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コロナ差別が起きる理由 不安が大きいほど攻撃的になる構造 [災害等]

実感がない人も多数いると思いますが、
一部でコロナに関する差別行為が起きているようです。

医療従事者やその家族に対する攻撃
家族に看護師がいる場合、看護師をやめさせなければ
解雇するということがあったとの報道がありました。

また、コロナ感染者が県をまたいでの移動をしたことに対して
ネットで猛攻撃がなされているということもあるようです。

石を投げたり、家に落書きをしたりということになれば
犯罪です。

なぜ、このような差別行為がおきるのか
差別行為の原動力となる差別感情が生まれるのか
そのことについて説明し、
対処方法を考えてみたいと思います。

差別者の意識は、
「自分は、社会的に正しい行為をしている。
 社会道徳にもとづいて正義を実現している。」
ということが通常です。

もう少し具体的に言うと
「他人にコロナウイルスを感染させる行為をする人間から
 自分たちを守ることは正義の行いだ。」
となると思います。

ちょっと考えればわかることですが、
医療従事者だって、やりがいをもって張り切っている人ばかりではなく、
自分が感染するのではないか、家族に自分が感染させるのではないか
という具体的恐怖をもって職務を行っている人が多いはずです。

医療に携わるのをやめろということは
端的に医療崩壊につながるだけのことです。

差別者は、差別感情をあらわにすることに夢中で
自分の行為が将来的にどのような効果を生むか考えられていません。
また言われた方の感情も考えていません。
少しでも複雑なことになると、それを考えられないのです。
典型的な、高葛藤の持続による思考能力の低下が起きている状態です。

葛藤とは何かを乱暴に言えば、
「自分に何らかの危険が迫っているので、
 その危険から解放されて安全な状態にしたい」
という不安解消要求が起きているということです。
この不安を感じている時間が無くなり、
不安を解消する手段がない場合は
不安解消要求は高まっていき
思考能力の低下が起きていくわけです。

差別者は、何らかの危険が自分に迫っている
ということを感じているわけです。

その危険とは、もちろん
主としてコロナ感染の危険です。
コロナに感染して、自分や自分の家族が死ぬかもしれない
という危険を感じている上、
目に見えないウイルスのため
何時、どうやって感染するかわからない
だから、どうやって防げばよいかわからない
という焦燥感が持続した状態になってしまいます。

そうすると複雑な思考が停止し、
逃げろ逃げろとか
危険を攻撃してつぶせ
という感覚的行動が優位になっていくのです。
(これは人間が生きるための仕組みなので
起きること自体はやむを得ないところがあります。
問題は、それを理性でどうコントロールするか
ということが実践的な対策だと思います。)

逃げることは不可能だとするならば逃げるという選択肢は持てないので
危険を攻撃してつぶせという行動に出やすくなります。

この攻撃行動は、不合理な行動になることも少なくありません。
何を攻撃すれば効果的かなどという思考はありません。
勝てそうな相手を攻撃しようとする行動になることが多いのです。
いわゆる八つ当たりです。
虐待行為やハラスメント行為のほとんどがこの八つ当たりです。

勝てそうな相手とは、自分が反撃されないだろう相手です。
ネットは不安解消行動にはうってつけのツールになってしまいます。
また勝てそうな相手とは孤立している相手です。
集団で少数を攻撃する理由がここにあります。
そうして、現実には孤立していなくても
自分には賛同者がいるという意識
即ち、自分は社会の利益を代表しているという意識が
攻撃行動を後押ししてしまいます。

クレーマーの大多数は
このような社会代表の意識があるようです。

このような正義の意識は、葛藤が強く持続して起きているので、
そもそも正当な相手を攻撃することはありません。
勝てそうな、周囲も賛同してくれるような相手の攻撃になっているだけです。
差別という単純な論理で攻撃をするだけです。
この単純な論理であることから
同じような不安を持続させている人たちの賛同を呼びやすいのです。
「論理」ではなく、攻撃の「口実」と言う方が正確な表現かもしれません。

命とか、健康とか
特に家族や仲間の命、健康が口実になると
攻撃は激しさを増していきます。
正義に基づく攻撃の程度は
相手の違法、不道徳の度合いではなく
不安が大きければ大きくなるほど強くなるわけです。

また、自粛という行動制限がある場合
自分がそれを守っているのに
それを守らない人がいるというだけで
自分だけ損をしたような気持になり、
正義を掲げて攻撃をしたくなるという側面もあるようです。
この場合、自分が不自由な思いをする程度が大きいほど、
攻撃の程度が大きくなるようです。

戦時下の隣組の正義なんてこんなものではないかと思っています。

対応策として、既に行われていて感心するのは
医療従事者に対する感謝のキャンペーンです。

「差別をやめろ」と言ったところで、
差別者は自分は正義を実践しているという意識ですから
心に響きません。
心どころか耳まで入ってこないかもしれません。

差別をやめるのではなく
感謝をしようとする行動提起は
大変実践的だと思い、感心しています。

楽天の松井投手が、医療関係者にマスクを寄贈したというニュース等を
どんどん報道するべきだと思います。
差別やめろキャンペーンよりも感謝キャンペーンの方が
効果が上がるというのはこういう理屈です。

公共広告機構も素晴らしいと思います。

攻撃をしても不安は攻撃をしているその時だけ感じませんが、
ふと我に返ると、あるいは攻撃の同調者がいることを感じると
益々不安が強くなるという関係にありそうです。

攻撃よりも感謝
攻撃よりも協力
攻撃よりも受容
例えば家族をいたわるとか
同僚を気遣うとか
そちらの対人関係的な不安を軽減させることによって
自分が仲間に貢献することによって
不安を解消していくことが合理的なのだと思います。

簡単に言うとコロナ感染の生命身体の不安を
対人関係に不安がないから安心しようということにすり替えて
軽減させていくという作戦です。
これは仲間のために頑張ってしまうという
人間の性質を利用するものです。
結構いろいろなところで実践されている不安解消行動です。

軽減が一時的なものだとしても
対人関係の円満な記憶は
プラスの余韻を与えるものです。

良好な人間関係が形成されることによって
仲間に貢献しようという意識が生まれれば
不安はさらに減少していきます。

ややこしいのはカウンターという行為です。
差別者を攻撃するという行動です。
これ自体は差別された人を勇気づけるという側面もあるのですが、
問題を大きくする側面もあるので
なかなか難しい問題があります。

できる限り、感謝と協力と受容で
つまり差別者の不安をも承認しながら
(不安はわかるけど、それを言っちゃあおしまいよとか)
差別を解消することが実務的なのではないかと
コロナ差別に関してはそう思っています。

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