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【家族擁護主義宣言】 現代日本の社会病理の理由と人間を守る家族というシステム [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 現代日本の社会病理
  <攻撃、不安、不寛容、緊張、一時しのぎ>
  現代日本を特徴づけている、いじめ、虐待、パワハラ、DV、子の連れ去り、ネットいじめ、セクハラ等各種の社会病理がなぜ起こるのかということの検討をします。まず結論です。
  理由の1つは、攻撃者が、攻撃とは関係のない不安を抱えているということ、そしてその不安を一時的にも感じなくするために誰かを怒りをもって攻撃するということです。
  理由の2つは、攻撃者は反撃を受ける心配が少ないという事情があるということです。その事情としては、攻撃者が自分が誰であるかを明かさない攻撃手段を持っていることや、被害者に反撃をすることができにくい事情があること、あるいは、「世間的に」被害者が攻撃を受けても仕方が無いという評価を受けていることです。

2 怒り攻撃と不安
  怒りをもって攻撃をすると不安を感じにくくなるメカニズムは実に簡単です。
  人間は同時に違った感情を持つことができないということです。一方で不安を感じていながら、同時に怒りを持つということは苦手です。一度に一つの感情を持つしかできないのです。
  だから、進学の不安、リストラの不安、収入の不安が慢性的にあったとしても、誰かを攻撃しているときは、この不安が一時的に感じにくくなるわけです。不安が慢性的に持続すれば持続するほど、何とか不安から解放されたいという要求も強くなります。誰かを攻撃することで、一時的にも不安を感じにくくなることは、一時の清涼剤になります。これを覚えてしまうと、麻薬のように、一時の解放を求めたくなり、誰かを攻撃したくなるという心理的変化が起きるようです。

3 怒りは弱い者に向かう
  例えば、会社で上司からパワハラを受けても、上司に対して怒りをもって攻撃するということは現実には難しいです。パワハラを受けて感じる不安には、このままいけば解雇されるのではないかという不安が伴っているわけですから、上司を攻撃すれば解雇されるだろうということは単純に考えてもわかりますので実際にはできません。この不安解消のための怒りは、自分の部下、家族、劣位の取引相手、サービス業の従業員、社会的な少数者、孤立者等に向かうのはこういう仕組みです。もっとも、何らかの怒る事情はあります。しかし、不安が無ければ、何も感じないような相手の些細なミスや不十分な能力等口実を作って怒りを爆発させます。ただ、弱い者に怒りが向かうということには例外があって、仲間を守るために怒る場合は、相手に勝てるか否かという基準は無くなります。不安が慢性的に持続すると、怒る口実と怒る相手を探しているような感じになるわけです。

4 つまり自分が反撃されない状態を作り安心して攻撃する
  弱い相手に八つ当たりをする理由は、自分が反撃されて痛まないためです。そうすると、先に述べた人間感情の優位を利用する場合があるのはわかりやすいと思います。また、攻撃はするけれども、自分が誰かを明かさない形で攻撃すれば反撃を受けにくいということになります。ネット炎上は匿名性を武器にして行われているわけです。
  また、相手を孤立させて攻撃するという方法がとられます。いじめという行動はこの典型的な場面でしょう。多数対少数であれば、反撃を受ける心配はありません。差別も突き詰めればこの仕組みだと考えています。

5 社会が「弱者」を作り出す 怒りの口実
  怒りを向ける口実というのはどうしても必要なようです。人間は口実がなければ怒りを感じることができないようです。家族や部下などは些細な口実で怒りを向けます。例えば、何らかのミスをしたとか、些細な道徳違反、例えば仕事中にスマホが鳴ったこととか、勉強をしないで眠ってしまったとか、忘れ物をしたとか一応の口実はあるようです。これも、八つ当たりをする人間だけでなく、社会全体が厳しくなればなるほど、怒りの対象の口実にもなりますし、怒りの程度も大きくすることができるようになります。例えば、昔ならば、勤務中のちょっとした息抜きで前日の野球の結果等を言い合ったりすることがそれほど不道徳とは思われていませんでしたが、最近は勤務中の私語は禁止されるようになっていますから、スマートフォンを私用で見るなんてことは、着信履歴だけでも怒りを向ける口実になるようです。
  これに対してネット炎上等の場合は、見ず知らずの相手ですから、本来何もその人が攻撃する理由はないはずです。しかし、例えば不倫、例えばDV、虐待、いじめなど、その言葉に対して過敏に反応して攻撃の材料、怒りの口実となるようです。特徴的なことは、実際に何があったかわからないということです。何があったかわからないけれど、DVがあったという以上は、過激な攻撃があったと決めつけ、子どもが泣き叫んでいたら虐待と決めつけて、正義の鉄槌を下すわけです。「DV」「虐待」「いじめ」という言葉が出てしまうと、正義を口実に、何があったかわからないにもかかわらず、攻撃してよいのだという意識をもつようです。この場合、正義は口実に過ぎないと思います。正義は、人間を、敵と決めつけても良いのだないし攻撃をしてもよいのだと思わせる闘いのための口実として機能しているのです。
  多数を形成して相手を孤立させる場合も、この正義がしばしば使われることを目撃しています。部活をさぼる生徒は攻撃しても良い、受験をしないから勉強をしない子どもは攻撃しても良い、1人だけ財産があるとか、才能があるとか、美貌があるとかいう子は他人を馬鹿にしているはずだから攻撃しても良いなどのいじめの口実が、正義と結びついて怒りの口実を正当化していることを目にすることがありました。
  国籍差別では差別者は少数者ですが、差別者のコミュニティーでは多数派になります。攻撃や怒りが相乗効果で生まれますし、何らかの「正義」が導入され、ヘイトスピーチが生まれているのではないでしょうか。

6 執拗に繰り返される怒りの行動の構造
  怒りは、怒っているときだ、他者を攻撃しているときだけ不安を感じにくくするだけなので、怒りが収まったり、行動が収まったり、一時的な多数派が解散したときは、また不安がぶり返してくるわけです。不安の根源が無くならない限りは不安は消えません。
  不安を感じにくくしたいという要求もまた、その都度生まれます。一時的に不安から解放された快感は記憶に残ります。そして正義の口実も記憶に残ります。自分の怒りの行動を反省する契機はあまり存在しないという事情もあります。不安を感じなくするために何度も怒りの行動に逃げていく傾向にある理由はわかりやすいと思います。いじめも差別もパワハラ、虐待も執拗に繰り返されることになるでしょう。怒り依存とでもいうような状態かもしれません。

7 不安とは何か
  それでは元々あった不安とは何でしょう。
  これは、人それぞれ不安の原因は違うのではないかと仮説を立てることは容易です。職場の問題、学校の問題、家族の問題、その他の人間関係の問題、あるいは健康面での問題もありますし、不安を生み出す病気にかかっていたり、薬の副作用で不安がうまれたりすることもあるでしょう。
しかし、これだけ他者への攻撃行動、怒りの感情が社会にありふれているということは、人の個性を超えた何らかの共通する要因があるのではないかと考えるべきではないかと思うのです。社会に存在する不安を起こさせる共通の原因があるのではないかと考えるのです。
  不安を感じるとは、自分に対する危険が迫っていることの心理状態であり、生理的変化も起きています。この危険の典型は身体生命の危険です。しかし、身体生命の危険が、最近著しく増加したと考えることは難しいのではないでしょうか。今回は他に探してみます。不安症という精神疾患も考えるべきですが、これは理由なく増大したというよりも、社会的要因が先行して不安症にかかりやすくなっているという関係にあると仮定して、これも検討から外します。そうすると、不安とは、自分が属している人間関係から排除されるのではないかという対人関係的な不安が増大したのではないかと仮定してみます。自分が属している人間関係とは、社会、職場、学校、家族。趣味のサークル、ママ友等々のなどの人間関係を念頭に置いています。ここから排除されるのではないかという予期不安を排除の予期不安とこれから省略して述べていきます。現代日本の他者に対する攻撃、怒りの感情が増大したのは、このような排除の予期不安を感じやすい社会の在り方に原因があるのではないかという考えです。<対人関係的不安仮説>

8 排除の予期不安の由来
  排除の予期不安というシステムも、人が生きていくために進化の過程で獲得したシステムだと私は考えています。
人間は、文明成立以前は特に、群れを形成しなければ自分を守ることも食料を獲得することもできず、絶滅するようなひ弱な生き物でした。生き延びるためには群れをつくらなければならない。しかし、文明成立以前に言葉もない時代ですから、現代のような法律や道徳を作ることはできなかったでしょう。しかし、排除の予期不安を感じるという遺伝子上の仕組みがあれば、言葉が無くても群れをつくることは可能だったと思います。
自分が排除されそうになったときに不安を感じれば、不安を回避しようとする行動を起こすことができます。何とか群れにとどまるように仲間に行動で示すことができたわけです。自分だけが食料を確保して仲間に平等に渡さなければ、仲間から白い目で見られたり、攻撃を受けたりするわけです。そうすると、今この食べ物を食べられなくなるという不安と、仲間から排除されるかもしれないという不安と両方を天秤にかけるわけです。これは無意識に行われたのでしょう。どちらかというと排除の不安の方が、より行動原理となったとすれば、自分の本来の分け前を残して、あとは仲間に提供するという行動ができるわけです。排除の予期不安を感じるためには、他者の心理の洞察や将来的因果関係等をある程度理解しなければならないことになるのではないでしょうか。
実際は、自分だけ多くの食料を獲得した後に行動を修正するというよりも、自分だけズルいことをして食料を確保してしまうと、排除されることになるので、予めそれをしないという形で機能していた方が多いのだろうと想像しています。

9 排除の予期不安が起きるとき
排除の予期不安とは、このように将来の排除を予感させることで不安が生じるということです。実際に排除されたら仕方が無いと開き直ることもできるし、そうするしかありません。おそらく、不安が強まるのは、現実に排除を言い渡されるよりも、排除を言い渡されるような事情に直面したときだろうと思われます。
このような将来の排除を予感させる事情としては、仲間でいる資格が無いと仲間から低評価を受けることです。低評価がなされるきっかけとしては、自分の失敗、自分は特定の能力上の弱点、何らかの不十分な行動があったことが考えられます。「失敗して仲間に申し訳がない。」、「仲間の役に立たない自分が辛い。」という自分の行動に対して仲間の低評価を予想してしまう場合と、自分の失敗などのあるなしにかかわらず、仲間の自分に向けた感情、攻撃など仲間の自分に対する反応から低評価を受けていると感じる場合と二通りあると思います。
こうやって人間は、身体生命上の危険が無くても、自分が失敗することを恐れ、能力の向上に努め、十分な行動をしようと心がけますし、仲間を無駄に攻撃して怒らせないようにしたり、仲間の役に立とうと頑張ったりするわけです。すべては仲間としての低評価を受けないための行動原理だとまとめることができるのではないでしょうか。もっともそれはあまりにもプラグマティックな表現です。観点と表現を変えると、仲間に寛容になったり、仲間の役に立ったりすることに喜びを感じていたと表現することもできると思います。

10 不寛容の常態化と低評価の横行
人間は、仲間からの低評価によって不安を抱きやすいという特質があるにもかかわらず、現代社会の様々な人間関係において、低評価が横行しているように思われます。まず、個人の失敗、弱点、不十分点に対しては極めて不寛容です。人の個性を否定して、会社は画一的に確実な業務の遂行を望みますし、学校や家庭は学業の到達に大きな価値を子どもたちに押し付けてきます。ちょっとした失敗でも致命的なものとなり、一生涯影響を受け続けるということが多いような気がします。ちょっとした失敗で、進学をあきらめざるを得なくなったり、安定した生活を送れる企業に入れなかったりするわけです。安定した企業に入るためには、ちょっとの失敗も許されないという言い方も可能でしょう。企業に入っても、毎年一度ないし数度、人事評価の対象となり、そこで最低ランクを続けるとやがて企業から排除される危険が高まります。しかも一定割合の人間が確実に評価される仕組みになっていれば、自分の評価が最低ランクとされるのを免れるために、自分より劣るものが劣っているというアッピールをする必要もあるでしょう。安心して仕事をすることができず、評価されやすい行動ばかりを行うことも自然なのかもしれません。毎日が闘いともなれば、自分も敗れるリスクがあります。自分を評価する上司の言動は特別な意味を持つことになり、過剰に反応していくことになるでしょう。こういうぎりぎりの精神状態を押し付けられてしまうと、人間は確かなものにすがりたくなるようです。合理性の追求、正義の厳守等ルール化が厳格に守られることによって自分を守ろうとするわけです。
そして、このような社会に子どもたちを対応させるために、子どもの時間のほとんどを勉強や、推奨される遊びに費やさそうとするわけです。子どものわがままを聞いていたら子どもが脱落してしまうと思えば、子どもに対して寛容な態度はなかなかできなくなるでしょう。また、不合理なことや些細な正義違反に対しても、過敏になっていますから、不寛容になるのだと思います。
これらの事情が現代社会の特徴を形成しているのではないかと思います。多少の失敗、多少の弱点、多少の不十分点は人間である以上必ずあるものです。また、人間が画一的な能力、性格を持たず、様々な人間がいたために、社会は守られてきたと私は考えています。ところが現代社会の人間関係は人間である以上当然にあるところの、失敗、弱点、不十分点を見逃さず、それらを厳しく指摘して低評価を行い、不利益を課し、利益を奪おうとしているように感じます。だから、多くの人が、その仲間、自分が所属したい人間関係から自己に対する低評価を理由として追放される危険を現実のものとして認識し続けることが蔓延しているわけです。そうすると、ほとんどの人間が慢性的に何らかの排除の予期不安を慢性的に抱えていることになるのではないでしょうか。仲間の役に立ちたいという人間の本能は前面に出てこずに、低評価を避けたいということが最優先の行動原理になるということなのだと思います。
こうやってつくられた慢性的不安、排除の予期不安は、社会構造がそのようにつくられていますから、合理的な解決方法がなかなか見つかりません。逃げ場を失った不安は、自分より弱い者を探し、怒りの口実を探し、怒りの方法を探し続けることになります。攻撃は頻繁に繰り返され、攻撃の程度は強くなる傾向にあり、陰湿になっていくわけです。
これが、先に上げた社会病理が蔓延している根本的な原因だと思います。

第2部 現代の社会病理発生の根本理由
  <人間の能力と社会という環境のミスマッチ>
11 能力と環境のミスマッチ
昭和、平成、令和と3時代の労働現場、学校現場などを見ていると、その変化は不寛容と他者に対する低評価が増大したのではないかという感想を持つわけです。本来もう少し社会分析をするべきところですが、私はもう少し原理的観点から、「人間の脳と人間関係という環境のミスマッチ」という視点でアプローチをしてみます。このミスマッチが現代日本で増幅されるようになったという事情があれば、社会的分析にも貢献するはずです。
  人間の能力と人間関係という環境のミスマッチとは、人間の脳は、現代の社会環境に適合してはいないということです。人間の脳が形成された時の社会環境には適合していたが、その後の社会の変化によって現代社会に適合しなくなってしまったということです。

12 人間の脳が適応していたころの社会
  人の脳が形成されたのは、人類がチンパンジーの祖先と別れた約700万年前から始まり、人間が分化しきった200万年前ころだとされています。頭蓋骨から推測できる脳の容量に変化がないため、その後はほとんど脳は進化していないだろうとされています。人間の脳は、その200万年前から文明が成立する以前の社会環境に脳は適合していたことになります。その時代は、狩猟採取時代といい、今からおよそ1万年前まで続いていたとされています。つまり農業が営まれるようになるまでということです。現在まで人類が生き残った理由は、脳が200万年前頃から1万年前ころまでの人間の住んできた環境に適合してきたからだということになります。
ところで、その狩猟採取時代の環境とはどういうものかということですが、人間は狩猟採集を基本として生活し、約30人の小さな群れをつくり、その群れが数個集まって大きな群れをつくり、その対人関係がほぼすべてという生活をしていたらしいです。大きな群れと言ってもせいぜい200人弱、150名程度ではないかということが、霊長類の大脳皮質の研究から算出されています。生まれてから死ぬまで、原則としてその高々200人の群れだけで生活していたということになります。
  狩猟採集時代の人の群れは、頭数(あたまかず)が減ってしまうと途端に弱くなります。食料を獲得する場面では、多人数で小動物を取り囲んでどこまでも追い詰めていくという狩りの方法をとっていたため、頭数が減ってしまうと獲物の獲得可能性が低下してしまうという不具合があったようです。また、肉食獣などの外敵からの攻撃に対しては、反撃する頭数と仲間を守る勇気だけで対抗していたわけですから(袋叩き反撃仮説)、群れの頭数が減ってしまうと途端に弱くなります。一定程度以下の人数になってしまうと、その群れは食糧もなかなか取れないし、外敵に襲われるとほぼ確実に一定数死んでしまうわけですから、頭数が減少していって消滅していくしかなかったのです。
頭数を減らさないための最も効率よい考え方は、自分が群れにとどまろうとするということと、「群れの中の弱い者を守る」という行動パターンです。今でも、サークル勧誘などで見られるむやみやたらに仲間を大きくしようとする行動や、小さくて弱い者は「かわいい」と感じて、守りたくなる意識を持ってしまうことはどなたも経験があると思います。いまだにその遺伝子は継承されているのだと思います。
  また、生まれてから死ぬまで、仲間は顔見知りという環境でした。仲間という意識が生まれ、1人の仲間をすべての仲間で守ろうとしていたシステムを作動させるツールになったのが、個体識別により仲間だと認識する能力と中に対して「共感」するという能力です。いつも一緒にいる仲間ですから表情から仲間の感情がはっきりわかります。仲間が悲しい表情をすると自分も悲しくなり、何とか明るい気持ちにさせたいと自然に思ったでしょう。失敗や能力の未発達は、その仲間の個性であると自然と受け止めますから、失敗や能力を理由として叱責するという発想すらなかったでしょう。すべてにおいて寛容であり、すべてを受容していたはずです。そうではないと群れが維持できず、人間が滅びているはずだからです。誰かを排除するということは、おそらくめったにはなかったものと思われます。排除しようという発想すること自体がなかったのではないでしょうか。仲間は生まれてから死ぬまで一緒に生活するものということが自然の意識だったと思います。現代社会の我々からすると、200万年前の仲間の中では他人と自分の区別がそれほど明確ではなかったと考えるべきかもしれません。
  文明の無い時代ですから、1人でいると人間は恐怖を感じたでしょう。少人数の場合でも危険を意識せざるを得なかったと思います。群れは狩猟組と子育てや食物採取をする留守番組と二手に分かれて行動したとされています(狩猟採集時代)。狩猟組が外敵等の危険と闘っている時は獲物をとるため必然的に外敵の危険が高まっています。また狩猟組が留守で採取組が留守番をしているときも、守り手が少なくなるわけですから外敵から襲われるという身体生命の危険が発生するわけです。みんな命がけで生きていたのだと思います。だから、狩猟組が帰還して留守番組と合流すると、群れは密集して互いに守り合う形となるわけですから、安全度が格段に高くなります。群れに帰るということで、みんな無条件に安心を感じていたと思います。

13 人間の脳から見た現代社会
  では、これほどまで共感に満ちて、寛容と受容があふれている人間の脳がありながら、現代社会では紛争や緊張が起こるのはなぜでしょうか。それは、現代社会は、人間の脳の能力を超えた人間関係を余儀なくされているからだというのが私の主張です。人間の能力と環境のミスマッチ
  人間の脳がいま述べたような機能を十分に発揮するための条件は、
・仲間が少人数であること(せいぜい150人くらいと言われている)、
・生まれてから死ぬまで常に一緒にいること、
・利害対立がない運命共同体であること。
数百万年かけて人間の脳はこのように形成され、完成してから200万年それほど進化をしてきませんでした。このような狩猟採集生活をやめて農耕が主となったのは今からせいぜい1万年位前のことです。生物の進化のスピードからすればつい最近のことで、真価が追いつく十分な時間がなかったということなのでしょう。人間の脳は、200万年前の環境には合理的に働くけれど、今の社会ではむしろ苦しみや不安が生まれる原因になるということをもっと意識するべきだと思います。
  現代社会は狩猟採取時代の200万年間とは、人間関係の状態に着目すると、全く異なっていることがわかります。
先ず、複数の人間関係に同時に帰属します。家庭、学校、職場、大きな意味で社会、国家、その他地域や趣味やボランティアの人間関係など様々です。今現在いる人間関係、例えば職場にいても、他の人間関係、例えば家族の思惑が入り込み、職場の人間関係だけを尊重するということは難しいです。<群れの数>
  次に、圧倒的に多い人間と何らかの関係を形成しています。職場の同僚、学校の同級生、家族、家から通勤通学中にも、莫大な数の人間たちと、触れ合うほど、満員で車では体がゆがむほど近くにいるし、何かを買う時は店員と関わったりします。車を運転すれば、誰からが交通ルールを守らないと大変危険な状態になるほど、見ず知らずの人と運命共同体にならなければなりません。これでは、人間の能力では、すべての人が仲間だとは思わないし、共感や共鳴をしていたらきりがないということになるわけです。つまり他者に対する共感や共鳴が希薄になるという性質があるということです。<人間の数>
  また、それぞれの群れは、ある程度長期に継続して人間関係が継続するとしても、構成員は入れ替わりが効くようになっています。退職、退学、脱退があり、家族ですら、排斥される可能性があるわけです。なかなか一生涯メンバーが変わらないという群れはありません。<代替可能な群れ>
  まとめると、人間の脳の能力を超えた群れの数、関わる人数が膨大過ぎて、人間が一人一人の人間に対して、共感することができず、相手の苦しみを目の当たりにしても寛容になれず、自分を煩わすものを受容することができなくなっているということになります。排除の予期不安は様々な群れすべてで起きやすくなっているわけです。
  その結果、自分が所属する人間関係から自分が共感されず、寛容をもって受容されないということが起こりやすいのです。そのため自分を守るという意識が敏感になり、自分を守る、自分の不安を解消するという目的で、他者を攻撃することが「できてしまう」ということなのだと思います。他方、攻撃される被害者は、必ずしも攻撃者が仲間として生き指定ないし、共感も十分行われないという特徴があります。攻撃の手を緩めてもらえない事情がここにあるわけです。相手に対する気遣いが無くなり、正義感情にもとづく攻撃が簡単に正当化される仕組みがここにあるわけです。
  攻撃は、自分より弱い者、反撃を受ける危険が少ない者に向かう性質があります。不安を強く感じやすく防衛意識が強いものが、防衛意識と能力の低い者を攻撃するという連鎖が起きるわけです。これが現代社会病理のメカニズムないし原動力なのだと思うわけです。

14 期待される家族の役割
  <寛容、受容>
  複数の群れの中のどの群れに対しても、人間は排除の予期不安を感じます。複数の群れ、しかも代替可能な群れに所属するということに馴れていないのです。買い物をしている一回限りの関係でも、失礼な態度に過敏になってしまいます。あたかも、200万年前の群れの仲間から攻撃されているようなダメージを受けることがあります。
このダメージを受けにくくする方法、受けたダメージから回復する方法としては、理屈の上では以下のとおりになります。
・ ダメージを受けた群れは、自分の唯一絶対の群れではなく、ダメージを受ける必要がないと思考をすること、いざとなったら群れから離脱すればよいということ。これによって、特定の人間関係の対人関係的不安を感じにくくする。
・ 自分の基本となる人間関係(アンカーとなる人間関係)との結びつきを意識的に強めることによって、他の人間関係でのダメージを感じにくくする。アンカーとなる人間関係の帰属意識が強くすることによって、安心を感じ、他の人間関係の排除の予期不安を感じにくくする。
  こういうことを考えています。
そのアンカーとなる人間関係は、家族であろうと思われます。少なくとも子どもにとっては家族しかありません。
家族の住む家は、通常は眠るために帰ってくるところです。帰る場所が癒される場所であることによって、翌日良い意味での緊張感を持った活動がよりよく期待できます。家族がアンカーとなることは合理的です。
  そして、職場や学校、あるいは隣近所の不具合があったとしても、家族が機能を果たしているならば、いざとなったら退職し、退学し、引っ越しをするということもできるという選択肢を持つことができます。不具合のある人間関係をこちらから中断すればよいと考えることができることは、予期不安の解消にも有効だと思います。
  家族は、生まれてから一緒に過ごしている人間関係なので、相手の感情もわかりやすく、情も抱きやすい関係と言えるでしょう。家族のために収入を得る活動をして、家族のために頑張るということは自然な感情ということになるでしょう。
  人間関係の中で代替可能性が一番低いのも家族なのではないでしょうか。
  この反対に必ず帰る人間関係である家族に不具合があることは、深刻です。家に帰れば、今の辛い状況から解放されるという希望を持つこともできません。逃げ場のない不安になってしまいます。

15 アンカーとしての家族に必要なこと
  では家族には何が必要でしょうか。どうすればアンカーとして機能するのでしょうか。それは、共感と寛容だと思います。これは実は簡単なことではなく、どういう方向に意識するかという教科書などもない状態です。
これは、不安がどこから来るかを考えれば自然にはっきりしてきます。現代日本の不安が、排除の予期不安であり、排除の予期不安の原因が自分のマイナスポイントに対して寛容に扱われず自分の個性が受容されない、他の人間関係では自分が共感を受けられず仲間として扱われないというところにあるわけです。そして排除の予期不安が生まれるということから始まるとすれば、その逆を行うことが家族の役割ということになると思います。
根本的に、家族の誰かが失敗しても、特定の能力が低くても、不十分なところがあっても、かけがえのない家族の個性として共感し、寛容の態度を示し、受容することによって、排除の予期不安を与えないということになると思います。突き詰めて言えば、家族から絶対に見捨てられることが無いという安心感を与えるということだと思います。観点と表現を変えて言えば、不安を感じないこと、仲間が自分を受容することが、人間にとって幸せを感じる環境なのではないかと考えています。それが200万年前の人間の環境だったわけです。
  こうやって家族から受容されることによって、人間は家族に対しての帰属意識が生まれます。他の人間関係で不具合があっても、家族のために頑張ろうという気持ちが生まれたり、家族にとって退職することの方が良いかもしれないという選択肢も生まれたりします。家族以外の人間関係で不具合を起こしても、その人間関係は自分にとってそれほど重要な人間関係ではないという意識が持つように誘導して、不具合によって受けるダメージを軽減する方法につなげることができます(対人関係療法等)。
  こうやって、私は、依頼者の方々と共に、いじめやパワハラ、虐待を解決しようと家族に働きかけてきましたし、一定の成果は上がっていると思います。
  社会病理にあふれる現代社会においては、家族が有効に機能を果たしていることは大変重要なことだと言えると思います。

16 家族が機能不全になる理由
  <孤立家族、病理にさらされる家族、家族が安心できる仲間ではない>
  現代日本における家族は、必ずしもみんながみんな、このような機能を果たせているわけではなさそうです。それにはいくつかの要因があります。
  一つは、家族以外の人間関係の状態が家族に悪い影響を与える場合です。これまで述べたことから理解されると思いますが、大人が職場やその他の対人関係で、排除の予期不安を感じている場合に、家族を攻撃しようとしてしまうことです。例えば、職場で上司に理不尽な低評価をされていて、嫌みを言われ続けていると排除の予期不安を感じます。同時に他者であるその上司を通じて自分を評価してしまい、自分に対する自信も失うことがあります。そのような不安が慢性的に続くと、常に自分を守る意識が強くなってしまい、家族の些細な言葉、子どもの意味のない言葉でも、自分が馬鹿にされていると感じられてしまい、不安が怒りになり、強い言動をしてしまうということがあるようです。
  これは、現在の人間関係だけでなく、これまで人間関係、場合によっては育った環境によっても、自分を過度に守る思考パターンになっていて、些細な刺激に過敏に反応するということが起こることもありそうです。巡り巡ると安心できない人間関係の中で、自分を取り巻く家族も苦しんでいたことの結果なのかもしれません。
  また、顔の見える人間関係だけでなく、社会という漠然な人間関係でも、自分が評価されていないという不安感があると家族への影響が生じる場合もあるようです。
  このパターンは、現代社会の特徴による被害が家族に及んでいると言える典型的な場面でしょう。
  二つ目は、体の問題が、家族に対する態度に影響を与える場合です。他の人間関係の不具合のようなはっきりした原因の無いにもかかわらず不安が抑えきれない時があります。元々原因が無くても不安を感じやすい性質だったり、病気の症状として不安が出現している場合や薬の副作用などの要因がある場合です。
  このパターンも深刻な人間関係の破綻を招くことがあります。このパターンは不安を感じている本人に主として原因があるのですが、それは本人も家族も周囲も気が付くことができません。本人が家族の誰かに不安を感じている以上、その家族が本人にDV等の攻撃をしていると思われることが多いです。相手は理由もなく攻撃をされていると思いますから、反撃をしてしまうわけです。どんどん家族の間に入った亀裂が大きくなってゆきます。
  このような事情は、薬の副作用以外は古来からあるようで、現代的な特徴ではないようにも思えます。しかし、古来は、家族は、地域や親せきに囲まれていて、不条理な不安という知識も受け継がれていたし、家族を維持する方向で周囲も支援をしていたという事情がありました。現代では、家族は孤立しています。また周囲は、不安を感じている人に支援をし、本人の主張をただ受け容れるという単純な支援をすることが多く、昔の人のように本人に言って聞かせるということはしませんから、家族は分断される方向に向かうばかりです。このような「家族の孤立」が現代的特徴なのだと思います。
  三つ目は、二つ目と関連しますが、家族を壊すアドバイスが横行しているという現代的特徴があります。家族の一人が不安を感じていて、その理由として家族の誰かの行為をあげたとします。それが、不適当な行為か否かは本来その相手の人の話も聞かなければ真実は分からないわけです。しかし、一方の不安に寄り添い、その不安を疑ってはいけないという思い込みがあり、訳も分からないのに他方の家族に対する攻撃を増長してしまう。こういう現象が全国に蔓延しています。人権は個人が個人として尊重されるべきだということは正しいと思います。それがゆがんだ形で扱われていると思います。
  本来、病気の症状として不安が起きている場合は、その病気を治療することが優先されなければなりません。しかし、本人の感覚を無条件に受け入れて、家族攻撃を行うわけです。本人は、自分の勘違いではなく、アドバイスをする立場の人が攻撃、怒りに同調しているのだから、自分の勘違いではないと考えてしまいます。その結果、自分は家族から低評価をされているという考えを再構成し、強化してしまいます。感じなくても良い排除の予期不安を感じさせられているということになると思います。
  このように、周囲がわかったふりをして本人の不安に「寄り添って」、不安を慢性化させていることも現代社会の特徴でしょう。本人に対して自分の意見を言って本人に改善を提案するのではなく、稚拙なマニュアルに従って本人の不安を助長する結果を生ぜしめて、人助けをしたような高揚感を得ているというのも現代社会の特徴のような気がします。
  四つ目は、家族が孤立していることです。忙しい家族が孤立していれば、家族の異変に気が付いて、立ち止まって対策を講じるというところまで行きません。また、家族の異変に気が付いても、少ない人数の場合は解決方法を見つける可能性も低くなります。間違った方法で行動をして逆効果となったり、何もできないで事態を悪化させるということもそもそも人数が少ない上に孤立していることが原因であることが多いと思います。過去の人間の対処方法であるおばあちゃんの知恵袋なども使うことができずに、時代にうずもれてしまうというもったいないことが起きているのだと思います。家族の外に緩やかな仲間を形成しにくいということも現代日本の特徴だと思われます。

17 家族の機能不全に対抗し、人間を守り、社会を変えてゆく 自然と湧きあがらない理性という人間にしかないツールの活用
  世の中にはひどい誤解が蔓延していて、ようやく21世紀になってそれが誤解であるということが浸透してきました。それは、人間は理性によってものを考えて行動をするという誤解です。
  もちろん人間は、理性を持っています。しかし、理性を使うということはなかなか行いません。理性を使うことは大変なエネルギーを使いますので、無意識に理性を使うことを回避しようとします。その代わり、本能的な意思決定をして、思考エネルギーを節約しようとしています。この考え方を「ヒューリスティック」といいます。例えば、いつも一緒にいる人が言っているのだから賛成しておこうとか、外見の良い有名人は自分にも親切ではないかとか、自分の意見によく反対している人が言っているから、自分はその人の意見に賛成しないとか、反射的に判断をしてしまうわけです。これは多くの場合は、思考エネルギーを節約するうえに、結論としてもそれほど不具合は起こりません。
  だから、日常生活において、立ち止まって考える習慣がどんどんなくなっていくわけです。子どもが学校に行きたくないと言えば、何となく怠けているのだろうから絶対に行かなければならないと言ってしまいますし、夫が尊敬できる上司からひどく叱責されたと言えば夫が何か失敗をしたのだろうと考えてしまうのかもしれません。専業主婦の妻が片付けをしなければ、自分だけ外に出て辛い目にあって給料を得ているのに何サボっているのだとなると思います。ヒューリスティックの意思決定に任せていたのでは、とても家族に寛容になることも、失敗を許すこともできないでしょう。
  不安を持っている人たちは、どんどん家族の中で孤立していきます。家族の失敗、能力不足、行動の不十分点に寛容を示し、受容するためには、どうやらヒューリスティックの思考を排除して、理性を使う必要性がありそうなのです。
  理性を使うためには、自分は家族に貢献できていない、もっと家族に貢献しなければならない、家族から見捨てられるのではないかという自分の責任感、生真面目さも克服していくことが必要なのかもしれません。ここがもしかしたら一番難しいことなのかもしれません。

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