SSブログ

解決不能の感覚の有害さ 自死リスクとは何か 2 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



自死者の事件を担当して、後追い的に自死の調査をすると、必ずと言ってよいほど出てくるのがこの解決不能の感覚である。
毎日毎日会社に行かなくてはならないのだけれど、行けば必ず自分は侮辱されたり叱責されたりする。なんとか叱責を受けないようにと細心の注意を払っているが、自分の思いもつかないことで叱責を受ける。過去のことで叱責を受ける。言い訳をするとまた叱責される。誰も見てみぬふりをして助けてくれない。自分が仲間として扱われることは不可能で、このまま苦しみ続けるか死ぬしかないと思い込んでしまう。
毎日毎日に学校に行かなければならないのだけれど、行けば必ずちょっかいを出される。普通に席に座り授業受けたいのだけれど、必ずからかわれる。部活動も自分には向いていない。できないものはできないのだけれどやらなければならないと叱責されるでもどうやればよいのかは誰も教えてくれない。部活動に行きたくないから先生から叱られることを覚悟で家に帰ると、先生だけでなく、友達からもラインで非難される。ひそかに好感を持っている女子の前で恥ずかしい思いをさせられて逃げることができない。自分はほかの子ができることができない。これでは、将来、良い学校を出て良い会社に入って、安定した生活を送り、結婚して家族を作るなんてことは不可能だ。このまま生きていてもこの苦しみが続くだけなのかもしれない。
家族が自分から離れていった。自分としては、生まれてきてからずうっと暮らしていたスタイルのまま生活を続けていた。自分なりに愛情もかけていた。もちろん口論になったこともあるが、暴力なんてしたことがない。家族のために自分はつらい仕事もこなしてこれたし、自分を捨てても家族を守ろうとしてきた。生きる意味が家族と生活することだということも実感してきた。それなのに、理由らしい理由も言わないで、少なくともこちらが納得する理由も知らされず、自分は家族から追放された。何とか修復を試みようとしたが、もはや直接話をすることができない。警察や弁護士は身に覚えのないことで私を非難してくる。裁判もありもしない事実を認定して、私を極悪人のように評価した。理解をしてくれる人はいるけれど、家族との関係の修復に向かう道筋が全く見えない。なぜ、ここまで自分が否定されるかが全く理解できない。何のために生きていけばよいのか分からなくなる。

自死リスクが高まる解決不能の感覚とは、一つには、このように、自分の大切な人間関係の中で自分が望むポジションに復帰したいという本能が前提にあり、それが不可能だという感覚である。
自分が大切な人間関係の中で自分の望むポジションにあり続けたいというのは人間の本能であるようだ。そのような本能があるために、人間は群れをつくって生き延びてくることができた。
大切な人間関係はあくまでも主観的なものである。あるいは社会や家族、学校によって大切だと思いこまされている場合がある。また、意識はしていないが、家族のように本能的に大切にする人間関係もある。

自死リスクが高まる解決不能は、このように対人関係的な解決不能の感覚がある場合が多い。また見過ごされてしまう。例えば、会社や学校で解決不能の感覚があっても、家族の中では尊重されているという場合、家庭では穏やかに生活していることが多い。また、大切な家族にだからこそ、心配をかけたくなくて無理に平静を装うということも行われる。解決不能の感覚が継続すると、感情の平板化も起きる。悲しみを拒絶する状態であろう。いじめても苦しまない姿を見ていじめがエスカレートすることもある。大切なことは、その人の対人関係的な状態の情報を獲得して、何らかの解決不能の状態にある場合は、速やかに改善することが必要だということである。苦しみや悲しみの表情をまったり、援助希求を待つということは自死予防の観点からは非現実的な要求であり、対策としての意味はない。

解決不能の感覚は、身体生命の不安でも起きる。むしろこれが古典的であるかもしれない。ある例を出すと、高齢の女性ががんを告知された。ただし手術をすることで命には別条がないとのことであった。それでも、その女性は、がんであり放置すれば死亡すること、そうならないためには手術をしなければならないことが恐怖となった。おそらく、手術をしなくても天寿を全うしたいという願いを抱いたのだと思う。それは実現できないということで、解決不能の感覚を抱いてしまった。女性は自死をした。死の恐怖に耐えられないから自死をしたのである。矛盾するように聞こえるかもしれない。しかし、解決不能の感覚がいかに人間にとって有害なのかを示す事情になると思われる。
解決不能の感覚はそれだけで自死をするわけではないと思う。解決不能の感覚を抱くと、逆に解決の要求が高まってしまうところにポイントがある。解決の要求が過剰に高まると、解決の要求が生きる主目的になってしまう。この要求が実現されれば死んでも良いという行動様式にならされてしまうようだ。人間の行動様式は必ずしも合理性を極めているわけではない。冷静に考えると不合理なことだが、本人は不安の解消だけを渇望しているのでそれに気が付かない。
不安は自然に湧き上がってしまう。安心は繰り返し繰り返し刷り込まないとなかなか獲得できない。冷静な第三者の目で、そんな心配をしないだろうとか、死にたくないというのだから自死はしないだろうと考えることは大変危険なことである。
自死は、これらのように、本人の合理的意思に基づく行動ではない。本人の感情や援助希求を待って行動するのではなく、客観的自死リスクが認められればその手当てをすることなしに自死予防は十分なものとはならないだろう。

一番わかりやすい自死予防は、解決の目的を捨てることだ。私の依頼者や相談者の例を挙げると、転校して能力が開花してその学校にいる場合よりも豊かな人生を送るということがとても多い。転職も人によっては同僚に恵まれて生きる糧になることも多い。「こうでなくてはいけない。」というこだわりを捨てることでとても楽に平穏な生活を手に入れることがある。これは緊急避難でもある。問題は支援者が自分の価値観で、その人が解決の目的を捨てることを妨害することだ。一人前の人間が転職するということはだめだとか、自分が悪くないのに転校してはだめだとか、そういうことで苦しみが終わらないのは本人である。私は、本人がそれでよければ、家族は本人を信じて納得しなければならないのだろうという場合が多いように思われる。
ただし、死別と離別とを問わず、家族を失った苦しみ、家族との関係を修復したいという解決要求にどのように働きかけるかということはとても難解でそれこそ解決困難である。当事者との話し合いで学んでゆくしかない。これまでの中間報告的なヒントらしきものがあるとすると以下のことである。即ち、一つは、どうして死別や離別に至ったのか、結論に至る前の方法論や別れに至る経緯についての考察は、残された者が抱く絶望を緩和する場合が少なからずあった。過労死遺族であれば、労働実態を調査検討し、過労死や自死に至った流れの可能性が明らかになる場合。あるいは離別の場合は、相手方の要因とこちら側の要因について、その流れと、それがどちらかが悪意があったということがない場合でも起きるということが理解されれば解決不能の感覚が緩和されることがある。ただし、いずれも、本人が積極的に解決不能の感覚から逃れたいという希求がなければ奏功しない。無理やり悲しみを解消させることが許されている人間は存在しないということも肝に銘じるべきであろう。
また、その流れに納得した場合、失った家族は帰らないけれど、他者に同じ苦しみを味あわせたくないということで社会運動に立ち上がる人たちもいる。とても人間らしい活動であると感じている。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。