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現代に受け継がれて私たちを今もなお苦しめる生きづらさの根源としての戦争という負の遺産 国策でつくられたジェンダー 目的遂行至上主義の由来と対極の価値観とは。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

つい76年前まで日本は戦争をしていました。戦争というのは、戦争をする人たちだけが闘うわけではなく、国を挙げて戦争を遂行する態勢を作らなければなりません。表立って戦争に反対できない状態を作ってこそ、国家として戦い続けられるわけです。
この戦争態勢づくりは、明治政府によって周到に準備されました。富国強兵政策を徐々に国是として浸透させていき、他国に戦争で勝つということを多くの人たちの共通の価値観にすることに成功しました。この価値観は、軍隊の仲だけで成立するものではなく、家庭や職場、地域など、様々な人間関係の中で戦争体制の価値観づくりをする必要があり、実際にそうしていました。
戦争の価値観とは、突き詰めれば敵に勝つということでしょう。敵に勝つためには、合理的な作戦をたて、軍隊が作戦の元に統一した意思の下、無駄な行動や自分勝手な行動を行わず、上司の命令に忠実に行動を行うことが必要です。このために厳しい上下関係があり、下の者が上の者の意見に逆らうことは厳禁でした。軍隊の対人関係は、下の者は命令通りコマとして動くという関係とも言えるでしょう。
この観点から否定される考え方として、下の者が自分の頭でものを考えて行動する自由、目的と関係の無い娯楽を楽しむこと、目的遂行よりも仲間の笑顔を大切にすること、安心して緊張をしない人間関係、多少の命令違反行動、自分の体調や感情を優先すること等はすべて否定されるわけです。また、いちいち上官が部下の行動に感謝したり、自分の間違いを謝罪したりすることは、むしろタブーだったのでしょう。身分にそった関係を維持することが命令を遂行するために必要だとされたのだと思います。
このような戦争遂行の価値観は、次第に家庭や地域に浸透していったようです。それまでの夫と妻の関係が役割分担から上下関係になっていったのも、富国強兵政策からではないでしょうか。童話も、立身出世や悪い敵は殺されるべきだという勧善懲悪というものばかりになっていったようです。「貞操」という観念も、自然な愛情にもとづくものではなく、兵隊さんが安心して戦うための道具となり、姦通罪という罪が設けられました。
戦争遂行の価値観は目的遂行至上主義的な価値観だと言えるでしょう。これと対立する考えは、仲間の和、協調至上主義とでもいいましょうか。外向きの目的ではなく、内向きの目的と言っても良いかもしれません。目的を何も持たないというところでは、あまり価値観と呼べるものはないのかもしれません。
この戦争価値観は、1945年まで作られ続けました。敗戦と同時に一挙に崩れたと多くの人たちは考えたことでしょう。
しかし、人間の考え方、行動様式、社会の仕組みは、戦争が終わったからといって、簡単に変わるものではありません。例えば戦後直後の闇市時代は、生きていくという最低限の目的すら容易ではなかったことから、生きていくという目的遂行主義的な価値観が支配していたのではないでしょうか。この時仲間を脱落させないで協力して生きていこうという価値観もありえたのでしょうけれど、戦争的価値観の残存によって、自分が生きるためになりふり構わないということが否定されなかったという側面があると思います。ここでいう「生きていく」というのは、生物個体として生命を維持するという意味です。生きていくためなら、法律を守らないということが、非難されることはなかった時代です。こういう時代を経験したことも、日本国民にとってとても不幸なことだったと思います。ルールを守らないことを誰からも非難されない時代は社会秩序の観点からは深刻な影響を与えたと思います。
大きな目で見ると、戦後の荒廃から復興をするために、客観的にはやるべきことが多くありました。日本を復興させるという目的遂行に大きな価値観をおかれました。一方で高度成長経済に向かうために、職場の中での目的至上主義は形を変えて継続したのだと思います。戦争的価値観が素地となったことから、すんなり受け入れられたという側面があるはずです。利益を向上させるために、個人の自由を犠牲にすることが、多くの人に当然のことだと受け止められたものと思います。高度成長までは、目的遂行価値観の下で身を粉にして働いたのですが、敗戦直後を基準として考えた場合、目に見えて生活が向上してきたわけですから、その価値観をだれも疑わなかったでしょう。
では、家庭はどうだったのでしょう。
明治の富国強兵から終戦まで、家庭も徐々に戦争遂行のためのツールと位置付けられていったと思います。明治以前は、あまり男女の風俗には違いがなく、上流階級や都市部を除くと、服装も髪型も男女という区分けがそれほど厳密ではなかったようです。明治初期に東京市など各市が定めた違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)というものがあり、女性が男性の服装をしてはだめだとか、女性は散発をしてはだめだとか、主に外国人の目を気にして、庶民の生活様式に干渉を始めました。これを裏から見ていると、庶民の中では、それほど女性らしさというものに価値観をおいていなかった様子が見て取れます。また、江戸時代には「女大学」なんて文章もありました。いわゆる女らしさとはこういうものだからこうしろという内容です。これも裏から読むと、そんなことが女らしいという共通の価値観はなく、女性らしさに縛られない女性の生活様式が是認されていたから、これを改めて女性らしさのある生活にしろと言わざるを得なかったということなのだと思います。
女性が男性より一歩引いて男性を立てるという行動様式は、考えてみれば不自然なことです。いろいろな男性がいて色々な女性がいるのですから、女性が主役の家庭があってもちっともおかしくないわけです。どういう家庭を作るかは各ご家庭が決めればよいことです。実際にもいろいろな家庭のスタイル、人間関係があったことだと思います。また、武家以外は、男性と女性にそれほど就労形態に差があったわけではありませんから、自然な形では、ステロタイプの男女差は生まれにくかったはずです。家事も重労働だったし、時間がかかることでしたから、家事労働は今よりも格段に高い価値が認められていたはずです。
男性に一段高い地位を与えたのは、国策だと思います。これによって男性に、家の代表という意識を植え付けることになったはずです。それは次第に、家庭を守るのは男性の役割だという意識付けを与え、それから家族を代表する社会の一員という意識付けを与え、国を守るという意識付けを付与させていったのではないでしょうか。すべての男性が、プライドを持たされ、戦う兵器に作られていったのだと思います。男性であるから、大きな視点を持たなければならない。社会のために、国のために役に立とうとしなければならない。立身出世を目指さなければならない。それは自分が貢献して戦争に勝つことだということです。こんな発想が自然発生的に生まれるはずがないと、現代に生きる私は思います。男性は血筋を残す存在から、兵隊としての任務を遂行する存在に位置付けられ、女性は男性を強い戦士にするという役割を担わされたのではないでしょうか。男尊女卑という明治以前の一地方の風習が、日本全土で強制されるようになったわけです。
例えば職場で、戦争価値観が形を変えて残存したように、家庭でも戦争価値観がそれほど簡単に消えたわけではないと思います。男は強くあるべきだ、泣くような子は男ではない、男は弱音を吐かない、すべて戦争遂行に都合がよい価値観です。戦前に生まれた親たちは、どこか戦争価値観の影響を受け、教育をはじめとする行動様式に、男らしさ女らしさを良しとしてきたはずです。
このような変化は、時代の社会構造を反映しているもので、社会構造との不具合が顕在していく中で消滅していく運命にあるわけです。1945年に戦争が終わりました。10年余りは復興のために目的遂行至上主義のもと戦争価値観を利用して国民は働きました。その後戦争価値観は高度成長期を可能としたわけです。男性が外に出て働いて、女性が家を守る。男性は猛々しく7人の敵と戦うべしということでしょう。
しかし、同時に変化も生まれてきました。女性の社会進出です。もともとテストとか就職試験の解答能力に差があったわけではありませんから、目的遂行主義的な男女観さえなくなれば、女性がどんどん進学するようにもなりますし、消費のために働いて収入を得る必要も高くなります。学校でも男女平等が進められますから、どうしたって、男性だからと言って立てられる必然性が無くなります。女性の猛々しさやリーダーシップを発揮することに、国家がストップをかけるということもなくなりました。また、高度経済成長の時代にあった働きに応じて所得を得るという実感が、高度成長期の終わりころから無くなっていくわけです。見返りが乏しくなったのに、これまで通り働くのは馬鹿らしくなるわけです。目的至上主義が国民全体の価値観だったのに、自分には何のメリットもないということが少しずつ浸透していくのは必然でしょう。バブルも、特殊な業界だけが恩恵を受けて、また、努力や勤勉さとは関係の無いところばかりが特別に潤ったということですから、目的至上主義に基づく勤勉な就労は魅力がなくなったはずです。
目的至上主義が国民から遊離してきたと同時に、男性だけの就労では国民の大部分が望む生活が不可能となりました。女性も安い賃金をいとわず働かなければならなくなりました。男性がリストラにあい収入が無くなり、女性の収入で一家が生活をするということもそれほど少数の話ではなくなります。
ここで一気に男性を立てるという行動様式の意味が失われてしまう社会構造がととのってしまったということなのではないでしょうか。子ども向けの娯楽が、戦前の立身出世、勧善懲悪の絵本から、戦後は正義を口実とした人殺しの戦隊ものという勧善懲悪に変わり、バブルの崩壊とともに女性の戦隊ものという勧善懲悪噺に変わっていくのは、社会構造をきれいに反映させているように思われます。
家事事件などに携わっていると、夫婦の親たちの間にこの戦争価値観に基づく家族形態の争いが起きているように感じることがあります。男性の両親は嫁に立てられない息子はとても不憫だと思う一方、女性の両親は女性だからと言って家事などを押し付けられることは不合理だと思い、本当は当事者にとってはどうでも良いことなのに、それぞれの価値観を押し付けて対立をあおる。こういう図式による離婚事件がしばしば見受けられます。二人はどっちでも良いですし、徐々に合理的な形に収れんされることなのですが、わが子のことだということでムキになるわけです。
もし、男をたてない家庭で寂しい思いをしているということであれば、それは無駄に寂しくなっているということになります。要するに一世代前に合理性があった、戦争遂行という観点からの合理性があった価値観の残存物に縛られているということが実態だろうからです。しかし、戦前に生まれた親の子である私たちの年代では、価値観がどこかにしみついていて、感情的反応が起きてしまうことはあり得ることです。
このように、家庭内においても、男女の役割観というものが、戦争遂行のための作られた価値観ということで作出され、戦争が終わってから80年近くが経とうとした現在も、その合理性が無くなったにもかかわらず、価値観の残存物があり、影響を与えて続けているのだと思います。戦争の価値観というものは、男女の問題や軍国主義や国家至上主義というような政治的な様式や政治的な価値観だけにとどまらない幅広い構造を持ったものなのでしょう。反戦活動というと、政治構造や政治的イデオロギーに目を向けがちですが、家庭や職場、あるいは学校教育やスポーツの中に形を変えて生き続けているということになかなか目が届かないようです。私たちの考え方や感情に影響を与える戦争価値観についてはもっともっと分析が必要だと思います。ブラック企業や非正規雇用、リストラや成果主義的賃金体系等は、私はこの戦争価値観をスライドさせて利用していると考えています。学生生徒の部活動や受験競争等はとても分かりやすい戦争価値観由来の目的至上主義ではないでしょうか。未だに他者を攻撃することが目的達成のために必要不可欠な方法論だということが社会の中で無意識に是認されているように思われます。これが現代社会の生きづらさの根源にあると私は考えています。
現代においてもなお、外に向けた目的だけが目的として是認されてしまい、仲間と協調すること、安心できる仲間づくり、緊張感を伴わない仲間づくりという、外向け目的至上主義の対極にある内向き目的主義的な価値観が、未だ価値を認められない状態に取り残されていることが大問題だと思うのです。その理由は、国策でつくられた戦争遂行のための価値観についての分析が行われないところにあるのではないでしょうか。そしてその価値観に基づいて、幸せになる、楽しく生きる、充実した人生を送るということに価値が認められない。そういう価値観の在り方を放棄しておいて、戦争にだけ反対するということだけを推し進めるといっても、幸せな楽しい充実した人間の在り方には近づかないでしょう。新たな緊張が拡大再生産されるだけではないでしょうか。
もう一つ、この生きづらさを戦争遂行のための国策で作った価値観の残存物だという考えが正しいとしたならば、それを是正する方法も見えてきます。これと違って、現在の生きづらさは人間という生物に不可避的に備わった負の性質にもとづくものだと考えてしまう場合は、人間集団の再構築は不可能な幻想だということになるでしょう。同時にそのような考え方は、戦争価値観をスライドさせて利用して私たちを苦しめる制度に対して根源的批判ができなくなります。これは、戦争遂行価値観を利用して利益を上げている構造に目隠しをするということですから、彼らにとってはとても都合の良い主張だということになるでしょう。
日本を動かしていると自負している人たちには考えてほしいところです。戦争は長期化すると民は疲弊してしまい、勝っても負けても深刻な影響ばかりが残ってしまいます。戦争により疲弊する理由は、人間は緊張感を長期間保つことを予定していない動物だということにあります。戦争価値観によって、緊張感の持続を強いる社会は、やがて疲弊して滅びてしまうでしょう。未来に明るい希望を持たない若者たちばかりになると、国家は著しく衰退するでしょう。また、国民の不満、不安の蓄積は、現状が維持されなければそれでよいという、不安解消要求を招き、とんでもない人たちが政権をとる可能性があることを昨今の選挙では目の当たりにしているところです。
国民の緊張を軽減させ、孤立を解消させ、家庭、職場、学校、地域の仲間づくりに価値をおいた価値転換が図られるべきだろうと私は思います。

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