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テレビ番組発信の誹謗中傷が生まれる仕組み 攻撃参加の論理、あおりの原理 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

 

フェイスブックなどの政治がかった投稿等で、
ある程度権威のある人の投稿のコメント欄を見ると
なんとも情けない気持ちになることがあります。

例えばそのリーダーが、
政権だったり野党だったりを皮肉たっぷりに批判する投稿をしたとします。
コメント欄は、
批判の過激さだけを競うようなものが並びます。

単なる人格攻撃だったり
皮肉の工夫だけに力を入れていたり
それならまだよいのですが、
お決まりの単語を書き込むだけのコメントもあります。
読んでいて恥ずかしくなります。

たとえ最初の意見の核となる部分には同調できても
この人たちと同じに見られたくないなあと
「ひいて」しまうことが私の場合良くあります。

私にはこのようなコメントは
リーダーにすがっているようにしか見えないのです。
「ね、そうだよね。私も一緒だよ、ほらね。」と
なぜここまで必死なのだろうと首をかしげてしまいます。

仲間内のサークルでそれをやっているなら
罪がないのかもしれません。
空虚な賛辞が続いていたとしても
おそらく仲間内では
それほど深刻に意味なんて考えないで
応援しているというメッセージが伝わればよいのでしょう。

おそらくそのコメントを出すことで
特に誰かが傷つくわけではないのだとすれば
それは言葉の持つコミュニティー機能
サルの「毛づくろい」と同じ
相互のなだめ行動ということで、
人間としての正しい在り方なのでしょう。

通常の人間は、多かれ少なかれ
誰かと仲間でいたい、仲間の中に入っていたい
という意識を持ち、
これがかなわないと心身に不具合が生じるそうです。
(Baumeister : The Need to Belong)

現在の人間関係は人間が心を持つようになった時代に比べて
複雑になっています。
仲間以外の人間とも日常出会うことになりますし、
仲間と生活できないで一人暮らしをしている人も多くいます。
学校でも、職場でも人間関係が希薄になっているために
仲間の中にいるという安心感を持てないのかもしれません。


自分の周りに仲間を感じられないと
よりわかりやすく明確に考えを表明する人と
仲間だと思って結び付きたくなるのでしょう。

その人と仲間であることを優先して考えるあまり、
例えばその人を賛美することが
他の人間を攻撃することになって、傷つけるということも
考えられなくなっているのだと思います。

人間相互の結びつきが希薄であるために
探し出しても結びつきの中に自分を置いて安心したくなる
ということなのでしょう。
ネットでのいじめも、学校でのいじめも、パワハラも、
このようにして生まれます。

2人の対立に利害関係はないけれど
攻撃者との関係で仲間意識を持ちたくて
攻撃者に協力する、攻撃参加するわけです。

この場合、攻撃者がわかりやすい方が
より仲間意識を持ちたくなります。
怒り、悲しみ等、感情がはっきりしている方が
無責任な追随がしやすくなります。
追随しても攻撃者から自分が攻撃されることがないだろうと
安心して攻撃参加できるからです。

いじめられる方はいじめられ続けると
感情表現をやめてしまいますから
ますますいじめられるわけです。

また、思想、政治、宗教など
仲間意識を強く求める仲間の中にいる人ほど
対立する相手の感情を顧みない傾向があります。
「自分たち以外は敵。」
結果としてそういうことになっていることに気が付かないようです。
これは思想の中身、政治傾向、宗教内容とは関係なく
仲間としていたいという要求度によって変わるようです。

こういう仲間意識の強い人たちは
リーダーの感情が高ぶったときこそ
その感情に追随して仲間の中にいるという意識を満足させる
絶好のチャンスだととらえるわけです。

リーダーが誰かを非難すると
仲間であることを確認したくて、あるいは確認してもらいたくて
積極的に自分と利害関係の無いはずの人に
攻撃を仕掛けていきます。
どうやら攻撃することが自己実現ではなく
仲間として共通の行動をしていると実感することが
自己実現であるように感じてしまいます。

仲間意識を渇望している人たちは
色々なことをとらえて仲間になりたがるようです。
テレビ番組なども
ただドラマを楽しむことができず、
ただ野球を観戦することができず、
誰かの感情が現れることを待って
その人の感情に追随しようとします。
そしてリアル生活で誰かと感情を共有したくても
近くに誰も感情を共有できる人がいない場合、
インターネットなどで探してまで
仲間を求めるようです。

テレビではこれを積極的に利用しています。
テレビ番組では、小画面(ワイプ)を作り、
そこでタレント等の反応した表情を同時に映す
その表情を見て安心して自分の感情を追随させているようです。

ニュースショー、ワイドショーでも
それぞれ事実を自分なりに評価すればよいのに
コメンテーターの言葉にうなずいているうちに
意見が整理されてしまうのです。

確かにその場その場の視聴者の感情の
一部をコメンテーターは言い当てているかもしれませんが、
それは複雑な感情の一部にすぎません。
一部でも言葉にしたかったことを言葉にしてくれているので、
自分も同じ感情を共有していると仲間意識を満足させてしまうので、
コメンテーターの言わない側面は捨象されてしまうわけです。

人間を尊重しないで馬鹿にするようなテレビ番組も
ワイプの中でタレントが笑っていれば
笑ってよいのだというように追随してしまう。
「ちょっとやだな」という感情は捨象されていくわけです。

その番組に対する自然な感情、感想ではなく
一部が拡大されて、感情、感想が集約されてしまうわけです。
誰かと仲間になりたいということを渇望する人にとっては
感情を共有しているという実感を持つことによって
仲間でいる安心感を持つのでしょう。

だから、テレビ番組で
司会者などが、番組のキャラクターを非難して怒りをあらわにすると
その怒りという「部分に」共鳴した人たちは
その司会者やコメンテーター、番組参加者と仲間になりたいと
どうしても思ってしまうようです。
人間の本能で、無意識に思ってしまうのでちょっと厄介です。

その怒りが弱い者を守ろうとしての怒りから始まる場合であると
さらに積極的に攻撃参加してしまうのが人間のようです。
人間は弱い者を守るという要素があると
その他の人間を傷つけるという要素に目が行かなくなるようです。
日常的に怒る口実を探しているのかもしれせん。
それだけ現代社会では、
人間の仲間の中にいたいという欲求が満たされていないのでしょう。

(でも、本当にその人が弱い人なのかどうかは
 テレビのこちら側の人間は分からないはずなのです。)

人間の仲間の中にいたいという要求は
誰かの攻撃に参加することで
協同攻撃をしているという実感である程度満たされるのでしょう。
さらに正義感から出発するのでそれを止めることがなかなかできない
止めるという発想が生まれないようです。

攻撃しているうちは、攻撃している人間は同じ仲間だと感じて
一体感を持つのかもしれません。

テレビ番組やメディアは学習するべきです。
視聴者の感情をあおって視聴率を上げようとする場合は、
うかつに司会者が感情をあらわにすると
それに追随しようとする多くの視聴者が生まれてしまうのです。
番組の時間、テレビの前ということにとどまりません。
仲間意識の残像を求めて、インターネットに向かうわけです。

だからあおりというは、怒りとか正義感をあおっているのではなく
仲間意識の的を作るということが出発点なわけです。
これが大変危険なことなのです。
弱い者を守るために誰かを責めるという大義名分が
大変危険なことなのです。

つまり、テレビなど不特定多数人に発信する場合、
特定の人に対する怒りを無責任に発信することは
大変危険なことだ
ということを肝に銘じてほしいと思います。

自分の欲望を満たすための行動ですが、
仲間のなかにいたいということは人間の根源的要求なので、
防衛意識に似たような切実な求め方をするようです。

攻撃対象者の感情、立場、人間関係など
その人の人間性はすべて捨象されてしまい
単なる攻撃目標になってしまいかねません。
彼らは、攻撃対象者に恨みもないのに、
同じ攻撃仲間の一員でありたいという強い感情が
強い攻撃になるわけです。

彼も攻撃している、彼女も攻撃している
自分も攻撃しているので、自分は彼と彼女の仲間だと
言葉にしてしまうと大変ばからしいのですが
そういうことだと思います。


少しだけ攻撃される方の心ものぞいてみましょう。
例えば、テレビなどメディアに露出して攻撃を受ける人は、
昔、インターネットの無い時代は、その場限りの攻撃でした。
漫才のボケ役であれば
テレビの中だけ、演芸場の中だけで馬鹿にされればすんだでしょう。

俳優の悪役であれば
テレビの前だけ、舞台の前だけでののしられれば終わりだったはずです。

昔の国民は、ボケを、悪人を「演じていたこと」は了解していました。
ボケ「役」、悪「役」ということで、
それは仕事としてやっているということをどこかに意識しながら
お茶の間で楽しんでいたはずです。

中には、実害を及ぼす人もいるにはいましたが
ニュースになるくらい珍しいことだったようです。
その人たちも昭和の中期くらいまでは
自宅の住所を公開し、手紙を受け取っていたようです。

昔の国民は、テレビの虚構の世界と実生活の区別がついたのでしょう。
テレビの中の世界は自分の世界とは違うということを
よくわかっていたのだと思います。

現代社会は、インターネットの普及で
攻撃者と被害者がごく身近な存在になってしまいました。
虚構の世界と現実の境界が曖昧になってしまった
ということなのかもしれません。

またインターネットの世界は、
時間が途切れないというところに特徴があるようです。
いつでも誰かが悪口を書き込んでいるかもしれないわけです。

夜中でも、明け方でも
体調が悪い時も、家族と幸せに過ごしているときも
インターネットに書き込まれるわけです。
見なければ良いというわけにはいかないようです。
気になって仕方がないようです。

プライベートがないということにもなるかもしれません。
心を休ませる暇がないようです。

そうすると、自分が世界中のあらゆる場所から
常に、ひと時も休まずに攻撃されている
という感覚になるのかもしれません。
これは、おそらく人類がこれまで体験したことの無い恐怖でしょう。

人間の心は対応できるようにできていません。
このような誤作動を起こすわけです。

一人暮らしをしているとなおさら孤立しやすくなるようです。
家族や友達に相談すればよいのでしょうが、
追い込まれていると
自分が相談することによって負担をかけてしまうのではないか
という意識が強くなっていくようです。
相談することによって
自分のかけがえのない仲間を失うのではないか
という本能的に不安が現れるようです。

切れ目なく自分に対する攻撃がつながり
知らない人から非難されていったら
大勢の人から非難され続けたりしたら
「誰も自分には味方がいない」
そういう絶望を抱きやすくなるのかもしれません。

どうか、私たちは
ネットの誹謗中傷は他人事と思わず
自分も結果的に同じことをしているかもしれないということを考えませんか。
インターネット社会の中で
他人を気遣う方法を見つけるために知恵を出し合いましょうよ。


私ももっとそのための役割を果たせればと思っています。

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