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脳科学等が扱う「心」と我々の思っている「心」は別物なのか。心は外界の刺激に対する生理的反応に過ぎないってことなの? 対人関係学の立場は。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「心はいつ始まったのか」とか、「心の構造」などという題名に心惹かれて本を読むと、想像している内容とは異なり、
ナメクジみたいな動物(アメフラシ)を刺激し続けるとえらを引っ込めなくなるとか
犬がベルの音を聞くとよだれを流すとか
サルが動画を見て、手に力を入れたとか
そういうことばっかり書いてあって、本を読み終わると
「あれ?それで心はどうなってしまったのだろう?」
と肩透かしを食ったような気持ちになるということがあると思います。

脳科学で言うところの「心」というものは、私たちが使う心とは別物かもしれないという疑問を抱くわけです。脳科学に限らず、認知心理学や、進化生物学、そして対人関係学でも同じような意味の心について議論をしているようです。

普通に使う心というと、例えば「心の中で考える」というように、
何かを考えること、
何かをしたいと思うこと、したくないと思うこと、
何かについての価値判断、
誰とは仲良くなりたいとか、誰とは顔も合わせたくないとかいう意味や
可能性の判断
これはできるだろうか、うまくゆかないのではないかという判断でしょうし、
「心が折れる」という言葉からすると、我慢をするとか、気を張る、頑張るなんかも心の活動でしょうし、
「心根の優しい」という言葉からすると、優しい心、意地悪な心みたいにも使われるので、人格、個性などの意味でも使われますね。

このように、私たちは、思考、判断、意思、人格などが心の意味だとして、心という言葉を使っているはずです。
これに対して諸科学では、あたかも外界、環境からの刺激に対する生理的変化を心だと呼んでいるようです。せいぜい、他人が何を認識しているかの想像力、あるいは自分と他人の区別というものが含まれる程度です。

一般に使われる心と科学が扱う心は、別物なのではないかと疑問を持つことは当然かもしれません。

これについては諸科学というか、諸科学の学派によって説明の仕方が違うようです。あまりこの問題が正面切って論じられることはないのですが、他の学派からの批判の対象になっているという形でうかがい知ることができるというちょっと裏口からの評価になります。

極端な学説では、まったく一緒だと考えているようです。つまり心なんて、ナメクジみたいな動物がえらを引っ込めることとまったく一緒だというものです。個性や人格の違いというものやあるいは自由意志などというものは、実際は存在しない。あると思っているのは、錯覚に過ぎない。あくまでも外界からの刺激があってそれに対して反応している体の仕組みに過ぎないという考え方です。基本は、防衛反応であって、生理的な生きる仕組みだというのです。

でも、「確かに個性というものはあるじゃないか。」という反論はあるわけです。地震でも、事故でも、困ったこと、大変なことが起きたとき、逆に何か褒められたときもそうですが、人間がそれぞれ人によって反応が違うことは、我々も常に体験しているわけです。
それに対しては、人によって確かに反応は違う。しかし、それは、遺伝子の仕組みの違いだとか、個人個人の置かれている環境の違いだとかという説明がなされているようです。遺伝と環境のほかに加えるとしたら、各人の経験の違いが個性を形作るということもあるでしょう。犬に噛まれそうになって怖い思いをした人ならば、犬を見たら怖いと思い逃げるでしょうけれど、犬と一緒に暮らしていた人は、犬をみると優しい気持ちになり犬に近づくという違いが出てくるでしょう。
(心の研究と記憶の研究では同じことが論じられることが多くあります。)

でもそういう個性があるということを認めてしまうと
心というものを突き詰めて解明しようとしても、個性によって異なるということになってしまえば、心を研究しても意味がないのではないかという感想も生まれてしまうかもしれません。
しかし、大きな法則自体は変わらないわけです。例えば、熱に障ると熱いと感じて手を引っ込めるとか、けがをすれば痛いと感じるとか、根本的なことは程度の違いはあっても大筋はそれほど変わらないわけです。他の動物ではなく、人間としての共通項が確かにあると思います。

一つに大きな視点から、社会の在り方について科学は役に立つでしょう。犯罪を実行しやすい心を取り巻く環境があるのであれば、その環境を解消することによって、犯罪が起こりにくい社会を作ることができる。
夫婦や家族が仲たがいしやすい環境があれば、それを解消することによって、夫婦や家族が仲たがいしにくく、子どもが安心して育つ人間関係を作るようにすることができる。
いじめが起こりにくい学校、安心して協力し合う職場等、それですべてが解決するわけではないけれど、不具合を起こりにくくするということができやすくなるかもしれません。

個別の人間関係、あるいは個別の人間の問題点も、可変要素である遺伝(もともとの性質)、特殊な環境の有無とその影響の程度、生い立ちなどその人が育ってきた環境などを考慮に入れれば、不具合を解消する方法が見つかるかもしれません。

だから、個性があったとしても、あるいは心が外界に対する生理的変化だけではなく別の複雑な要素があるとしても、「科学的な意味での心」を研究することは意味があることだし、大きな力を得ることができる可能性が高いと思われるのです。

逆に「科学的な意味での心」を認めなければ、
つまり、人に共通の心なんてない。心は全く千差万別だということになれば、
犯罪をしてしまうのは、その人の心の問題であって社会の問題ではないとか、
離婚をするのは、あくまでも夫婦の問題であって、どうすることもできないとか
いじめや虐待やパワハラは、怒るときには起きてしまい防ぐことはできないものだということになってしまいます。
それも極端な考え方だと私なんかは思うわけです。弁護士という仕事柄、どうもあらゆる社会病理は個人の心の問題だけではないのではないと感じ続けてきました。
もしかすると、犯罪にしても、離婚にしても、いじめや虐待、パワハラにしても、そうするように追い込まれてしまう要因があるのではないかという疑問を持ち続けてきました。悪い結果、ひどい行為が、その人だけの問題で起きているということでは、解決が付かないという実感が募ってゆきました。

心には共通項がある。すべてを解決できるわけではありませんが、共通項、あるいは法則を見つけ出せば、ある程度は不具合を予防し、あるいは軽減ないし解消することができるのではないかという気持ちが強くなりました。
その人個人の責任もあるでしょうが、その人個人ではどうしようもなかった部分もある。その両方を認めないと予防も改善も効果が上がらないのではないかと考えるようになりました。

おそらく、そこからはみ出した個性がもしあるとすれば、それを他人がとやかく言うことではないのでしょう。人間の心を科学的に解明するとは、不具合を解消し、人間が幸せになるための方法を考える範囲で解明されればよいのだと思います。

こういう目的に照らして考えた場合
科学的な意味で、つまり、心も自分を守るための仕組みであり、基本的には外界の刺激に対する生理的反応であるとして、心を研究することが有益であろうと思って、いろいろ考えているのです。


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