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他人の不安を否定しない=責めない、笑わない、批判しない 特に家族など仲間の不案に対して [進化心理学、生理学、対人関係学]



家族の中に極端な心配性の人がいると、なんとなく嫌な気持ちになり、つい「それは心配しすぎだ」とか、「こちらの気が滅入ってくるから黙れ」なんてことを言ったりしてしまうこともあるかもしれません。これはたいてい不安症の人を益々苦しめるだけの逆効果になります。
1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。
2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。
4 心配性の人にどう接するのか
というお話をしてゆきます。

1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。

 その人が心配していたからと言って、平気でいられればそれで済む話です。例えば、猫が顔を洗うと雨が降る等と言う迷信を信じて天候を心配する人がいても、私はそれだけでは全く雨が降る心配などしません。すべてがこうではないにしても、このように他人に心配に拒否的感情が現れる理由は、心配を共有してしまうことによって、不安を共有してしまいそうになるからであるという理由がある場合が多いと思うのです。
パターン1 自分が無意識に不安にならないように努力している
 本当は現実に向き合うと不安になるので、無意識に自己防衛システムが働いていて、不安をシャットダウンしようとしている場合に置きるパターンがあります。論理的に大丈夫だと結論を出そうとする手段とそもそも考えないようにしている手段があるでしょう。いずれにしても悲劇的な結末の可能性に向き合わない努力を、意識的あるいは無意識に行っているわけです。ところが、不安症の人間によって、その努力が無意味になってしまう。このために、不安症の人は、自分にとって頑張ろうとすることの足を引っ張られるように感じて不快な感じが起こるのだと思います。大げさに言うと生きるための仕組みが妨害されることに対する不快さなのだと思います。
パターン2 よく似ているのですが、不安であることは自覚している場合もあるでしょう。自分も不安だけれど、大人はこのような不安を人前で出すべきではないという道徳感情みたいなもので我慢している。それにもかかわらず不安を人前にさらしている。自分がせっかく努力しているのに努力しないという場面を見ると、人間は自分だけが損をしているという感情と怒りの感情が生まれやすくなるようです。
パターン3 仲間が不安になっていると、不安を解消してあげられない自分が責められている感じがして、自分が否定されていると思ってしまうというパターンがあり、自分が役立たずと評価され内容として、いわば自己防衛手段として相手の不安を否定したくなるということがあるようです。案外これが多いのではないでしょうか。
 不安は無意識に、無自覚に生じるものです。他人の心配を否定する感情の中には、自分も同じ心配を無意識にしている可能性があると思います。

2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
 不安は、心理的なものととらえがちですが、生理反応が起きていて、血圧や脈拍、それに体温などの変動が起きています。不安は気持ちの問題が大きいのでしょうが、不安になっているという状態は客観的に存在しています。
 また、不安は自己防衛のための仕組み、つまり生きるための仕組みです。危険が存在していることに気が付いた場合、不安を感じます。すると、不安を解消したくなるという仕組みが生まれ、不安解消した行動の動機づけになっているようです。不安解消行動は、意識的な行動に先行して生理的変化などの無意識の変化が起きているようです。一連の危険回避のシステムが起きるということで、不安が特に人間にとって大切な反応のようです。
 この危険回避システムが妨害されると、それだけで危機感が生まれ、大きくなってしまいます。不安感情が大きくなるわけです。
 もう少し危険回避システムを説明すると、危険に気が付くシステムとして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚という五感があります。これが妨害されるということは、例えば視覚を奪われるということは目隠しをされたり、光の当たらない真っ暗な状態におかれたりすることですから、それ自体で恐怖を感じるということはわかりやすいと思います。早く目隠しをとりたい、明るい所に行きたいという感情が大きくなっていくこともわかりやすいと思います。
 そして、危険回避行動の典型は、走って逃げることと手足を使って攻撃することです。手足を縛られるとこれができなくなります。手足を縛られただけで何か危険が迫っているような感覚になることは想像できると思います。金縛りを経験された方はこれを実感できると思います。耳の脈を打つ音が、誰かが近づいてくる足音に感じてしまうのは、恐怖で過敏状態になっているからではないでしょうか。
 この五感と手足の筋肉の反応をつなぐ大切な要素が不安と不安解消要求だということです。そうだとすると、自分の不安を否定されてしまうと、命を守るシステムである不安解消システムの最も大切な部分が否定されたことになるので、不安解消システムの作動を妨害されたような気持になります。あたかも目隠しをされたり、羽交い絞めにされるような恐怖感さえも生まれてくる可能性があるということがイメージできるのではないでしょうか。
 不安解消のための古典的な方法が逃げるか戦うかですが、人間はその後進化を遂げ、複雑な因果関係の把握という思考方法を身につけました。危険の起きるメカニズムを知り、メカニズムが揃っていなければ危険が起きないという法則があるということを理解したわけです。だから、不安があっても、危険が起きない条件があり、それを満たしていれば危険ではないと本当に納得することができれば、不安が解消されるということは確かにあります。これがベストですね。
 ところが、新型コロナウイルスの問題は、目に見えない危険が現実化する可能性があるというものです。家の外に出なければならない人の場合、どんなに危険の条件を認識して予防を尽くしても、完璧に大丈夫かというと、なかなか完璧だとは言い切れないという現実はあると思います。不安が残ること自体は、私は正当な感覚の範囲内だと思っています。

3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。

不安を感じることが正当だと言いましたが、私はそれほど感染の不安を感じていません。もっとも、防衛手段を尽くした上でのことで、全く心配していないというわけではありません。不安の感じ方は人によって個性の違いがあると思います。
わずかでも危険の現実化の危険があれば心配になる人。
100パーセント危険の現実化が起こるということでなければ心配しない人。
概ね大丈夫なら心配しない人。
等々、人間の個体間で違いがあることはいろいろなところで感じられるでしょう。実は、このような個性の違いがある動物が、生存競争を生き残ることに適していると私は思います。
考えてもみてください。人間がすべて心配しない楽天家ばかりだったら、将来起こるかもしれない危険に備える人がいなくなり、些細なことで滅亡してしまうでしょう。逆にみんなが心配症で、あらゆる危険が怖いというならば、科学が進歩して危険なものが増えれば、ストレスで人類は滅亡してしまうでしょう。心配性の人が楽天家にブレーキをかけ、楽天家が心配性の人を励ましたり慰めたりしながら、人類は生き残ってきたのだと思っています。
この性格の違いは生まれ持った遺伝的なものも多いのかもしれませんが、群を作る動物特有の状況次第で性格が変わるということもあるようです。ハチが巣の温度を下げるために、巣の外に出て羽ばたいて気化熱で温度を下げるわけですが、必要の範囲でしか巣の外に出てきません。対して温度が高くないのに大勢で羽ばたいて必要以上に温度を下げるということをしないようです。いち早く出てくるハチ、のんびりと出てくるハチ、出てこないハチとうまく分かれているようです。働きバチはクローンですから遺伝的差がないはずなので、これは仲間の状況に応じて、行動のモチベーションが変わるのではないかと考えています。
人間もそうですよね。本当は大人も雷が怖いけれど、子どもが怖がっているのを見て、子どもを励まそうという意識をもつことによって、自分の恐怖が軽減されるということがあるのもこういう周囲の状況を見て感情が変化しているのだと思います。
 心配性の人、楽天的な人、それぞれいてよいのですし、それぞれが正しいわけです。

4 心配性の人にどう接するのか
不安になっていることを責められたり、笑われたり、批判されるということは、不安になる必要がないということを説明して不安解消する方法ではなく、不安になっている結果だけをやめろと否定されているわけです。先ほど述べた防衛システムを否定されるという恐怖感が生まれかねません。
同時に、不安を感じている自分という存在が周囲から受けいれられていないということですから、孤立感や疎外感まで感じてしまいます。当初の不安とは質の違う別の不安、余計な不安を感じてしまいます。人間の体は複数のストレスを受けることに馴れていません。金縛りで耳の脈を打つ音が化け物の近づいてくる足音に聞こえるように、危険に対して過敏な状態となってしまい、不安がエスカレートしていきます。これに周囲から自分が受け入れられていないということを感じること、自分が不安に感じていることに共感を持ってもらえていないという感じることが加わるのですから、人間のメンタルに深刻な影響が与えられるのは理解しやすいと思います。孤立感は、自分の不安を解消する方法は存在しないのだという絶望感につながりやすく大変危険です。
ではどうすればよいのか。
一つ目は、不安を解消する決定打はないということを自覚することです。人それぞれ不安の感じ方は違うのであり、他者の不安を100パーセント無くすことはできない。余計な使命感は持たないということです。
二つ目は、不安のエスカレートを絶つということです。不安はあるけれど、せめて孤立感だけはなくしてもらうということです。
このためには、不安をむしろ肯定してあげることが大切です。肯定できることだけ肯定すればよいのです。例えば、「このままでは国中失業者だらけになってしまい、日本が終わってしまうのではないか。」という不安を口にする人については、「そうだね。影響大きくてみんな心配だね。」というところまで賛同できるならばそれを口にしてあげるということです。「心配だけれど今は様子を見るしかないね。」ということが、不安を肯定されてから言われると、案外すんなりと受け入れてもらえることが多いようです。
三つ目は、人間はいつまでも不安を維持できないということです。つまり、いつしか危険に馴れていきます。ただ、これには条件があり、不安になっている危険が現実化しないことが必要です。自分だけでなく、自分の周囲で感染者や重篤な感染症状が現れないことによって、馴れが生まれていきます。これは動物一般に見られる現象です。人間も鳥もウミウシだって同じ原理です。これを信じて待ちましょう。
四つ目は、不安を否定しない態度ということで、マスク、手洗い、換気、三密の回避、睡眠の確保や規則正しい生活等やるべきことをきちんとやってみせる、これによって安心してもらうということでしょうか。

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