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虐待加害者からの相談や依頼を受ける弁護士として、虐待問題は特別な問題でないことが多いと思っていること [家事]



私の事務所には、「自分が虐待している」と他人から言われているという人からの相談がきます。警察に通報するとか児相に通報して子どもを保護してもらうとか言われるそうです。どうやらそういう世の中になってきているようです。「虐待」という言葉が使われてしまうと、あとは権力や行政に通報するという対応方法しか世の中出てこないようです。そしてその後は、親から子どもを引き離すか引き離さないかという選択肢しかでてこないようなのです。

どうして、その親御さんにアドバイスをする人がいないのでしょうかね。理由は3点思いつきます。
一つは、官が主導する児童虐待対策の方法が、児相や警察通報という手段しか提示しておらず、後はその専門家に委ねるべきだという政策になっているというところに理由があるでしょう。
もう一つは、例えば幼稚園などで児童虐待が話題になる場合、児童虐待だと感じる大人と児童虐待をしていると評価される大人が、人間的なつながりが無いために、アドバイスだったり、注意だったり、普通の人間関係ならば行われるはずのことができないという対人関係的な問題が理由となっていると私は思います。虐待をするような人は、初めから自分とは別種の人間だと思いたいのだと思います。
さらにもう一つ、「虐待」という言葉に過剰に反応してしまうことも理由だと思います。「虐待」という言葉が出てしまうと、それを行なっている人は悪虐非道の、罪もない幼児を傷つけて平気でいる鬼のような人物であって、うっかり何か関わってしまうと自分が攻撃されてしまうというような意識を持ってしまうわけです。だから、できるだけ自分は直接関わらないで専門の人に任せようという意識が出るのではないでしょうか。

私は、虐待と言われているような事象は、それほど特別な出来事ではないことが多いと感じています。虐待といわれる行為をしてしまうことは、子育てをしているときには多かれ少なかれあることだと思うのです。私自身や身近にもあるにはあったと思います。
例えば、キツくしかり過ぎてしまう人がいます。
多くは、その親御さんも何か必要なしつけをしようとしているのです。しかし、子どもがなかなか理解しない。子どもに叱らないで理解させる技術が親にはない。その結果、勢いきつく何度も繰り返し結論を押し付けてしまう。それでも子どもの反応が今一つはっきりしない。するとなんとか教え込もうとさらに厳しくなってしまう。このあたりまで来ると周りから見るとそれは紛れもなく虐待が行われていると感じる行為になってしまっている。「あんなちっちゃな子どもに、鬼のような形相で親が怒鳴っている。」「手も出そうな勢いだ。」「子どもはすでに泣きじゃくっているじゃないか。」そんなことが何度か続いていれば虐待親だと認定されてしまうわけです。その上、子どもが転んで顔を怪我でもしていたら、夫婦で虐待しているという疑いを簡単に持ってしまうようです。

子育てが終わることになると誰しも気がつくのですが、そんなに一つ一つのことを完璧にしつけようとすることにあまり意味が無いようなのですよ。どうしてもそれができなくても、あまり子どもの人生に変わりはないのですね。例えば靴の紐が結べなくても、友達と一緒にやっているうちに覚えたり、どうしても覚えられない場合は紐のない靴を履かせれば良いわけです。忘れ物をしたとしても、幼稚園時代の忘れ物なんて、後は先生がなんとかしてくれる事がほとんどです。失敗したらまず謝る。親が笑われるかもしれませんが、笑われたら一緒に照れて笑えば良いのです。そういう関係はとても楽ですよ。失敗しないことよりも、失敗の後のリカバリーの方がよほど人生にとって有意義です。

それに言葉で教えるのではなく、子どもに何かを慣れさせていくうちに少しずつできるようにすることが上策でしょう。一番は親のやっていることを真似させていくことが人間教育の本質だと思うのですね。おそらく、他人から見たら虐待だと見られるようなしつけって、親ができないことを子どもにはやらせようとしているときに起きるのではないでしょうか。初めから無理があるわけです。もちろん、自分ができなかったことを子どもにやらせようとか、自分が苦労した道を子どもに歩ませたくないということはよくわかります。自分にも覚えがありますからね。

だから、虐待に見える行動を取る親御さんが、悪逆非道の人格破綻者だという見方は、リアルな見方ではないように思います。むしろ普通の人で、多くは責任感が強く、子どもでも努力をするべきだという真面目過ぎる人ですよね。だから、少し年配の親御さんがお話をしたりをしたり、子どもを預かる側にも年配の、つまり子育てを一通り経験した人を用意して、そういう人からアドバイスするという方法が一番有効なはずなんですよね。「あなた、そういうことをすると虐待だと思われるよ。」、「あなた、それではお子さんかわいそうだよ。」とはっきり言ってあげられれば良いと思うのです。言われれば気がつく人の方が多いと思うのです。

言われたことで殻に閉じこもる人もいるでしょうが、自分もそういうところがあったからといって同じ目線で話せば、親御さんの方もどうしてそんなに厳しくするのか、悩みがあるなら悩みを打ち明けて、そんなこと悩むことじゃないことがわかり、子どもをかわいがる方が早道だと気が付けばみんなが幸せになるはずなのです。悩みが解決しなくても、とりあえず虐待に見えることはやめておこうということになるはずなのです。大切なことは、虐待しているように見える親も別種の人間ではなく、同じ地平に立っている先輩と後輩みたいな関係で仲間だという視点だと思うのです。

ところが、現状の虐待防止政策の選択肢は通報と引き離しなんですよね。それでは親は、他人から見えるところでは厳しいしつけをしないように隠すだけなのです。虐待とはいえなくても、子どもは苦しい毎日を送ることにはそれほど変わらないということになってしまいます。子育てなんて、そんなに頑張らなくても良いのだということに親が気がつくチャンスがなくなるからです。


児相に子どもを引き離されてしまったら、一体誰が親にアドバイスをするのでしょう。引き離しは対立構造を不可避的に生みますので、児相が親に適切な教育を指導してそれを受け入れるということはとても期待できません。こんな当たり前のことがないがしろにされているわけです。子どもは緊張しないで親から愛情を受けて育つチャンスを、人生で一度だけのチャンスを失ってしまうわけです。これは大変恐ろしいことです。しかし、子育て経験が乏しい児相の職員の方や児童養護施設の方々は、その恐ろしさをあまり理解されていないようにいつも感じています。

どうも政策を立案する方々というのは、特に数字に興味があるのではないかと感じています。虐待通報数を増加させたいとか、一時保護の数字とか、そういうことです。おそらくそれが増加すれば、虐待死の件数が自動的に減るのだろうと信じているように感じます。あるいは数字をあげることによって、成果を主張し、予算の獲得を図ろうとしているのでしょうか。そうではなく、子どもたちが楽しく人生を歩むとか、親に育てられて安心して育つとか、そういう数字にならない事に興味を持っていただきたいと思っています。極端なことを言えば、数字に現れなければ考えないというならば。子どもが死ななければ良いというように感じてしまいます。これではみんなが不幸になっていくだけだと思うのです。

人間の子育ては、親だけが行うものではなく、200万年前から群れが行うということになっています。他人の子どもであっても、縁あって同じ群れになった仲間がどんどん口を出さなければならないのでしょう。どうやって口を出すのか。どうやってそれを受け入れていくのか。そういうことこそ議論をして実践していくことが必要だと思います。

縁あって相談を受けた弁護士は、やみくもに虐待親に対する過剰反応をすることなく、逆に過剰防衛意識を持つことなく、子どもの利益の視点で、親御さんにアドバイスできれば良いと思います。行動を修正することは、子どもを引き離されないための有効な手段となりますし、何より子どもが楽しい子ども時代を送れる方法にもなります。
また、悩みを抱えていて、子どもに厳しく接することを自分で抑制できない親御さんもいます。そういう場合は悩みを解決する方法を一緒に考えるべきでしょう。心理面に問題を抱えておられるのならば、信頼できる臨床心理士を紹介するという方法も選択肢に入れるべきだと思います。
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