと意識されているのであれば
性犯罪は大ごとにはならず
握りつぶされてしまう危険がある。
典型的な例は、加害者がベテラン社員で
被害者が派遣社員等で一時的に社内にいるような場合である。

そのような場合には、
多数派にとっては
権利侵害がなされているにもかかわらず
女性が悪いということで
権利侵害を救済しない後ろめたさにに
落ち着きが欲しくなる。
自分達という仲間が卑劣な集団ではない
という落ち着きである
これは人間の本能なのだ。

こうなると、加害者は仲間で人間であるが
被害者は仲間ではなく
人間扱いする必要がない
という無意識の区別が生まれてくる
大変恐ろしいことだ。

今回伊藤氏を擁護、支援した人が
広範囲に広がった一番の理由は、
伊藤氏が名前と顔を出して被害を訴えたからである。
具体的な人間の、具体的な苦しみが
映像として、音声として直接感じ取ることができたので
しかも繰り返し報道されたということもあり、
伊藤氏に対する仲間意識が生まれたという効果があったはずだ。

野党のH議員が苛烈な批判を浴びなかった理由も
全く同じことの裏返しだ。
H議員は顔も名前も知っている
仲間という意識が持ちやすい。

その反対で被害女性は顔も名前も分からない
だから心情を理解しようとする的がなかったようなものである。

だから、特に政党という結束が求められる組織は
容易に政党内の秩序を守り、H議員を守ろうとする
空気が形成されて
あえてその空気に逆らおうとすることができない状態に
なっていたのだろうと思う。

私が言いたいのは
このようにセクハラによる権利侵害の問題は
難しいということだ。
難しくしているのは人間の本能である
仲間を無意識にかばおうとしてしまう本能
群の秩序を無意識に守ろうとしてしまう本能
それが被害者の方を攻撃する理由である。

顔も名前も分からない女性の心情は
なかなか思いやることができない。
人間の能力なんてそんなものだと自覚しなくてはならない。

だから常日頃女性の権利を主張する人たちでさえも
伊藤氏を擁護、支援することはできても
H議員の被害者を擁護、支援することをしなかったのだ。
仲間であるH議員を攻撃することがためらわれたのである。

セクハラに対して戦いを挑もうとするならば
感覚的な議論ばかりをするのではなく
人間の本能を見据えて取り掛からなければならない。

世論に大きな影響を与えたのが伊藤氏の行動だということも間違いがないが
被害者が顔や名前を出さなくても
権利侵害が回付されなければならないことに異論はないだろう。

そういうことがクリアになった
伊藤氏の判決とH議員の書類送検
という二つのニュースであった。


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