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苦しんでいる人に寄り添うカウンセリングが人間関係を破綻させるメカニズム。母親の味方をして父親を攻撃する子は、必ずしも父親を嫌いなわけではないこととの共通性と許されない相違。 [事務所生活]



私は、何年か前から、一部の精神科医や心理カウンセラー、それと何も考えないでマニュアル通り対応する一部の弁護士や行政などの支援者が、傾聴とか言って、精神的に苦しんでいる人の「言葉」を否定せずに、「寄り添い」とか言って、すべて駄々洩れのように肯定し、あろうことか、積極的に言語化して「こういうお気持ちですね。」などと念押しまでしていることに違和感を覚えてきました。本能的に言い知れぬ不快を感じていました。

また、そのような「寄り添い」が、壊れなくても良い人間関係を壊し、結局当事者を孤立させるなど、新たな不幸を招いていることもみてきました。

(夫婦間のケース)
典型的な話は夫婦間の話です。色々な理由で、妻なり夫なりは、夫婦でい続けることに自信が持てなくなることが多くあるようです。自分が嫌がられているのではないかと思うことがあるのが実際の人間のようです。その疑心暗鬼が体調や偶然の出来事が原因で病的になることもそれほど珍しくありません。そんな時、誰かに相談をして、「それは夫の(妻の)モラルハラスメントです。あなたが苦しいのは当然です。」等と言われれば、単なる疑心暗鬼が、自分が迫害を受けているという確信に変わり、仲良くし続けたかったはずの相手が、自分にとって害悪をもたらす「敵」に変わっていってしまいます。このようなケースの離婚は、最近多いです。こういうケースの場合に離婚を突き付けられた相手は、自分の何が悪いのか心当たりがありませんから、離婚自体を激しく争うわけです。また、二人の間の出来事が悪意に満ちて表現されて裁判所で主張されるわけですから、新たな憎しみがおこるわけです。裁判所は関係破綻のアリ地獄のような様相を見せます。

(親子間のケース)
親子関係が壊されるケースがありました。子どもも大きくなりかけた人が、精神的に悩んでいてカウンセリングを受けたところ、その相談者の母親の相談者に対する育て方が悪い、育て方が原因で相談者は苦しんでいるということになってしまって、相談者は母親を攻撃するようになってしまいました。相談者は、ある心理的に影響を与えた出来事をカウンセラーに隠していました。軽いミュンヒハウゼン症候群みたいなところがありました。その相談者が嘘をついたことでその相談者自身が不利益を受けることは仕方がないのですが、その相談者の母親は攻撃を受けてとても苦しむようになりました。その相談者の母親はこれまで働きながら家事をして一生懸命生きてきたのですが、その人の人生そのものが否定された結果になりました。

(いじめ被害者の家族)
いじめを受けたお子さんの親御さんについても同じようなことがありました。いじめの被害者は、実際よりも孤立していると感じやすくなっています。よく聞くと大抵のケースでは、いじめられている子を心配して、手を差し伸べる子がいるもので、その事実をいじめ被害者も認知しているのですが、手を差し伸べている、自分を心配しているというその子の心情を理解できない状態になります。支援者は、その子の歪んだ認知を肯定してしまい、被害者と家族を絶望させ、何らかの差別からいじめが始まったと思わせてしまい、破れかぶれの攻撃を仕掛けさせてしまいました。本来支持されるはずの被害者家族は、その行動によって地域から孤立してしまい、いじめによる被害のスパイラルが拡大してしまう要因を作ってしまいました。

(いじめを受けた本人のケース)
噂話を流されて、心理的に参ってしまった人のケースもありました。特定の人が相談者に対して、何度もやることなすこと揚げ足をとるようなSNSを発信していました。言われている被害者は、だんだん認知がゆがんでしまって、自分がこんなことを言うと自慢話をしていると言われてしまうとか、こういうことを言うと批判されてしまうという「被害者の心理」に陥っていました。その批判者の論理や価値観で物事を考えるようになってしまっていたのです。支援者は、その批判者の論理を前提として、発言や行動を控えようとしていた被害者の行動を支持してしまいました。しかし、それは、批判者の論理や感情が一般的な社会常識であり、従うべきことだという被害者の被害者の心理を増強させてしまいました。被害者の要求がそういうものでしたので、その被害者の要求の言葉に無条件に寄り添ったわけです。私は、行動を控えるということは一次的には賛同したものの、社会常識的に考えて、それが自慢と受け止める人はいない。悪意のある人でなければ自慢とは取らない。批判があったとしても正当ではないと思うと言いました。被害者の言葉を肯定し、承認するのではなく、批判者の論理、価値観を否定することが必要なことではないかと思いました。

もちろんカウンセリングが有効ではないということを言いたいのではありません。私自身、信頼しているカウンセリングチームや精神科医に対して、自分の依頼者を積極的に紹介し、精神的体力を整えて人間関係の紛争を解決するという手法をとっていますし、その方法論の第1人者であると自負もしています。

しかし、真面目で優しい、そして正義感が強い心理的支援者ほど、間違いを犯すことが多いように感じていることも言うべきだと思うようになりました。

ところで、このように人間関係に苦しんでいる人は、感じ方が「被害者の感じ方」になっていることが多いです。実際の困った事態以上に困って苦しんでいるのです。「被害者の感じ方」としては、
悲観的になる(どうせだめだろう。状況はますます悪くなる。)。
二者択一的になる(どちらが善でどちらが悪か。敵か味方か)。
原因を単純化して特定して責めたくなる(私を苦しめるのはどの人)。

カウンセリングは、このような感じ方の変化(認知の歪み)を見つけて、修正し、必要以上に悩まなくなるように、誘導するべきなのではないかと漠然と考えています。ただ、苦しんでいること自体は否定することはしてはらないということは素人の私にもなんとなくわかります。
もっとも私は弁護士ですので、認知の歪みを正すことを目的とした支援をするわけではありません。人間関係の不具合を是正する、あるいは緩和することが仕事の内容です。認知の歪みを積極的に見つけるということは二の次の話です。こういうアプローチにはメリットも多くあるようです。修正するべき人間関係がない、あるいはそれほど修正の必要性が高いとは思えないということを指摘することができるのは、そういう仕事の性質というアドバンテージがあるのかもしれません。テクニックというよりも、自分がこれまで歩んできた経験と合理的な第三者的思考を活かすというか、まさに人格対人格の切り結びの中で一番良い方法を考えていこうというアプローチというしかないのかもしれません。操作的テクニックがあるわけではないのだろうと思います。
また、状況によって被害者の心理が生まれることも理解することは大切です。本来そのように苦しまなくても良いのに苦しんでしまうことが人間の心理というか生理というか、ごく自然なことであることも説明することができます。
つまり、
「あなたが、苦しんでいることには理由がある。私があなたでも同じように苦しむでしょう。それはこういう人間の性質から苦しんでしまうし、実際より余計に苦しんでしまう。誰でもそうなる。実際の状況はこうである。そうすると、こういう戦略をとる必要はない。そういう戦略はデメリットが大きく、こういう新たな不利益を生みやすい。むしろ、実際の状況がこうなのだから、この人を味方に引き入れることができる。しかし、相手方の負担を考えると、ここまで協力してくれれば御の字で、これ以上初めから要求するべきではない。大事なことは着地点をどこにすることを目標として、現状よりどう改善するかだ。」
と、問題解決の方向に発想を切り替えることが可能となるわけです。

一部の支援者やカウンセラーは、どうしても、目の前の苦しんでいる人を助けたいと思われるのでしょう。苦しみを否定したくない、あるいは否定してはならないという縛られた発想から、その人の歪んだ認知にもとづく苦しみの原因についても否定しないという誤りを犯してしまう原因がここにあるようです。結局、この人たちは、苦しんでいる人がその人間関係の中でこれからも生活することをリアルに想定していないと批判するべきではないでしょうか。相談に来た自分の前で、苦しんでいる人の苦しみが軽くなったという報告を受けたいということになるように思われてならないことが最近特に多くあります。だから、アドバイスの結果、その人間関係にいることがその人の苦しみの原因だということになってしまい、乱暴にもその人間関係からの離脱が単純な結論になってしまうのかもしれません。人間関係の離脱を自己目的化したマニュアルもあるようです。まじめな支援者たちは、そのことに気が付いていないようです。そうして、今の苦しみから逃れたいと渇望している人が、藁をもすがる気持ちでその人間関係から離脱して、その結果生活が苦しくなって、相談員に相談をすると、その相談員は自分が責められていると感じて、その離脱は「あなたが決めたことです。」等と平然と言ってしまうことができるのだろうと思います。一時的に心が救われたらよいというわけではないと言いたい事例は残念ながら多いです。

よくあるケースですが、専業主婦の相談者から、私は毎月の家計を夫から2万円しか渡されていないという類型の相談がされることが良くあります。そうしてその相談の結果、経済的虐待だということが離婚の大きな理由として離婚訴訟が提起されることがあります。しかし、よく話を聞くと、夫の収入は手取りで20万円以下。光熱費や子どもの学費は口座引き落とし、食料品や雑費は毎週家族で買いに行き、これは夫が出している。結局その2万円は、妻の小遣いだったわけです。もちろん小遣いとしても少ないという不満は正当ですが、ある意味仕方がないということも言えるわけです。もちろん夫には小遣いはありません。どちらかというと、虐待されているわけではなく、精いっぱい尊重されていると私は思います。私ならば、相談を受けたとき、そこまで聞きます。最近の相談員は、簡単に相談者の相手を否定評価してしまいます。この事例等、完全にミスリードです。自分は小遣いもないのに妻には精いっぱいのお金を渡しているのですから、妻は愛されていると思いますよ。給与明細を見せないという不満も聞かれますが、それは妻をないがしろにしているというよりも、自分の収入の低さを気に病んで事実を見せたくないという気持ちではないかと自分の考えを伝えるわけです。どちらが正しいかはご本人が判断することですが、選択肢は本来たくさんあって当たり前のはずです。しかし、一部の相談員に相談に行くと、不思議なまでに選択肢は一つなのです。
但し、これは思想的なものとばかりは言えないようで、どちらかというと相談者の心に「寄り添う」ことを第一に行わなくてはならないというカウンセリング手法に問題があるように思えてきました。人格的な切り結びという、相談員にとってもかなりの精神的体力が必要な相談手法を省略して、マニュアルをなぞる相談手法は楽なのだと思います。でもそれって、相談者をある意味人間扱いしていないのではないかという恐怖を感じるところです。

さて、このように目の前の人の感情を緩和させることが唯一最大の目的で行動することを事件の過程でよく目にします。
別居や離婚をした母親の苦しみを緩和させるために、父親を攻撃する子ども(特に娘)の事例です。このメカニズムについては、既に長々と考えましたので、割愛します
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

子どもは一緒に住んでいる母親が苦しんでいることを目撃すれば、母親の苦しみを軽くしてあげたいと思うわけです。母親の苦しみには自然と共感してしまい、自分も苦しくなるからです。そうして自分が父親を嫌っている、必要としていないということを言うと、母親の苦しみが軽減することを体験的に学習してしまっています。ありもしない父親の暴力があったということを言い出すと母親が安心することも学習しています。母親は病的に苦しんでいることが実に多く、不安症圏の診断名が付いていることも多くあります。実際は頭部外傷の後遺症であったり、婦人科疾患によるものであることも多くあります。子どもにとってそんなことはどうでも良いことです。一緒に住んでいる唯一の肉親が苦しんでいるのだから無条件に何とかしてあげたいと思うわけです。同居中の真実なんてどうでもよいわけです。
実際は見ていない(存在しないし、存在したとしてもその場にその子どもはいない)夫婦間暴力によって、PTSDの診断がついてしまうのも、あながち精神科医が適当なことをやっているというよりも、繰り返し母親から聞かせられた出来事や母親の精神的苦痛が刷り込まれて、自分の苦痛だと思ってしまっているという事情があるのかもしれません。
離婚調停などで、子どもは、調査官調査の中でとか、母親が書かせた子どもの陳述書などで父親を攻撃する言動をしているかもしれません。しかし、それは、母親を守ろうという意識が精いっぱいで、それ以上物を考えていないからです。それから、同居中の記憶が失われていたり、本当は、自分が悪く親から注意を受けている場面も、親が自分に暴言を吐いたというように記憶が変容しているからです。子どもはけなげに自分の母親を助けようとしているだけなのです。
これ冷静に考えると、同居中だって、夫婦喧嘩の時に母親が先に取り乱せば母親の味方をすることが多いように思うのですよね。父親は裏切られたと思うのですが、結局被害者アピールを見せる方に、子どもは味方するわけです。だから、

子どもに正当なジャッジを期待していけない

ということは、親として肝に銘じなければなりません。また、子どもは、父親に会うことが現実的になった場合、罪悪感に苦しみます。実際会ったときに、父親が「あの時悪口を言いやがったな」という気持ちになれば、顔に出て、面会はぎくしゃくします。そうではなく父親が「そんな事ちっとも気にしないよ。パパの代わりにお母さんをかばってありがとうね。」という意識で、いつも通り「やあ。」と言えば、子どもはすべてを許してもらったことを理解し、時間の流れを飛び越えて同居中と変わらない関係が瞬時に再現できるわけです。
(困ったことは、こういう子どもの気持ちを家裁の一部の調査官が理解していないことです。子どもの矛盾した言動が矛盾していることにも気が付かないし、別居親を否定するときに具体的なことを言わないこと、すべて調停や訴訟で出てきた同居親が主張した出来事しか言わないということに疑問を持ちません。母親の意識とは独立して子どもの意識があるはずだとか、子どもしか知りえない様子があるということを理解していない。つまり子どもが独立した人格を有する人間であることに思いが至っていないと感じます。子どもの発した言葉を言質を取ったように考察の根拠としています。)

子どもは母親と人格的な切り結びをすることは無理です。母親が子どもに依存すればするほど子どもも母親に奉仕しようとするし、喜びや悲しみという感情さえも依存しようとしてしまうようです。その関係にくさびを打つ可能性があるとすれば、それは父親の子どもに対する寛容の姿勢を示すこと。そこからしか物事は始まらないのだと思います。


いずれにしても、子どもが母親(場合によっては父親)をかばうことは、大目に見なければなりません。父親を攻撃しているわけではありませんから。しかし、中途半端な職業支援者が、クライアントを擁護するために、別の人を攻撃した場合は許されることではないと感じています。クライアントの気持ちを軽くすることはよいとしても、だからといってそのために別の誰かを傷つけて良いということにはなりません。そして、そういうクライアントしか人間として認めない手法の支援は、結局クライアント自身も苦しみから解放しない可能性が高いということからです。

自分の人格を総動員して、相談に乗る。こういう姿勢がない相談は、相談者にはわかられてしまうと思うのですが、どうなんでしょう。
ある相談員のおおもとの組織のあるマニュアルというものを見て、危機感が募ったものだからこんなことを考えてみました。

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