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侮辱罪の厳罰化には賛成する側面と反対する側面とあること 厳罰化の前提として行うべき【加害防止教育】 [弁護士会 民主主義 人権]


プロレスラー木村花さんが亡くなったこと等をきっかけとして
ネットでの中傷を防止することの必要性が注目されています。
その一つとして、法務大臣は
侮辱罪について、これまで拘留・過料という軽い刑罰から
罰金・懲役というそれに比べれば重い刑罰に
変更することを検討すると発表しました。

私は、これまでも同じ話題で意見を述べたことがありますが、
ネット誹謗中傷の発信者特定開示と厳罰に関する要求キャンペーンに対する疑問。この国の「リベラル」の形 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-05-27
もう少しきめ細かな議論をするべきではないかと考えるようになりました。
法務大臣の問題提起が具体的であるため、
考えが進んだということになると思います。

法律改正は様々な効果があり、メリットもあればデメリットもあるわけです。
厳しくすればよいというものではありません。
それでも、法律を制定した時代と現代では、
社会の在り方が変わったというのであれば
法律の内容も変えなければならないということはあると思います。

今回、侮辱罪を厳罰化するということで、
なるほどそういうことかもしれないと思いました。

刑法が制定されたのは明治40年です。途方もなく昔です。
当時は、人は侮辱されても
それだけで命を落とすということはそれほどなかったのでしょう。
また、その人を侮辱だけで死に追い込む人も
それほどいなかったのでしょう。

他人を侮辱する場合、
基本は、面と向かって侮辱する
あるいは氏名を明らかにして侮辱する
ということが念頭に置かれていたと思います。
侮辱する方も反撃を覚悟して侮辱をしていたと思います。


当時は匿名での侮辱は、侮辱として力がなかったと思いますし、
どこの誰ともわからない人から侮辱されるということや
自分とは利害関係を持たない人を侮辱するということも
現代と比べて少なかったはずです。

ところが、現代では
インターネットで、同時に同じ空間に
途方もない人数の人が話題を共有しており、
匿名で誰からも分かられず、
覚悟もいらないで
酒を飲みながらでも侮辱することができるようになりました。

特に利害関係のないはずの人も
また事情をよくわからない人も
過剰な正義感で、誰かを非難する
ということも可能になったのだと思います。

インターネットを利用せずには生活ができなくなり、
インターネットの書き込みも
自分を取り巻く社会だと思うようになり、
インターネットの中傷も簡単に検索することができるため、
自分に対する中傷を発見しやすく、
それが自分の身の回りで自分が否定されていると感じやすくなり、
しかもその中傷に反論する機会も説明する機会も与えられず、
無防備に攻撃にさらされるようになったと言えるかもしれません。
このため、侮辱によって命を落としたり
精神的に破綻したりという
重大かつ深刻な被害が生じるようになったと言えるのかもしれません。

現代社会においては
侮辱から国民を保護する必要性は高まっていると言えるかもしれません。

そうだとすれば侮辱罪の厳罰化というのは
賛成するべき理由も大きいと
考えが大きく動いているというところです。

但し、保護法益は、あくまでも個人であり
主として精神的なものということになるので、
その角度から限定しなくてはならないと考えています。

警戒しなくてはならないことは
政治家に対する政治的批判を侮辱罪の対象としないこと
企業の内部通報をしにくくしないこと等です。

但し、政治家に対する政治的批判ならよいのですが
コラージュや漫画化して人格を貶めるような表現活動を見ますが
私と激しく意見の違う人がされているのを見ても
私はとても不快に思います。
表現の自由との兼ね合いは本当に難しいところです。

次に、侮辱の手段として
インターネットの書き込みによるものが
禁止の必要性が高いと私は思いますので、
侮辱罪を一般的に厳罰化するのではなく
侮辱罪の特則として、インターネットによる侮辱罪として
限定するのも一つの方法かなとも考えています。

次は、侮辱の文言を限定するということがあると思います。
どんな場合でも共通して禁止するべきは
「死ね」、「消えてなくなれ」等の命や存在を否定する文言は、
どんな場合でも処罰の対象とする必要が大きいと思います。

こういう言葉は子どもでも日常的に使っているようです。
その学校での発言にも厳罰化で対応するかというと
ここはちょっと躊躇します。
私はインターネットへの書き込みに限定するのも
バランスが取れて良いのではないかと思いますが、
考慮できていない要素もありそうな気がします。保留します。

次に、直ちに生命を否定するような侮辱ではないにしても
その侮辱をなされたならば
精神的に追い詰められて自死になりやすい場合も
処罰の対象とすることが考えられます。

中高年に対しては
これまでの人生を否定してしまうような言動であり
若者に対しては
これからの人生を否定してしまうような言動ですね。
あるいは、命はともかく
絶対的孤立を強いるような言動も危険ですね。

これをすべて処罰化することはなかなか難しいと思います。

では、限界事例はどうなのか。例えば
「あなたは存在する価値がないのではないか」
「人間のカテゴリーに入らないのではないか」
というような発言は
極めて深刻な中傷ですが、
生命を否定するとまでは言えない。
しかし、生命を否定することと同じ程度だったり、
あるいは、生命を否定する以上のこと
ということになります。

どれが刑罰の対象となり、どれがならないか
刑罰法規を作る以上明確にしておかなければなりません。
そういう難しい問題はあるわけです。

本当に必要な国の行為なので
政権が提案して野党が反対する
というような単純な政治問題にはしないでほしいと願っています。

このように法律を作って、国として
刑罰をもってしても禁止するべき範囲を提案する
という方法も大切なのですが、
どうしても刑罰の範囲は限定的にならざるを得ません。

刑罰にならない言動が
社会的に許される言動というわけではない
ということはお分かりいただけたと思います。

先ず、道徳などの社会的ルールとして
やってはいけないことというものが設定されて
その中の悪質なものは刑罰で禁止する
という流れが必要だと思います。
そうでなければ、
刑罰で禁止されていないことはやっても良いという
流れになるか、
デメリットを気にしないで広範な行為を刑罰で禁止する
という流れになるしかないのです。

あなたが何気なくつぶやいたツイッターやフェイスブックが
想定していない誰かが傷ついたということで事件化したら
あなたが逮捕されるということが横行してしまう
という危険があり、
それを避けようとしてしまうと、刑罰付きの法律はあるけれど
いちいち逮捕すると大変なことになるということで
多くを見過ごしてしまうということになってしまうということです。
しつこいですけど、それではだめだということで
すべてを逮捕していたら
犯罪なんて誰でもやることだ、逮捕されても運が悪いだけだ
ということで、犯罪が身近なものになってしまう
そうなってしまうと、刑罰があるから犯罪をやめようという
抑止力が無くなってしまうという
そういうことまで考えて法律は作らなくてはならないのです。

だから、刑罰を作るのは良いとしても、
それが刑罰の対象になるということを
国民が納得するような社会ルール作りを
刑罰に先行して行う必要があるわけです。

この点に大きな問題があると思います。

つまり、これまで国や日本社会は
無責任にインターネット活用を推進するだけで
それによる弊害に対してきちんと対処してこなかった
という問題です。

せいぜいしていることは、
極めて不完全な被害防止の啓発です。

しかし、本当に必要なことは
SNSを通じて人を傷つけるという
加害行為を防止するための啓発活動です。
この視点の活動が弱すぎると
私は思っています。

その結果加害行為が蔓延し、
その結果被害が増大するわけです。

本来ならば、SNSの使用は年齢制限を設ける
ということも検討されるべきことだと考えています。
加害防止の観点からです。

しかも、これは子どもに限らず
大人でも同じです。
企業内のメール連絡やチャットなども
労務管理で行う時は
信じられない表現が横行しているようです。
立派な会社で、インターネットに関連する会社であってもです。

これまでさんざん述べてきたことですが、
なぜメールやSNSが人を傷つけやすいか
どんな時に人が傷つくのか
そこを考えた上で
加害者防止教育、啓発活動を
徹底することが必要です。

これが無くて厳罰化だけが進められると
絵にかいたモチになるだけでなく
弊害も生まれやすくなると私は思います。


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