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【読書案内】「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害について [進化心理学、生理学、対人関係学]



弁護士の仕事をしていると、真実と異なる証言を目にすることがあります。
偶然に証言が違うという客観的な裏付けが得られることがあるのです。
もちろん、あえて嘘を証言する場合もあるのですが、
どうやらその人の記憶では、それが正しいと思い込んでいる
としか考えられないことも多いのです。

夫婦間の家事事件で多く真実に反する証言を目にします。
真実と異なる証言をするのは妻とは限らず、夫、そして子どもたちも含まれます。

このため記憶に関する勉強はずいぶん前から勉強をしてきていました。
ロフタスという名前は、むしろ記憶に関する勉強というよりは
認知心理学、実験心理学の本の中で
「ショッピングモールの迷子」という実験で紹介されていたのですが、
著作が出版されていることに気が付かず、読む機会に恵まれませんでした。

今回もロフタスに興味を持ったのは
アマゾンの書評で、わが師であるJ・Lハーマン先生の批判がなされている
ということから興味を持ちました。

ハーマン先生は、「心的外傷と回復」という名著の著者で
複雑性PTSDという病名の提唱者です。
私の対人関係学は、この本に記述されている
人間の心の仕組みが基盤になっていますので
大恩人でもあります。

ただ、気になることが本に書かれていて
ご自分がラディカルフェミニストだということを自己紹介されているのです。
「心的外傷と回復」では、医学的、心理学的に
つまり科学的な記述がなされていたので、
どの部分がラディカルフェミニズムなのかわかりませんでしたので、
それも知っておきたいという気持ちも強くありました。

出張先の町で時間調整のために
ロフタス博士の「目撃者」という本を途中まで読んで
あまりにも私が求めていた本だということで
「目撃者の証言」と「抑圧された記憶の神話」の2冊を
アマゾンで発注し、さっそく読み終えたところです。
ハーマン先生の本は難しく
既に4,5回読み直して繰り返し勉強しているのですが、
ロフタス博士の本は、翻訳の問題もあるかもしれませんが
すんなり頭に入ってきてあっという間に読めました。
中身が面白いというところもあるでしょう。

特に「抑圧された記憶の神話」は、衝撃的でした。
副題が「偽りの性的虐待の記憶をめぐって」というものが端的に表しているのですが、
1970年代80年代に、アメリカで、
カウンセリングによって突如20年前に虐待された記憶がよみがえり、
それをもとに、父親や母親、親せきを告訴し、
陪審員の刑事裁判で有罪を宣告され
多くの人たちが刑務所に服役しているということが起きました。

この記憶をよみがえらせるカウンセラーが
ラディカルフェミニストのカウンセラーで、
これを記憶の科学の観点から批判したのがロフタス博士で、
そのロフタス博士を批判したのが
われらのハーマン先生たちという
こういう人間関係になっているようです。

日本の刑事訴訟法では考えられない
被害者の不確かな記憶で、処罰されるということが
アメリカでは横行していたようです。

この本を読むと、なんて不合理なことが起きているのか
1歳半の時の記憶で、無実の善人が服役することになるし
日本ではそんなことは起こりえないだろうと
普通の方はそういう感想をお持ちになるでしょう。

私は違います。
このような不合理が形をそのままに日本でも横行しているからです。

この本の冒頭、日本語版の序文の最初にはこう書かれています
「問題を抱え、うつ、不安、または神経過敏を訴える人が、カウンセラーに助けを求めます。するとしばしば最初の面接で、カウンセラーがこう尋ねます。「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは子どもの頃、虐待されたのではないですか?」たとえ彼女が否定しても、問題の背後には虐待があると、強く信じ続けるカウンセラーがいます。そして度を越えた「記憶作業」が行われることもあります。」
「子ども時代や思春期は比較的幸せだったと考えていたとしても、同様のことは起こります。そして患者のなかには訴訟を起こす人も現れ、法律家が参入してきます。新しい記憶が『奇跡のように』現れることすらありました。」

冒頭の1頁を読み終える前に、衝撃の連続を体験しました。
これは現代日本においても行われている!
単に幼児期の性的虐待から
DVに代わっただけの話です。
「あなたはDVを受けています」とご宣託をするのが
カウンセラーではなくて行政やNPO法人という違いもありますね。

過剰なDV保護がラディカルフェミニストによってなされることは
アメリカの幼児の性的虐待の焼き直しだったということです。

科学的な道理をもって批判したロフタスに対して
ラディカルフェミニストたちの感情的な批判が行われ
ロフタスの話が影響を持ってしまうと
「これまで女性たちが築いてきた歴史が台無しになってしまう」
という批判までありました。
共同親権に対する日本のラディカルフェミニストたちの発言と瓜二つです
これを21世紀になってそっくりまねているわけです。


さて、私はハーマン先生が未だにもちろんわが大恩師だと思っています。
それでもハーマン先生はロフタス博士をラディカルフェミニズムの立場から批判しています。
これはどういうことだろう。私はどう考えるべきか。
ということを真剣に考えてしまうわけです。

しかし、幼児期虐待の話では、どうもハーマン先生に分が無いようです。

<治療者のアプローチの限界と弊害>
一つにはハーマン先生は、
精神的不安定な女性たちを治療するという立場を貫いているということが言えるでしょう。
「治療という観点からは、その女性たちが言っていることが訴訟法的に立証されようとされまいと寄り添ってケアしなければならない。」
こういう考え方のようです。
治療の過程の中では、いちいち発言者の発言を疑わないで支持的にアプローチすることが必須なことはあるでしょう。

しかし、その女性の発言が正しいということを前提に女性の行動を援助してしまうと
例えばやってもいない幼児虐待を娘から告発される父親のように、精神的大打撃を与えられ、自死に至るという例も当然あるわけです。
許されない部分もあるはずだと思います。

でも実はここは、ハーマン先生や、ラディカルフェミニズムという思想の問題ではなく、どうやら「治療者の限界」という一般的問題のようなのです。
高名な心理カウンセラーの先生が(これまだ大恩師)、知人のカウンセリングを施術されていたことを知る機会がありました。そのクライアントは、なぜそのような精神状態になったかについて大事なことをカウンセラーに秘匿したまま、周辺事情ばかりを伝えていたようです。そのため、カウンセラーは判断を誤ってしまい、クライアントの身近な人に精神的不具合の原因を求めてしまったということを見ています。身近な人も知っている人なので、その混乱や苦悩を目の当たりにしたという体験があります。
その他、事件を通じて医師の態度も同様なことをたびたび感じています。
つまり、熱心な治療者は、患者の回復にしか興味がなくなるようです。
患者の回復にとって必要があれば、患者の周囲に対する医原性の侵襲を顧みることが薄れるようです。

弁護士というか、対人関係紛争の調停の場合は、
一方のクライアントの利益ばかりを強調すると結局みんな損をしますから
対人関係の相互作用ということを強く意識しなければなりません。
また、まともな弁護士は(法律を知っている弁護士は)
落ち度がない者が不利益を受けることは許されないという考えになっていますから
自分の依頼者の利益のためだからといって
他者に不合理な不利益を与えることを良しとしてはならないのです。
但し現実がどうなっているかを考えると暗澹たる気持ちになるところです。

<身近な人からの虚偽虐待こそクライアントを壊滅させる>

ロフタス博士の本では、
治療のために虚偽記憶を掘り起こした結果
クライアントの症状が悪化して取り返しのつかないことになる例が紹介されています。

これが当然なことだということが今回はっきり認識できました。
ハーマニストの私なら簡単に説明することができます。

ハーマン先生の名著の中でも最も感銘を受けた部分です。
孤立の害悪を論じられたところです。
75頁
外傷事件は「自分以外の人々との関係において形成され維持されている自己」を粉砕すると言っています。
「人間は、単一で生きているわけではない
自我といっても、自分を取り巻く他者との中で自我が確立される。
自分大切な他者とのかかわりを断ち切られることは
その人にとって極めて深刻な影響が生じる。」
という意味だと思います。
これは対人関係学の名称にも影響を与えた
私にとってとても大切な部分です。

幼児期の性的虐待というありもしないことが「ある」
ということになってしまうと
特にそれが両親や兄弟だとすると
「自分」というものの存在そのものが虚構だったということになるわけです。
本来、最も自分をフォーローする人間がいて
人間というものは信じて良いもので、頼って良いものだ
という人間らしい記憶が
自分の存在を否定する危険な存在だという記憶に代わるわけです。

精神的によって立つ基盤が失われるわけですから
自我が崩壊していくことになるのはよくわかります。

幼児期の虐待が、少なくとも真実でない場合、
これを真実だとしたうえで支援をすることは
犯罪的行動だと思います。
冤罪的に不利益を受ける家族もそうですが、
何よりもクライアント自己同一性を崩壊させるという
取り返しのつかないことが起きるからです。

支援の文脈で考えなければならないのは
医師やカウンセラー、行政やボランティア、そして弁護士は
その人のコミュニティーの一員ではない
ということです。

本来その人が生きていくコミュニティーを強化することこそ
クライアントのためになることだと私は思います。

それがなく、その人の自我を形成した人たちを攻撃することは
単なる自己満足の行動だと考えるほかはありません。

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