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被害者の心理2 被害者は自分で自分を追い込んでいく 過剰な被害意識に寄り添う危険性 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<性犯罪の被害者の場合>

例えば、性的暴行を受けた被害者は、本当はゆきずりの暴行であったにもかかわらず
加害者が自分の自宅や勤め先の住所、自分の行動パターンも全て調べ上げていると思い込むことが多い。
しかし、実際は、女性の少ない深夜に肌を露出させた服を着て公共交通機関を利用していたところを見つけて
降りて歩き出すまで後をつけてきたという事案だったりする。
そちらも気持ちが悪い話だと思うが、被害者の心理としては、
また同じ加害者から暴行を受けるのではないかという怖さがあったという。

女性が少ない深夜帯に肌を露出させた服装で歩かなければ、
少なくともこの加害者からは襲われないだろうということが真実である。
加害者は、顔とか身長などの被害者の個別性はあまり意識していなかった。

こういうと、「襲われた方が悪いのか」という批判が想定されるが
悪いのは当然加害者であり、処罰を受ける。ある程度の損害賠償も支払う。
しかしそれだけである。
一方被害者は、心の傷が重く、PTSD様の後遺症が残っている。
良い悪いで評価しても、被害を防止することはできない。
被害を防止するための実利的な議論を妨害することは有害であると思う。

被害者側の求めに応じて、加害情報を提供することも、被害回復には有効であることを学んだ。
被害を受けたことには変わりがないし、それだけで恐怖が軽減するわけではない。
しかし、実際の被害態様は被害者が想定しているよりも、
軽度なものであることを知識として頭に入れてもらうということが有効な場合もありそうだ。

<連れ去り被害を受けた夫>

連れ去り被害を受けた男性は強制的に圧倒的な孤立感を抱かせられる。
家族や子どもを奪われて、行政や警察からも敵対的な対応を取られるが
その原因が理解できないため強烈な被害者意識を持たせられる。

自分がいわれのない苦痛を受けている自覚が強烈にあるため、
加害者である妻は、自分を排除して
「子供や妻の両親たち」と、楽しく自由に過ごしているのだろう
と具体的な絵を想像してしまうようだ。

そういう加害者の楽しさを想像することによって
自分が強烈に排除されているという思いが増強していって
ますます孤立感を強めていき、ますます苦しくなるようだ。

しかし、実際は、連れ去り妻は、元々精神的に不安定で
理由もなく不安を感じる状態であることが多い
その不安の原因を夫に求めて連れ去りをしているわけだ。
しかし、その原因が本当は夫にあるわけではない
だから、別居をしても不安が解消されることにはならないことが多い
ありもしない夫の怒鳴り込みをいつも想定してビクビクしている
ということが多い状態である。

少なくとも、夫さえいなければみんな幸せという状況にはなっていない。

連れ去られた子どもたちの多くは、
1人にした別居親に対して、多かれ少なかれ罪悪感を抱いている。

しかし、被害者は、自分だけが苦しんでいるという想定をしてしまう。
相手が苦しんでいるということはなかなか想像することもできない。
あまりこの感情を追認してしまうと、方針を誤る。
相手と駆け引きをして、少しでも望む状態に改善してくという発想が
どうしても生まれないまま
100か0かという発想を持ち続けてしまう。
その結果、有利な事情を見落としてしまい、必要な手段を行使できない。
結局、いっても仕方がないことばかり言って、関係を悪化させていくことになる。

<DVを受けた妻たち>

DV被害を受けた妻たちは、
夫に対する抵抗力が著しく失われているため
夫が無敵の存在であり、どのように抵抗しても自分には勝ち目がないと感じている。
自分は夫の支配から逃れられることはできないのだと訴える妻が多い。
しかし、実際に夫と対峙すると、弱さを持った普通の人間であることがほとんどだ。

被害者は、自分の被害を実際よりも大きなものと感じる傾向がある
些細な刺激も、自分の存在を脅かすものであると受け止めやすい。
解決に向けた対策を立てようとせず、
どうせダメだろうと言うあきらめが先行してしまう。



全ての動物がそうであるはずだが、
自分の危険を感じた場合は、
危険を大きく把握した方が有利である。
危険を小さく把握してしまい、油断してしまうと
危険が現実化してしまう可能性が高くなる。
危険を実際よりも大きく想定して
想定した危険に見合った逃避行動を取る方が
危険が現実化する可能性が低くなる。
危険を過大視するのは、生き物の基本姿勢なのだと思われる。

本人がそのように危険を過大視することはやむをえない。
問題は、第三者が、本人の本能的なものの見方を追認してしまうことである。
もしその人が被害を感じているというのであれば、
本能的な危険の過大視を追認することは大変危険なことである。

冒頭の性的暴行に被害者の被害意識を追認して
「あなたは何も悪くない。犯人があなたの素性を調べ上げてあなたを研究して
あなたと言う個人を狙って犯行に及んだのだから
あなたは将来何も悪いところがないにもかかわらず、再び襲われる可能性がある。
だから犯人をできるだけ長く刑務所に入れるようにしましょう。」
と感情ダダ漏れの支援をした結果どうなるだろう。
当然それほど長い期間刑務所に入ることはない。近い将来釈放される。
被害者は自分を防ぐ方法がなく、恐怖は消えることがない。
家族を伴った遠方への引っ越しを考えることも実際はありうる。

これに対して、犯人はあなたがどこの誰だから分からなくて
その日、その時間があなたが目立った格好をしているだけで目をつけたのだそうだ。
襲った相手が悪いといっても仕方がないから
遅い事件一人でであることはやめるし、外を歩くときは肌を露出した格好をしない
どうしても遅い時間の帰宅の場合は、誰かに迎えにきて貰えば大丈夫
というアドバイスとどちらが精神的に救われるか
実務的には議論の余地がない。

それにもかかわらず、正義や支援の名の下に
客観的状況を超えた被害を追認して被害者が苦しめられていることが横行している。
支援者は自分の行動を振り返ることができない。
このように抉り出して説明すれば分かりやすいが
実際は、自分のやっていることがこういうことだという自覚を持つことができにくい。
正義感情が強すぎる稚拙さが目立ちすぎる。

連れ去り事案においても
妻の漠然とした不安を夫の行動を安易に結びつけてはならない。
確かに、妻の漠然とした不安を助長するような夫の行動がある場合もあるが
知識を授けることで、行動を改善することは通常大いに期待できる。

どちらが悪いというれベルから、家族が穏やかに幸せに生活するというレベルで考え、
相互に関係性を高めていくアドバイスこそするべきなのである。

逆に連れ去り妻に対して夫の怒りを代弁して攻撃し、
関係が修復するどころか、悪化していったら
真の被害者である子どもにとって取り返しのつかなくなる事態が訪れるだけである。

相手に対する攻撃を優先させるか
子どもの幸せのための行動をすることを優先するか
ということは常に問われなければならない。

支援というものは自己満足であってはならないし
誰かを支援することが誰かを傷つけることを正当化するものでもない。

支援の名の下に、あるいは正義の名の下に、
被害者の被害感情を拡大させることが目につきすぎる。

無邪気な正義感で人間の紛争に関わる仕組みは終わりにしなければならない..




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